雑渡さんと一緒! 94


任務が終わり、家に戻るとなまえの気配がなかった。慌てて灯りを灯したが、床に血で汚れた縄が残されているのみで、私の留守中に逃げ出したことが分かった。タソガレドキ領地をくまなく探したが、どこにもなまえの姿どころか気配さえも見当たらなかった。つまり、完全に私の前から逃げ去ったということだ。あのなまえが、この私から逃げた。それは言いようのない衝撃だった。初めは自分よりも技術が下のくノ一に逃げられたことに対し衝撃を受けたものだと思った。だけど、それは違うことにすぐに気付いた。あまりにも胸が痛んだから。その時、私はようやく逃げ続けてきた自分の気持ちを認めざるを得なくなってしまった。
私はなまえが好きだった。だから、潮江くんに嫉妬した上で彼からなまえを離し、私一人だけのものにしようとした。だけど、なまえは私よりも潮江くんを選んだ。そして、私を捨てて、彼の元へと行ってしまった。いや、捨てるなんて関係性であったわけではない。なまえは私を好いてはいないし、私もなまえに自分の想いを伝えたことなど一度もないのだから。だけど、心のどこかで期待していた。なまえは私をいつか本当に好いてくれるのではないだろうか、と。こんな醜い容姿をしている上に優しくもなく、人を殺めることでしか女を護ることができないような男であるというのに、愚かなことにも私はなまえにそんなことを期待してしまった。にも関わらず、どうしても自分の気持ちを認めることも受け入れることも出来ず、だけど、なまえと離れることも出来ずに私はなまえを脅して側に置き、酷いことばかりしていた。結局のところ、なまえに言われた通りなのだ。「人に嫌われることが怖い」「人を失うことが怖い」のだ。あの子は私の本質を見抜いていた。それは恐怖でもあり、そしてまた、喜びでもあった。私を受け入れてくれる女などいないと思っていたのに、目の前に現れて、あまりの動揺に突き放すようなことを言っては泣かせ、どう護ればいいのかも分からずに人を殺めた。別に後悔はしていない。今思い返しても最良だろう。
では、私はどうしてなまえを失ったのだろうか。ぼんやりと丘から夕陽を眺める。よくなまえと来た。陽が沈み、忍びの時間へと変わっていく様を見るのが好きだと言っていた。
これから私はどうしようか。失恋なんて初めてのことだ。いや、恋自体が初めてだったと言っても過言ではないだろう。何とも情けない話だ、忍び組頭がここまで色に溺れるとは。


「まるで掴めそうなほど近く感じますね」

「…なまえ!?」

「今日も綺麗な夕陽ですね」


背後から話し掛けられて振り向くとなまえがいた。私の元へと歩いてきて、夕陽へと向かって手を伸ばした。細く、白い腕は夕陽で赤く染められている。まるで陽に焦がれているかのような表情をして双眸は夕陽へと向けられている。



「あなたなら手に出来るのではありませんか?」

「ふ…いいや、私には女一人手にすることも出来ない」

「私では不満ですか?」


そっと腕を掴まれ、微笑み掛けられる。私を捨てたとは思えないほど優しい顔で。あまりの動揺に声が震えた。
なまえは何故、また戻ってきたのだろうか。あんなにも酷い仕打ちをしたというのに、どうして戻ってきたというのだろう。逃げ出された時点で私はもう追う気はなかった。身を引くつもりだった。いや、身を引くなんて大層なものではない。これ以上自分が傷付きたくなかった。潮江くんから無理矢理引き離したところで、再び逃げられてしまうだろう。何度もそんなことを繰り返し、こうして傷だらけになるくらいなら、もう離れようと思った。なのに、どうしてなまえは私の隣にいるのだろう。思い浮かぶのは二つの可能性だった。一つは本当に私を好いてくれているから。もう一つは…


「…側にいてくれるとでも言うの?」

「私はあなたが好き」

「………」

「だから、側に置いて下さい」


嘘だ、と思った。なまえは私を好いていない。私がなまえを追ってくることを恐れ、戻ってきた。殺されることを、命を支配されることを恐れ、戻ってきたに過ぎないだろう。
だけどなまえに笑い掛けられ、手を差し伸べられてしまえば私は拒むことなど出来ない。そしてまた期待してしまう。


「…お前の命は私が握っている。お前は私のものだ」

「はい」

「誰が側を離れることを許した」

「ふふ、すみません」

「なまえは愚かな女だ。気が知れないよ、私は」

「…そうですね、私は愚かかもしれません」


私はこの期に及んで素直にはなれず、冷たいことしか言えなかった。すると、なまえは寂しそうにも悲しそうにも見える顔をした。また傷付けてしまったことを悔いて下を向く。たった一言「好きだ」と伝えることも私は結局は出来ない。
情けなく、そして自分の弱さのあまり恥ずかしくなった。


「雑渡さんは私のような愚かな女は嫌いですか?」

「そうだね。私は賢い女が好きだから」

「そうですか…では、私に忍術を教えて頂けませんか?」

「なまえに?嫌だね、お前のような要領の悪い女に」

「左様ですか。では、私はこれまでと変わらずあなたの生活を支えます。お料理だってうんと上手くなりますから」

「それはどうだか。先日の芋は生茹でだった」

「う…精進します」

「ふ、そうしなさい」



どこまで自分は素直ではないのだろうか。情けないことだ。だけど、なまえはそんな私の側にいてくれるという。
そうだな、再び信じてみようか。なまえといつか家族となれる日が来ることを。私を求め、私のために生きてくれると。私を、私だけを愛してくれる日が来ると、信じてみようか。
そっとなまえの唇を指でなぞると、なまえは嬉しそうに笑った。そのまま口付け、細い身体を抱き締め、なまえが自分の側にいることを確認する。傷付いた手の平に唇を落とし、私の頬に手を導くと、やはり嬉しそうに笑ってくれた。
これから、こうして過ごしていこう。殺伐とした世界しか知らない私に穏やかで、温かな日常を与えてくれる、眩しい存在。この光を二度と失わないよう、共に過ごしていこう。愛しくて、あまりの幸せに目が眩みそうになるけれど、決してなまえから目を逸らさずに生きていこう。そう思った。
だけど、それは叶わなかった。今見ている景色が陽が落ちたことでゆっくりと闇へ染まっていったように、なまえの命は静かに暗闇へと消えていくこととなったから。



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