雑渡さんと一緒! 90


昨年、なまえがやっていたように墓石に水を掛ける。これに何の意味があるのかは分からない。冷たい墓石を更に冷やしたりして、寒くはないのだろうかと去年は思ったものだ。
去年は暑かったが、今年は随分と涼しい。まぁ、去年とは違ってスーツを着ていないというのもあるけど。
先月、社長に頭を下げた上で偉そうな夢を語ってから二週間後、私は取り引き先で倒れた。貧血、脱水、栄養失調と部下に連れられた病院で言われ、点滴後に会社に行くと社長に「もう来るな」と言われた。本当は頭を下げて出社したいと頼みたかった。だけど、出来なかった。社長が物凄く怒っていたから。それはそうだろう。大した成果を上げるわけでもないどころか、取り引き先で倒れるなんて失態を犯したのだから。間違いなく契約は流れたことだろう。私が出勤すると会社の不利益に繋がる。私などいない方がいい。もうずっと前から本当は分かっていた。だけど、我が儘を通させてもらっていた。だから、来るなと言われてしまっては、何も言えない。私は何かを言えるような立場などにはいない。
手を合わせて、願いごとをする。なまえに去年、死者と会話をする場であると教えられたけど、私がお母さんと話したいことは願いごとなのだから大差ないだろう。


「なまえを連れていかないで下さい。私はなまえがいないと生きていけない。なまえはお母さんに会いたいと言っていた。だけど、まだ連れていかないで下さい。お願いします…」


ふと、線香に火を点けていないことを思い出す。ポケットからライターを取り出して火を点け、香炉に立てる。願いごとをしに来たくせに花は供えていない。私が初めて花を贈るのはなまえだと決めている。だから、花は用意していない。
墓参りを一人でも無事に済ませられたことに安堵し、駐車場に向かって歩いていると、なまえの父親とすれ違った。


「これから病院に行くのか?」

「うん」

「そうか。じゃあ、また後で」

「あぁ」


車のエンジンをかけ、コンビニに寄ってから病室へ行く。今日も何も変わらず、可愛い顔をしてなまえは寝ていた。
なまえが倒れてからの八ヶ月、本当に色んなことを考えたし、色んなことを知った。なまえは私が思うよりもずっと多くのことをしてくれていた。革靴や鞄、手帳をはじめとした革製品の手入れ、スーツやネクタイの消臭、ワイシャツの染み抜きとアイロンがけ。私の所持品の手入れをしてくれていた。煙草のにおいが篭らないように換気をしてくれていた部屋の空気は今や淀んでいる。そして、あのノートも。


「今日は顔色がいいね。あぁ、熱が下がったのか。よかったね、やっと酸素も外れたんだ。ねぇ、見て。このおにぎりの中身、鮭の西京焼きなんだよ?私のためにあるみたい」


椅子に腰掛けながら、コンビニで買ったおにぎりを開ける。なまえが作ってくれた西京焼き程ではないけど、美味しいと思える物だった。なまえが倒れてから美味しいと思えた物はこれが初めてだった。冷たいおにぎりを胃に入れる。
鞄からノートを取り出し、昨日の続きを読む。読んでいて思わず笑みが出た。ところどころに描かれている絵が可愛い。
仕事に行かなくなってから私は何日かベッドと病院の行き来しか出来なくなった。悔しくて、悲しくて、泣くことしか出来なかった。だけど、人間とは不思議な生き物で、その生活に慣れていくとその中で希望を探すようになる。私が取った行動はなまえの軌跡を探すことだった。そこで見つけたのがこのノートだった。ノートにはびっしりと私の好みが記載されていた。食の嗜好が主で、ところどころに描かれているイラストの吹き出しには私の細やかな癖が書かれていた。それはどれも小さなことだったけど、なまえが私のことをちゃんと見てくれていたことが伝わってきた。愛しさのあまり、私はノートを抱き締めて泣いた。
それからだ。ちゃんと前向きに生きようと思えたのは。佐茂から言われた時は理解できなかったけど、前向きに生きることには意味がある。なまえが生きていることを私自身を持って証明することが出来る。残念ながら決して健全な思考とは言えないだろう。それでも、意味がないわけではない。


「なまえは私をちゃんと見てくれていたね。ありがとう。嬉しかった。私にはもう肩書きはない。社会的地位なんてないに等しい。鏡を久し振りにちゃんと見たんだけどさ、酷い顔をしていたんだね。あぁ、だけど、美容院にはちゃんと行ったんだよ?どうかな、ちゃんと誤魔化せている?もう大分伸びてきてしまったけどさ。それでも、前よりはいいでしょ?どうかな…ねぇ、私をまだ好きでいてくれる?見た目も肩書きも失ったけど、私のことを受け入れてくれる?私のことを支えてくれる?…くれるよね、なまえなら。私のことをそんな目で見てはいなかったんだから。本当の私を愛してくれていんだからね。凄いね、初めてだよ、そんな女は。なまえしかいないよ、そんな女は。愛しているよ。ずっと、愛している…」


なまえの唇にキスをして、頬に落ちた涙を拭う。ごめんね、また泣いてしまった。だけど、許してね。まだなまえが目を覚さないことを認められていないんだ。だけど、ちゃんと受け入れるから。だから、今は許して。今は泣かせて。
私はゆっくりと現実を受け入れられるようになっていた。無理をしていないかと問われれば、無理はしている。だけど、この状況の中でも幸せを見出せるようになってきていた。人は強い。ちゃんと、どこかで生きようとして希望を探そうとする。こんなこと、知らなかった。過去で私はすぐに死んでしまったから。では、なまえが死んだら私はどうなるのだろう。生きようとするのだろうか、それとも自ら死を選ぶのだろうか。それはその時になってみないと分からない。分からないけど、今はもう死にたいとは思っていない。今がつらいなんて思っていない。現に二つ目のおにぎりを口にすることが出来ている。こうして私は変わっていく。少しずつ現実を受け入れられていくことが出来るようになっていけている。だから、私は大丈夫だよ。なまえが生きていてくれてさえいれば、私は大丈夫。だから、私を置いて死なないでね。
私が笑い掛けても、なまえは目を覚さなかった。笑い掛けてきてはくれなかった。だけど、息をしてくれていた。
なまえの上に顔を置くと、また涙が出た。ごめんね、私は弱くて。だけど、ちゃんと受け入れるからね。だから、安心して。私は生きるから。ちゃんと今を生きるから。なまえが今の状況を作ってくれたから。相変わらず狡い子だね、なまえは。勝ち目などないよ、私には。
負け戦であることは昔から分かっていた。だって、こんなにも愛してしまっているのだから。昔から、ね。どうして私はこんなにもなまえを愛してしまったんだろうか。その答えは何百年も前から考えているというのに、答えはまだ出ない。出したところで何の意味もないだろう。私がなまえを愛しているという事実は揺るがないのだから。


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