兎起鶻落
日差しのおかげでだいぶ暖かく感じる昼下がり。
背にうっすら汗をかきはじめ、コートを脱ごうか…でも荷物になるしなぁと思いながら赤塚団地前をゆったり歩いていた海野の耳に、
「よぉ」
かけられた声は馴染んだものだった。
その音の出所は探さなくても知れる。土手の下。コンクリで固められた河川敷に、小さな屋根。
「猫探しは終わったのか?」
「いや、毎日探してる訳じゃないから…」
あまりの物言いにぐったりと額を片手で覆う。心なしか肩が落ちる。
そんな海野の様子に声の主は慌てたように小さな屋根ーーー…おでん屋台の影から顔を出した。
「や、悪ィ悪ィ。ここら通るときはだいたい猫探しだったからよーォ。おいらちょっと勘違いしてた!
今日はなんの依頼だったンだ?」
「ーーーーー…猫探しだけど」
「………」
「……………」
二人の間をブロロロ…とポンコツな音をたててバイクが通りすぎる。
空はだいぶ高く色彩が薄い。雲はそこに溶けるように輪郭が不確かだ。
「で、仕事は終ったのか?」
何事もなかったかのようなチビ太の優しい問いかけに、ウンと頷きながら海野は河川敷へと続く階段を下りる。
「さっき飼い主に届けてきた」
「おゥ、ご苦労なこったな!
だからちィっとボロボロだった訳だ」
階段を下りる足が止まった。
「……ボロボロかな」
「わりとな。どうせまた猫に暴れられたンだろ?バーロォ!だから言ってンじゃねぇか!苦手苦手と思うから暴れられるンだって!
こうドシッと構えれば猫だってココロを開いてくれンだぜ?」
「ココロは開いてくれなくていいんですよ…黙って捕まってくれれば…」
「なンでェ!後ろ向きだなテヤンでーェバーロォ!」
「仕事に前向きも後ろ向きもあんの…?」
「あるわよーぉ!」
「………」
「…………」
第三者の声に口を閉じる。海野とチビ太は無言で見つめあい、ゆっくりと声の主へと振り返る。階段に伸びる影。土手の上に太陽を頭上で掲げさながらギリシャの女神のように威風堂々と立つその姿。片手に持つビニール袋すら輝くような姿。いや、そのお姿は、
「トト子ちゃん…」
「トト子さま…」
「うふふ!久しぶり鯖江ちゃん☆」
以前、ある仕事で知り合った弱井トト子(自営業)であった。
まるで咲き誇る薔薇のように色気が香りたつ笑みを海野に、あぁ、微笑まれて、トト子さまが微笑まれておらr……、
「海野ーーー!!!!!!
しっかりしろおおおおおおおおおおお!!?」
「ハッ!」
うっかり百合の園に足を踏み入れかけた海野が目を見開く。
階段の下でチビ太が拳を握りしめ叫んだ。
「気を!気をしっかり持てェェェ!油断するとヤられンぞ!」
「ふふ、やだぁ。チビ太くんったら。
それじゃぁトト子が鬼か悪魔みたいじゃないー失礼しちゃーう!」
サクランボの果実のようにぷっくりした唇をちょっと拗ねたように尖らせるその姿はあざとい。だが、可愛い。いや、もはや芸術だった。少し曲げられたツルツルの膝もすらりと伸びた脚にかかるスカートの影すら神の寵愛を一身に受け、この世の美を惜しむことなく注ぎ込んだy…、
「海野ーーー!!!!!!」
「ハッ!!!?」
階段下に居たはずのチビ太がなぜか海野の胸ぐらを掴んで揺さぶっている。
正気にかえった海野の目に、いつの間にか数段上の階段からつま先立ちで膝をガクガク震わせながら背伸びをするチビ太映る。
「チ、チチチチチ…」
「乳がなんだってェ?おいらはチビ太だバーロォ!しっかりしろ!
戻れなくなンぞ!戻れなくなンぞ!海野ー!」
「もう二人ともほッんと失礼!
トト子なにもしてないよねー?鯖江ちゃん」
「ハイ。トト子さまは何もされておられません」
「海野ーーー!!」
「チビ太くんうるさい。
トト子が可愛いだけじゃない。でもそれはトト子のせいじゃないわ。トト子が可愛くて可憐なのはトト子にはどうしようもないことだもの。
ねー?鯖江ちゃん」
「ハイ。まったくそのとおりでございます」
「海野ーーーーーーーーーー!!!?」
ガックンガックンと海野を必死に揺さぶるチビ太のその背後までトト子がゆっくり下りてくる。
「でもそんな可愛い可愛いトト子は、いま…少し傷ついてるの…」
「海野、絶対耳を貸すな」
「この間の記者会見もデビューライブも鯖江ちゃんにすっぽかされて…」
「海野、いいか!あんなクソみたいなライブ行かなくて正解だっt」
「チビ太くん黙ろうか」
「ぐえッ!」
さながら鶏をシメるようにチビ太の首をキュッと片手で握り潰したトト子はまるで被害者のように黒目がちな瞳を潤ませて海野を見つめた。
「どうして来てくれなかったの?」
「あ、あの…仕事で…」
「仕事とトト子、どっちが大事なの?」
「仕事に決まってるだろーォがッふッ!?」
チビ太の首を絞める手に力がこもる。
海野はあうあうと口を開け閉めしては、だらだらと汗を流した。さながら、蛇に睨まれた蛙のよう。
「トト子、寂しすぎて死んでしまいそうだったの…」
「イヤイヤ!生き生きしてただろ!オメェめっちゃ歌ってたじゃねーがああああああああああああああああ!!!?」
「チビ太!!?」
ボギィ!と人体からおおよそ出ない音を派手にたて、チビ太が白目を剥く。
「チビ太あああああああああ!!!!」
トト子の手から滑り落ちた友人を抱き止め揺さぶるが、彼はピクピクと痙攣するだけであった。
「でもトト子、寛容だから許しちゃう。
だって鯖江ちゃんはトト子の大事なトモダチだから」
「あ、ありがとうございます…」
チビ太を抱き締めながら、海野は口許をひきつらせる。
「トモダチだから梨のお裾分けも持ってきたの。鯖江ちゃんどーぞ?」
はい♪と差し出されたビニール袋にガクガク震えながら手を伸ばす。
その指と指が触れ合う瞬間、
「だ、か、ら、」
ガシッ!と、もうひとつの手が海野の手首をガッツリ握りしめた。
「ヒィィィィィ!?」
トト子が両手で海野の手をホールドしたのだ。
先程の女神がまるで獲物を捕らえた虎やメドゥーサのように微笑む。
「次はぜぇぇぇぇぇぇぇぇったい、来てよね?トト子のライブ」
ガクガクと涙目で海野は頷く。
「あは!良かったー☆断られたらトト子、カニ漁船予約するとこだったー☆」
殺す気だ!
「やっぱり鯖江ちゃんとトト子はトモダチよね☆うふふ!」
もはや白から灰へと物理変化しながら海野は弱々しく頷いた。
「あ。梨も美味しいから食べてね☆じゃ、チビ太くんにもよろしくーぅ!」
きゃるるるん☆と笑って手を振る姿は可愛い。とてつもなく可愛い。先程の百獣の王の如き覇者のオーラが嘘のようだ。
妖精のようにスキップしながら去るそのか弱く儚げな背を見送りながら、海野は片手にチビ太を、片手にビニール袋を握りしめながら思った。
この梨、大家さんにあげよう。
食べたらきっと不幸になる。
まさか、その不幸が大家宅の次男坊に降りかかるとは、このときの海野には知る由も無かった。
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