雑渡さんと一緒! 88


「雑渡、お前はもう来なくてもいい」

「…クビ、ということでしょうか?」

「そこまでは言わん。だが、お前は休んだ方がいい」

「いいえ、まだ私はやれます」

「やれる?何をやれるというのだ。今やお前の成績の酷さは新人以下なのだぞ。どの口がまだやれるなどと言うのだ」

「…それに関しましては、申し訳ないと思っております」

「もう、いい。女の側にでもいろ」

「いいえ!お願いします、出社させて下さい!」

「何故、そこまで拘る?」


私が仕事を失えば、私にはもう何も残らない。不名誉でしかなかった顔でさえも、以前とは比べものにはならないくらい酷いものとなっている。美容院に髪を切りに行く時間さえも惜しくて伸びた髪を自分で切り捨て、無理矢理整えてはいるが、それはもう悲惨なものだ。あまり眠れていないし、食べられてもいないから顔色も悪い。そんなこと分かっている。
私が必死に社長に頭を下げると、社長は溜め息を吐いた。


「だから、上手くやれと言ったのだ」

「…申し訳ありません」

「お前はまた我が社を潰すつもりなのか?」

「………」


これは学生の時に偶然社長と会って知ったことだが、前世で私が死んだ後、タソガレドキ城はドクタケ城に攻め入られ、あっさりと領地が奪われたそうだ。私はその事実を知って、社長に人前だというのに土下座して詫びた。その頃はなまえのことを思い出してもいなかったから、何故自分が自ら死んだのか分からなかったし、そう聞かされても信じられなかった。曖昧な記憶で確かに大切な何かを求めたけど、それは何なのかは何年も分からず、大学を卒業後に何の疑問を持つこともなくこの会社に入った。社長には恩義がある。私が生涯をかけても返しきれないほどの大きな恩が。だけど、こうしてまた社長に迷惑を掛けてしまっている。申し訳ないとしか言いようもない。
私は膝を折った。頭を地面に擦り付けるように下げる。


「…申し訳ございません。ですが、私を出社させて下さい。お願いします。彼女に…なまえに言ってしまいました。必ずやこの街の全てを手にする、と。そう簡単には投げ出せません」

「では聞くが、今のお前にそれが出来るのか?」

「………」

「入社したての頃のお前は他者を寄せ付けなかった。上昇志向など今とは比べものにはならなかっただろう。ある意味では、あの頃のお前は幸せそうに見えたが…お前は今、幸せか」

「はい。これは断言出来ます。私は再びなまえと出会うことが出来、とても幸せです。お願いします。今の状態では結果を残せないかもしれませんが、私を出社させて下さい。彼女と見た夢を夢で終わらせることを私はしたくありません」

「まったく…お前がそこまで狂う程のいい女だったのならば、一度くらい味合わせてもらえばよかったと後悔しておる」

「…そのような冗談を私は好みません」

「なんだ、まだそのような目を儂に向けられるのか。ならば、まだ仕事に打ち込むことくらいは出来るのであろう」

「ありがとうございます…」


私は社長室を出て、喫煙所へと向かった。よかった、どうにか現状を維持することが出来た。後はやるだけだ。この酷い営業成績を少しでも上げないと、間違いなくいずれクビを切られることになるだろう。普段通りやれているつもりだ。なのに、全然うまくいかない。月末処理もミスばかりして、普段の何倍も時間を要し、部下にフォローされている。情けない。私はこんなにも仕事の出来ない男だったのか。
しかし、社長も趣味が悪い。そんな気など微塵もないと分かっていても、あのような言われ方をされたら頭にくる。そうだ、昔も同じことを言われて、同じことを言い返した。私の女に手を出そうなどと考えるなと睨んでしまった。やってしまった、と反省したことが懐かしい。今思えばよく首を斬られなかったものだ。あの戦好きの残虐な殿に。
溜め息と一緒に煙を吐いていると、佐茂が入ってきた。佐茂は私を見てギョッとした後、恐る恐る軽口を叩いてきた。


「よ、よお。色男…」

「それ、最早嫌味だから」

「お前、痩せすぎだろ。というか、何だよ、その頭」

「そんなに酷い?」

「酷いというか…お前、もう見る影もないぞ」

「そう」


別に身なりなんてどうでもいい。元から人に良く見られたいなんて思ってもいない。あぁ、だけど、なまえは佐茂よりも私の方がかっこいいと言ってくれたな。嫌になるほど言われてきたけど、言われてあんなに嬉しかったのは初めてだ。だけど、佐茂のこともかっこいいと言っていたな。それは癪だな…仕方がない。髪くらい切りに行くか。この酷い有様からどう変わるかは分からないけど。
立っていることがつらくなってきて、しゃがむ。最近、体力がない。この暑さだ、外に出た途端に一気に気分が悪くなる。運転さえ出来ないくらい目の前が暗くなることも珍しくない。情けないというか何というか…私は今も昔もなまえがいないだけでこんなにも普通に生きることが出来なくなってしまう。普通とは何だったか。なまえと出会う前の自分はどうやって生きていたのか。もう思い出せもしない。
煙を吐くと咳が出た。最近、煙草さえ受け付けなくなりつつある。酒はもう何ヶ月も前から飲んでいない。なまえが倒れてすぐの頃は酒に頼って寝ていたけど、もう酒を飲むと吐いてしまうから飲むことをやめた。まずいな、煙草までやめることになりそうだ。なまえは私のにおいだと言ったけど、あれは好意的な意味だったのだろうか。もう確認も出来ない。


「あのさ、雑渡。お前、休めよ」

「…それ、社長にも言われた」

「そうか。よかったじゃねぇか」

「よくないし、休まない。休めない」

「何でだよ。もうすぐお盆なんだし、有給と休みを合わせて温泉でも行って来いよ。そしたら、気分も変わるかもだろ」

「じゃあ、聞くけどさ。佐茂は自分の彼女が亡くなった時、そうしたというの?私が知る限り、出勤していなかった?」

「…あぁ、まぁ、そうだよな。悪い」

「…いや、私こそ悪かった。嫌なことを思い出させた」


佐茂が女を亡くして何年経ったのか、どういう経緯で亡くなったのかなんて私は知らない。だけど、悲しいと殻に閉じこもってしまっては、一気に駄目になるのだと私は知った。それこそ会社を休もうものなら私は土日のように病院で一日の大半を過ごすこととなるだろう。離れているのもつらいが、側にいることもつらい。報われないし、救われない。
もう、煙草なんて吸う気分にはなれない。不味い。
私は灰皿に煙草を捨てて、立ち上がった。喫煙所から出ようとすると、佐茂がポツポツと話し始めた。落ち込んだ声で。


「俺の彼女さ、交通事故で亡くなったんだよ。即死」

「…即死?」

「そう。それを知ったのは亡くなった翌日だった。そりゃあそうだよな。俺は別に婚約もしていなかった、ただの彼氏なわけだし?むしろ、よく両親が連絡してきてくれたよ」

「あぁ…」


それは私も嫌というほど痛感した。病院から連絡など来たことは一度たりともない。こんなにも毎日通っているというのに、私は他人だから、と弾かれてしまう。なまえの治療方針を決定する権利どころか、重要な話を聞く権利すら私は持っていない。それは本当につらいことだった。幸いにもなまえの父親と顔見知りだから情報は全て得ることが出来ているが。危なかった。去年、なまえの親と会うことが出来ていて本当によかった。ついでに、関係性も悪くなくてよかった。


「通夜ですっげぇ泣いて。葬式でも泣いて。だけど、仕事を休んだのは、その二日だけだ。上司には初七日まで休めって言われたけど、家にいたって落ち着かないことは目に見えていたし。あの時ほど仕事が有り難いと思ったことはない」

「…あぁ、分かるよ」

「現実から逃げたいのに逃げられなくて、かといって、受け入れることもできなくて今に至る。情けないとも分かっている。だけど、俺は彼女と会えて幸せだったからさ。忘れるってのも違うんだよ。つらいけど、忘れたくはないんだよ」

「それも、分かる」

「だから、なるべく前向きに生きようと思ったんだ」

「…残念だけど、それは分からない」


私はもう死にたいと思っていた。生きていることがあまりにもつらくて、なまえを殺して自分も死のうと何度も思った。どうにか思い留まっているのはなまえが本当に寝ているだけなのではないかと、その希望がごく僅かにでもあるから。結局、なまえが目を開けてくれないことを受け入れることも、なまえの前で泣かないことも出来ていない。なまえが生きていてくれているだけで私は幸せだなんて思えなかった。なまえに呆れられても構わない。私はなまえと話がしたい。なまえの笑った顔が見たい。抱き締めたら、抱き返してきて欲しい。その希望をどうしても私は捨てられない。
佐茂の前だというのに、会社にいるというのに私は泣いた。泣いたって現状は何も変わらない。だけど、どうしても泣いてしまう。もう一生分涙なんて流しているはずなのに、まだ出て来る。情けなくて、またしゃがみ込んだ。透明な箱の外からはジロジロと無遠慮に私を見ている奴らがいた。だけど私は泣き止めなかった。他人にどう思われようが、どう噂されようが構わない。だから、私のなまえを返して。誰でもいいから助けて。
昔もそんなことを願った。だけど、誰も助けてはくれなかった。そして、私自身も救われなかった。だから、こんなことを考えたって無駄だと分かっている。それでも私はなまえが目を覚ますことを願わずにはいられなかった。


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