雑渡さんと一緒! 84


「雑渡さん、起きて下さい!」

「んー…?」

「もう、いつまで寝ているんですか?」

「もう少し寝かせてよ…」

「ほら、朝ご飯が出来ていますよ」


笑うなまえの手を取ったところで目が覚めた。隣には誰もいない。家は静まり返っている。それはそうだ、この家には私しかいないのだから。
悲しくて涙が出た。どうして私の隣になまえは眠っていないのだろうか。寂しい。気が狂いそうなほど寂しい。
ベッドから出て、リビングに行く。ソファにもたれ掛かりながらテーブルの上に置いてある煙草を手にした。灰皿からは吸い殻が溢れ出ていて、テーブルに散らばっている。いつもはなまえが綺麗にしてくれていたから。
この家に一人でいることは苦痛以外の何ものでもなかった。なまえの軌跡が多過ぎる。どれも幸せな思い出だ。なのに、空の冷蔵庫も汚れたテーブルも冷たいベッドもなまえがいないと教えてくる。息が苦しくなってきて、煙と一緒に嗚咽が出た。私は一人だ。一人、取り残されている。
とても寝直す気分にはなれず、スーツに着替えて病院へ行った。もう今日はこのまま出勤するつもりだ。どうせ家にいたって寝られないだろうし、落ち着かないのだから。
まだ病棟は真っ暗で、看護師は私の顔を見て驚いた顔をしたけど、特に何かを言ってはこなかった。
病室を開けると真っ暗だったが、誰かいることに気付いた。


「何をしている」

「ひっ…こ、こんな時間にどうされましたか?」

「聞こえなかった?何をしているか聞いている」

「………」


看護師はなまえから離れた。パチっと部屋の電気を点けると頬が赤くなっている。あぁ、これはまた随分と舐めた真似をしてくれたものだ。私のなまえに手を上げたのか。
看護師はまずいところを見られてしまったといった顔をした。だから私はあえて笑い掛けてやった。これでも営業職を何年もやっている。なまえには貼り付けた笑顔だと言われたが、きっとこの程度の女には分からないだろう。
私が笑い掛けると案の定、女はホッとしたような顔をした。


「この子はもうすぐ死にます」

「そう。そうかもしれないね」

「こんな時間に面会に来ても仕方がないです。いつまでもこの子に思い入れても無駄なことだと思います。だから…」

「…ねぇ、それじゃあ君のことを私に教えてくれない?」


女は私が優しく話していると思ってくれたのだろう。ぺらぺらと名前や住まいを話してくれた。愚かな女だ。
例にもよって、女は私の社章を見ながら笑い掛けてきた。


「あなたはタソガレドキの方ですよね?お名刺を下さい」

「あぁ、そうしたいんだけど、生憎と今は切らしていてね。また次に会った時にでも渡すよ」

「必ずですよ?」

「うん。また、今度」


女が嬉しそうに笑いながら病室を出て行ったのを見届けて、すっと真顔に戻る。つまらないことに表情筋を使ってしまった。なまえの浴衣をはだけさせると、腕も赤くなっていた。あぁ、これはもう始末するしかないな。ペラペラと教えてくれたお陰で押都に頼まなくても私の手で始末できそうだ。
もう二度と看護師など出来なくしてやる。私のなまえに手を上げたのだ、その位では物足りない。こんなことをして、ただで済むと思っているというのが心底腹立たしい。照星を使って前科をつけてやる。もう二度と顔を見せるな。
赤くなった頬を撫でて、口付ける。ごめんね、痛かっただろうに。こんな悪意を向けられるのは一年ぶりか。あの女は田舎に帰ったと聞くが、今は何をしているのだろうか。


「ごめんね、眩しいでしょう」


電気を消すと点滴を落とす明かりだけが光っていた。なまえは昔、暗い中眠るのが怖いと言っていたが、今はどう思っていたのだろうか。こうなる前に聞いておけばよかった。
椅子に座り、暗い中なまえの手を握る。思えば、なまえの寝顔を見たことなんて数えるくらいしかない。こんなにも可愛い顔をして眠っていたのなら、もっと早くから見ていたかった。あぁ、だけど、もうしばらくはいいや。もう見過ぎて見飽きた。なまえの瞳に私が映っていないことも、笑い掛けてきてくれないことも、もう飽きた。ねぇ、なまえ。このままだと私は浮気してしまうかもしれないよ?それが嫌なら早く目を開けなさい。私は生粋の遊び人なのだから。
朝日が昇っていくのをぼんやりと窓から眺める。なまえは黄昏時を朝だと勘違いしていた。夕暮れのことだと私が言うと、なまえは過去をなぞってくれたね。嬉しかった。なまえがほんの僅かでも私のことを覚えていてくれて。運命の人だと言ってくれて本当に嬉しかった。


「…あのね、あの時に私は過去に言いそびれたことがあると言ったけど、本当はもっとたくさんあるんだ。昔の私はなまえに酷いことばかり言っていたけど、あれは全て嘘だよ。本当はずっと可愛いと思っていた。だから、私の手でもっと可愛くしてやりたいと、そう思った。そして、実際になまえはどんどん可愛くなっていったよ。直視するのがつらいくらい可愛いと思っていた。こんなこと、今更かもしれないけどね」


懐かしくなって、なまえに笑い掛ける。可愛い寝顔をしているけど、ほんの少し痩せてしまっている。こんな点滴では栄養は足りないのだろう。起きたらたくさん甘味を食べさせてやらないと。苺の乗ったケーキ、とろけるプリン、彩りのいいあんみつ。どれもなまえは好きだった。不思議なもので、昔は甘味など見るのも嫌だと言っていたのに。逆に私は昔は甘味が好きだった。砂糖が貴重な時代だったから、より一層価値があるとでも思っていたのかもしれない。今は逆に見るのも好きではない。なまえは米が好きだと言っていた。だけど、今は洋食の方が好き。逆に私は洋食よりも米の方が好きだ。面白いものだ、こうも立場が逆になってしまうとは。
家で過ごす時間はあまりにも長く感じるというのに、ここでなまえと過ごす時間はあっという間だ。そろそろ出社しないといけない。もう、朝飯は要らない。どうせ入らない。


「また昼に来るよ」


なまえにキスしてから病室を出て車を会社に走らせる。そろそろ社長に呼び出されてしまうかもしれない。営業部の中でも私の売り上げは底まで落ちていた。普段通りにやっているはずなのに、契約を取れなくなってしまった。
溜め息を吐いてからエレベーターに乗る。怠くなってきて、壁にもたれ掛かる。大丈夫、私はまだやれる。いや、やらないといけない。私の価値なんて、仕事しかないのだから。


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