雑渡さんと一緒! 98


頬を叩かれて目が覚めた。嫌な夢を見た。一日に二度もなまえが死ぬ夢を見るなんて不吉としか言いようがない。嫌な汗を拭っていると、さっきまでなまえの周りにいた看護師が一人もいないことに気付く。うるさかったモニターの音もせず、酸素マスクは外され、点滴の灯は消されていた。
何が起きたのか分からない。ほんの一瞬目を閉じていただけのはずだ。なのに、私を叩き起こした男は泣いていた。


「雑渡、お前は…」

「なに…」

「お前は何をしていたんだ!」

「だから何が」

「なまえは、なまえは死んだ!」

「は、待って…そんなことがあるはずがない」


なまえが死んだ?そんなはずはない。だって、さっき見た時と同じ顔をしている。まだ寝ているだけだ。こんな、苦しまずに死ねるはずがない。私が絶望のあまり気を失っている間に静かに逝ったなんて、そんなことあるはずがない。


「…あのね。そういうつまらない冗談は言うものではない」

「お前は、どうしてなまえの最期を看取ってやらなかった…」

「だから、違う。なまえは死んでいない」

「なまえは一人で逝ったんだ!俺を待たずに…」

「だから、なまえは死んでいない!」

「雑渡!」


静かな部屋に怒鳴り声が響いた。なまえが死んだ?嘘だ。そんなことがあるはずがない。だって、まだこんなにも温かいのに。さっき見た姿と何も変わっていないのに。
感情的に泣き喚く男が情けなくて、思わず笑ってしまった。嘘だ、死んでなんかいない。嘘だ、嘘だと言ってくれ。
なまえを揺さぶる。ほら、温かい。生きているんだ、そのうち目を覚ましてくれて、私に笑いかけてきてくれるから。大丈夫、まだ終わっていない。大丈夫、死んでなんかいない。


「…ほら、なまえ。起きなさい。この男は煩くて仕方がない。お前からも言ってやりなさい、まだ生きているのだと」

「雑渡…」

「大体ね、寝過ぎなんだよ、なまえは。私が言えたことではないけど、私よりも酷い。まさか一生分寝るつもりなの?」

「雑渡!よく見ろ、なまえは死んだんだ!」

「…嘘だ」

「もう、受け入れてやらないといけない…」

「嘘だ!死んでなんかいない。私を遺して死んだりなんかしない。まだ眠っているだけだよ。まだ終わってはいない!」

「受け入れてやれ!なまえのためにも、頼む…」


受け入れる?何をだ。こうして手を握っても握り返してくれないことなどいつものことだ。話し掛けても何の返事もしてくれないのも、いつものことだ。何も変わらない。
さっきまであんなにも熱かったなまえの身体は普段と変わらないくらいまで冷えてきていた。ようやく熱が下がったんだ。酸素だって外れた。点滴だって終わった。よかった、後は目を覚ますだけだ。それだけだ。それだけじゃないか…


「嫌だ…嫌だ!なまえ!」


抱き締めると温かくて、だけど息をしていないことが分かった。これは夢だ。いつもの悪夢だ。さっきの続きだ。あぁ、そうだ。きっとそう。普段飲まない睡眠薬なんて飲んだから、こんな酷い夢を見ているだけだ。悪い夢なんて早く覚めてくれ。目が覚めたら隣にはなまえがいる。いっぱい抱き締めて、キスをしてからまた寝るんだ。二人で起きて、なまえが作ってくれた朝ご飯を食べて出掛けるんだ。そうだ、もう紅葉が散る頃だ。今年は私の分を取ってくれると、そう約束した。だから、今日は公園に行こう。そうだ、そうしよう。
今日の予定が決まったのにまだ目は覚めない。夢だと思いたいのに、動かないなまえが残酷にも現実だと告げてくる。


「どうして…どうして私を置いて逝くの?どうして私を一人にするの?約束したじゃない…どうして、どうして…っ」

「雑渡…」

「なまえ!」

「雑渡、もういい。もう、終わったんだ。せめて、綺麗にしてやって送り出してやろう。もう、全て終わったことだ…」

「なまえ…っ」


視界が暗くなる。どんどん世界が黒く染まっていく。
これからこんなにも可愛いなまえを火で焼かなければいけないのか。それを見届けろ、と?骨となり、小さくなったなまえを抱き締めながら一人で家に帰り、一人で弔え、と?無理だ、そんなこと出来ない。耐えられるはずがない。
私はこれからどう生きようか。いや、どう死のうか。どう足掻いても私はなまえとは同じ墓にはもう入る手立てがない。だけど仕方がない。なまえと約束をした。一緒に逝く、と。


「…今まで世話になった。私はこれから死ぬ」

「雑渡!」

「私なんて生きていたって仕方がないんだ…」


確実に死ねる方法とは何だろうか。贖罪の意も込めて極力苦しい方法がいい。入水なんてどうだろうか。そうだ、初めてなまえと行った海に行こう。また行こうと思っていたのに、結局なまえとは行けなかった。だけど、一人でなまえを思いながら行くというのも悪くはない。そうだ、そうしよう。
私は握りしめていたなまえの手を離そうとした。だけど、なまえの細い指先が微かに動いた気がした。驚いて咄嗟に握り締めると、弱々しくはあるが、握り返された。これは気のせいなのだろうか。私の妄想なのだろうか。まさかこれも夢なのか。心臓がうるさいほどに騒いでいる。
期待と恐怖心からなかなかなまえの顔を見れなかった。これ以上の絶望などしたくない。私が恐る恐るなまえの顔を見ると、なまえは目を開けていた。ぼんやりと私を見ている。


「…っ、ごほっ…」

「なまえ…?」

「ざ…と…さん」


掠れた声で私の名前を呼び、弱々しくなまえは笑った。生きている。なまえが生きている。これは夢じゃない。妄想でもない。確かに生きている。
ボタボタと涙が落ちた。生きている。なまえが生きている。


「なまえ…っ」

「…ただいま、雑渡さん」

「もう…っ、あまりに遅過ぎて…浮気するところだった…っ」

「ひどい、です…」

「ど、どっちが酷いと思って…」

「えへ…雑渡さんのこと泣かせちゃった…」

「馬鹿じゃないの?本当、馬鹿…っ」


こんな風に会話が出来るなんてもう期待していなかった。もう望むのはやめようと思っていた。例え目を覚さなくても、生涯なまえの側にいようと思っていた。なのに、私のもとへ戻ってきてくれた。
なまえはいつものようにそっと私の頬に触れた。


「髪、伸びましたね。あと、痩せましたね…」

「っ、誰のせいだと思って…」

「もう。泣かないで下さいよ」

「うるさいよ。もう、本当にうるさい…っ」


なまえの手に自分の手を重ねる。すり、となまえの指が私の頬をくすぐった。それだけで嬉しくて涙は止まらない。
やがて、歓喜を上げた男が医者を連れて戻ってきた。医者は奇跡だ、とか言っていたけど、奇跡だと私も思う。死んで息を吹き返すなんて現実ではあり得ないことだ。なのに、なまえは不可能を可能にしてくれた。私と共に生きるために。
医者には父親だけが呼ばれ、出て行ってしまった。私は他人だから、こうして大切な話など直接は聞かされない。なまえがこれからどんな経過を辿るのか知りたくても、すぐに知る権利を私は与えられていない。私はなまえと家族ではないから。ただの他人だから。その現実が私に重くのし掛かる。


「…ねぇ、雑渡さん?」

「なに」

「好きです。大好き」

「…私は当分、言ってなんかやらない」

「酷いなぁ、雑渡さんは」

「聞きたければ生きて。私の側で、ずっと生きてよ…」

「そうですね。そうします」


なまえは笑った。その笑顔が愛しくてまた涙が出てきた。
なまえと家族になりたい。結婚したい。卒業までなんてもう待てない。待ちたくない。他人でいたくなんかない。
退院したらなまえにプロポーズしよう。受け入れてくれるかは分からない。だけど、せっかく掴んだ未来を手放したくはない。一緒にずっと生きていき、家庭を築くという夢を私はもう夢では終わらせたくなかった。なまえの未来を自分の手にしたかった。あぁ、私は弱い。なまえがいないと生きていけない。なまえの温もりを知ってしまったから、もう二度と独りには戻れない。永遠になまえだけを私は愛している。知ってはいたけど、それは確実なものだとこの日確信した。
離れ難かったけど、安静にさせろと医者に言われて私は渋々家へ一人で帰った。エンジンをかけて、車を走らせながらどのタイミングで何とプロポーズしようか考える。
なまえを愛している。なまえなしには生きられないほどに愛してしまった。だから、どうか私と結婚して欲しい。あぁ、情けないからこれは駄目だと、再び必死に考える。どんなに考えても言葉なんて出てこない。冷静になりたくて久々に煙草を吸う。久し振りの煙草は脳を麻痺させたけど、全然冷静にはなれず、思い浮かぶのはたった一つだった。
生きていてくれて、私の元へ戻ってきてくれてありがとう。


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