兎の糞
ふと目を覚ました海野は、デスクにうつ伏せている事に気づいた。
身体を起こせば、椅子と共の背骨がバキバキという。目の前に散らばる書きかけのチラシ。
どうやら、作業中に寝てしまったらしい。
歯も磨いてないから口内が臭い。我慢できず、洗面所へ向かう。
もう磨りガラスの向こうはすっかり暗く、外灯が窓に描かれた探偵事務所の文字を室内に落とした。
洗面所の電気をつければ、その暴力的な白さに網膜が痛い。思わず手で庇いながら鏡を見たら、頬に机の跡がついていた。
指でなぞりながら、海野はため息をつく。
昔はすぐ消えたが、こんなにはっきりした跡、朝までに消えるかしら…。
二十歳過ぎたら老化の一途だよと、スナック凡人のママの言葉を思い出す。
げんなりしながら歯磨きを手に取り、
間抜けな音が事務所に響いた。
しばらく歯ブラシを持ったまま鏡と見つめあい、ア!と声を上げた。
トト子さまに勝手に変えられた着信音だと気づいたのだ。
慌ててデスクへ走り寄る。その上で、チカチカ輝く携帯の液晶にチビ太の文字を見つけ、すかさず通話を押した。
「もしもし?」
『海野、夜遅く悪ィンだけど頼まれてくンねェか』
腕時計を見る。0:41。
「いいけど、どんな仕事?」
『ボートを手配して欲しィんだ。金はあとで払う。場所は今からメールで送る』
「ボート?今から?」
季節は冬だ。
「何に使うの」
『アァ、ちょっと取引に、な』
え?おでんの?
疑問に思いながら分かったと答えるとチビ太は満足げな声で『よろしく』と言って電話は切れた。
音をなくした携帯を、耳から離す。
釈然としないものを抱えながらも、海野は歯磨きを口に突っ込み、新着メールを確認した。
チビ太から再度連絡があったのは、その日の夕方であった。
ニュースラズベリーを眺めながら、お気に入りのアイドルキャスターの真顔ににやにやしていた時である。
『ボートありがとな』
「あ、あぁ…」
そういや、すっかり忘れていた。
「取引上手くいったの?」と問えば、携帯の向こうで息を吐く気配があった。
「どしたの」
『いや、ちょっと問題があってなァ。もう一回、頼まれてくンねェーか?』
「え、別にいいけど」
『人間縛り付けられるくらいの丸太と薪を頼みてェーンだ』
「え…!?ねぇ!それって取引だよね!?」
『アァ、取引だ。おいらにとっても、相棒にとっても重要な、な』
相棒ってなに。
海野は思わず携帯の液晶を見つめた。
ビルの前、正確にはビルの隣の大家宅の前、であるが一時の騒音が静まり、夜本来の静けさを取り戻した。
『イヤァ、騒がしくて悪かったな。依頼料、朝イチで振り込んでおくぜバァーロ!』
「そりゃ、どーも。
ところで…」
がらら…と磨りガラスの窓を開ける。
見慣れた通りに見慣れないものが横たわっていた。
「……………通りに落ちてんのはどうすんの?」
取引の相手は大家宅の六つ子だったらしい。
『あァ?通りになンだって?』
「……………」
しかもどうやら失敗に終わったようだ。
全く回収の気配がない様子に呆れながらため息を吐く。
「いいや、なんでもない」
『オゥ!じゃァまた朝にな!しっかり寝ろよバァーロ!』
寝れるわけがない。
再び無音になった携帯を眺めて、それから通りを見る。
ぴくりとも動かない。
海野は暫く己の内側と戦っていたが、結局は折れてゆっくりと119を押し始めた。
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