雑渡さんと一緒! 80


「なまえはさ、本当に要領が悪いよね。見つけて驚いたよ、まさか数学が60点だったとはね。一応、単位は出たみたいだけど、これでは四年で卒業なんて難しいんじゃないの?ほら、だから退学してさ、私と結婚するというのも手だと思うよ。なまえの作るご飯は美味しいから、なまえはいいお嫁さんになる。それで何年かしたらさ、私の子供を産んでよ?そうだなぁ、私は女の子が欲しいな。なまえによく似た女の子。絶対に可愛いよ。きっと私は物凄く甘やかしてしまうだろうけどさ、その時は私のことをなまえが怒って。あぁ、でもなまえは怒らせると怖いからなぁ…ねぇ、初詣の時、私がどのくらいホッとしたか分かる?あの三日間は今思い出しても怖いんだから。いや、まぁ、私が悪かったんだけどさ。だけど、私がなまえ以外の女に興味なんてないことくらい知っていたでしょ?あんな本、本当に買わなきゃよかったよ。なまえの代わりなんていないのに。私が愛しているのはなまえだけだよ。これは本当だから。他なんて何も要らないんだよ」


窓から外を見ると桜が舞っていた。二人で見ようと約束した。お花見に行こうと約束したんだよね。なのに、どうしてなまえはいつまでもこうしているんだろうか。私は寝起きが悪いけど、なまえも大概だ。
そっと頬に手を当てる。昔から私によくこうしてくれたね。まるで私を受け入れてくれているかのような、そんな温もりが初めは怖かったけど、いつしか愛しく感じるようになったよ。ねぇ、またしてよ。慈しむように笑いながら。


「…あぁ、駄目だ。もう食べられないや」


コンビニで購入したおにぎりをゴミ箱に捨てて、時計を見る。そろそろ行かないといけない。朝礼が始まってしまう。
私はなまえの頬に唇を寄せてから、病室を出た。
私が出勤すると、みんな憐れむような目で見て来た。もう慣れたこととはいえ、私はまだそんなにも酷い顔をしているのだろうか。ちゃんと食事だって三食摂るよう努力している。なのに、スーツのサイズが合わなくなって来た。最近、太ってきていたから、丁度いいはずなのに。むしろ、ジムなんかに行かずに済んでよかった。運動なんてベッドの中でするだけで十分だ。ここ最近はしていないけどね。


「おはようございます」

「あぁ、おはよう。今日の昼、代われそう?」

「ええ。お任せ下さい」

「助かる。これでなまえとご飯が食べられる」


陣内に礼を言ってパソコンを開く。ようやく決算が終わったというのに、こうしてすぐに新年度が始まってしまうのだから、慌ただしい。時間なんて本当にあっという間に過ぎていく。残酷なほどに。
なまえは手術が終わっても目を覚まさなかった。医者に心房細動だの血栓だの閉塞だのとよく分からない単語が並べられたが、要は心臓が痙攣を起こし、それによって生じた固まった血が脳まで飛んでいき、詰まった。そういうことらしい。医者は続けて心臓の治療は成功した、脳の血栓も無事に溶かすことが出来た。だけど、どんな障害が出るか分からない。運動障害か、意識障害か、それとも生命を維持することが出来なくなるかは分からない。そう言った。私はその説明を聞いた時、あまりにも無責任だと感じた。当然、私は医者に対して分からないとはどういうことかと怒鳴ったが、本当になまえが今後どうなるのかは分からないらしい。ただ、常に覚悟だけはしておいて欲しいと言われた。
覚悟なんて出来ていない。だけど、いつまでも泣いてはいられない。どんなに悲しくても、つらくても、時間は過ぎていく。せめて、なまえが目を覚ました時に悲しまないように私は普段通りに仕事をこなし、普段通りに食事を摂ろう。そう思えるまで二週間かかった。
2月は部下に迷惑を掛けた。私は2月の月末処理を何も出来なかった。一応、出勤こそしたものの、何も手にはつかず、何の戦力にもなることが出来なかった。それでも誰も私のことを責めはしなかった。あの厳しい社長でさえも。


「…お。何してるの?こんな所で」

「社長にご挨拶に伺った」

「あぁ。よかったね、本当に」

「そうだな。慈悲を頂けた」


結局、売り上げを三倍には増やすことが出来なかった。いいところまではいったが、2月と3月で売り上げが一気に落ち込んだ。それはそうだろう、私と同じく、この男も失意の中にいるのだから。気丈に振る舞ってはいるが、妻を亡くした時のことを思い出しては泣いているのを私は知っていた。
この男は約束通り社長の座を降りなければならないはずだったが、あと一年猶予を頂けた。上納金こそ20%に上げられてしまったが、あの社長がこんな優しさを見せてくるとは思わなかった。優しさといえば、社長は私になまえのことを何も聞いてこなかった。状況は陣内から報告されているのだろうが、責められるわけでも、心配されるわけでもなく、いつも通りに接して下さった。それが私にとっては救いだった。なまえのことを口にするといつ泣いてしまうか分からないから。この人にはきっと私は生涯敵わないんだな、と思った。
午後の契約を一件、陣内に代わってもらい私は再び病院に顔を出した。出勤前に行き、昼に抜け出して行き、仕事が終わってから行く。そこで食事を摂りながらなまえに色んな話をする。それが私の日常となりつつあった。初めは看護師に面会時間がと怒られたが、無視し続けていたら何も言われなくなった。むしろ憐れみの目線を向けられるようになった。憐れまれることなどないのに。私は最近、誰からも憐れまれているなぁと思いながら病室を開けると、北石がいた。


「あぁ、また来てくれたんだ」

「なまえの親友なので」

「そう。なまえも喜ぶよ、ありがとう」


よかったね、となまえの頭を撫でる。もうあの時みたく口に太い管が入れられることも、何本も点滴を両手から入れられることもなくなった。首の太い血管から栄養と血圧を保つ薬がいっているだけで、見た目はすっきりとしている。この可愛い顔には傷一つなく、つい何時間でも見ていたくなってしまう。顔色だってもう悪くない。
北石に断ってから弁当を開ける。全然美味しくなさそうな見た目の弁当はやはり美味しくなかった。なまえと付き合う前まで毎日食べていたはずなのに、砂を噛んでいるよう。


「あの、雑渡さん…」

「ん」

「なまえのこと、気付いてあげられなくてごめんなさい」

「それはもう聞いたよ」

「だけど、私が気付いていれば、こんなことには…」

「それも、もう言った」


北石は自分がなまえの異変に気付けなかったことを責めていた。だけど、それは私も同罪だ。いや、私の方がもっと罪深い。異変に気付いていながらも何もしなかったのだから。だから、北石が自分を責める必要なんてない。そう言ったはずなのに、それでも北石は自分をまだ責めているようだった。気持ちは分かる。私も同じだから。だけど、そんなことをしても何の解決にもならないから、自分を責めるのはやめた。意味もなく自分を傷付けても状況は変わらないのだから。
北石は目を擦ってから私に紙袋を差し出して来た。


「…買って来ました」

「あぁ、ありがとう。私ではよく分からなくて」

「いいえ。ただ、なまえってこんなに高い物を使っていたんですか?しめて10万くらいはしましたからね?」

「いや、何か使ってみたいって前に雑誌を見ながら言っていたような気がしたから。ありがとう。お金、足りた?」

「足りました。はい、おつり」

「要らない。その代わり、また何かなまえが喜ぶ物を教えてもらえると嬉しい。本当に私ではよく分からないから」


こんなにも一緒にいたのにね、と笑うと北石は黙った。
私はなまえと一緒に過ごしていたのに、何が欲しいかなんて全然分からなかった。それに、北石に言われるまでスキンケアをちゃんとした方がいいなんて思い付きもしなかった。このへんはやはり女の意見なのだろう。私では到底考えつかなかったのだから。
昔もそうだった。なまえに何を贈れば喜ぶのか全然分からなくて、行きたくもない街で何時間も過ごした。結局、散々迷った挙句に無難な物を購入したが、なまえは凄く喜んでくれた。懐かしくなって、なまえの髪を指で梳いた。


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