バカは風邪ひかない
 ───って言うだろ? アレってよぉ、バカは風邪引いてても気付かねぇってコトなんだぜ?」

 昼休みの教室の端で、城之内はそう言って鼻で笑った。
 食べ終わった購買のパンのラップを丸めてビニール袋に詰め込むと、2個目のパンのラップを剥がし始める。

「へぇ、じゃあお前ェは風邪引くのか?」
「あったりめぇだろ! オレがバカだって言いてぇのか」
 本田に詰め寄る城之内を遊戯が困ったように笑って誤魔化す。杏子と獏良もお弁当をつつきながら、“じゃれあい”を始めそうな2人を諫めたりしていた。

 ただ1人、なまえだけが気まずそうな顔をして。

***

「なまえ様……?」

 磯野はまだ夜明け前のキッチンに立つなまえを見つけると声を掛けた。照明もつけず薄暗い中でカウンターに軽く腰を預けて腕を組み、なまえは片手はなにか考え込んだように顎を支えている。磯野は首を傾げて歩み寄った。
「もうお出迎え?」
「え、あ……ハイ、2時間後に。本日は遠方の提携企業に訪問の予定がございまして」
 なまえは眠気まじりの頭痛に髪をかき上げた。その様子に磯野も些か不穏な予感を感じている。
 なまえは大きくため息をついてから立ち直すと、羽織っていたパーカーのポケットに手を突っ込んで磯野に歩み寄り、片方の手をポケットから抜いて差し出した。

「瀬人に熱があるの。悪いんだけど、どうにかならないかしら。」

 体に接触させることなく測れる体温計を渡された磯野が神妙な面持ちでそれを見ると、「39.1℃」の数字が明滅していた。

***

「なまえ?」
「えっ な、……なに?」
 隣に座っていた遊戯がなまえを覗き込む。どうやらよほどボケっとしてたらしく、遊戯に振り返る前に食べかけのブリトーからコブサラダのドレッシングがスカートに垂れた。
「やば」
「あ〜、大丈夫?」
 杏子がすぐにウェットティッシュを差し出してくれる。礼を言って拭うと、幸い目立つシミにはなっていなかった。

「なにか考えごと?」
 遊戯はゴミ袋にしていたビニールの口を開けてなまえに向ける。遠慮なくそこへティッシュを放り込むと、少し口篭ってから昨日のことを思い出していた。

***

「何をしている。」

「あー…… 新妻ごっこ?」
 なまえはなんとも言えない引きつった笑みを海馬に返す。いつもなら家政婦なりシェフなりが用意する朝食を摂りにダイニングへ来れば、そこには制服のジャケットを脱ぎエプロンを纏ったなまえがフライパンと睨めっこしていた。

「やっとその気になったか。」
「話しがややこしくなるからやめて。」
「フン…… まあいい。」
「ちょ、っと! あぶないってば」
 アタッシュケースを端に置くと、海馬はなまえを背後から抱きしめた。ガスコンロにガツガツフライパンをぶつけながら必死にオムレツを形成しようとしているというのに、海馬は遠慮なくなまえの首筋に顔を埋める。
 首にあたる海馬の顔がこそばゆい中、やはり体温がいつもより高い事が気になってしまう。なまえは諦めて火力任せにスクランブルエッグに変更すると、一旦火を止めて海馬に向き直った。

「“おはようのチュウ”はどうした。」
「嘘でしょ」

 この世の終わりがくるんじゃないかってほど酷い顔を向けられて、流石に海馬もなまえの真意が掴めず顔をしかめる。海馬自身はとくに当たり障りのないことを言ったつもりなのだろうが、なまえは笑うとか吹き出すとかを超越して本気で海馬を心配した。
「……なんだ。」
「いえ、なんでもないです。」
 分からない事に対して威圧的に出るのは海馬の悪いところだ。フライパンからは余熱で卵が焼ける音がだんだん小さくなり、それに合わせてなまえも意気消沈していく。

 恥ずかしそうに辺りを見回したあと、うんと背を伸ばして海馬の頬にキスをしてやった。

 さも当然とばかりに唇にしてもらえると思っていたのだろう。なまえからのキスのためにわざわざ屈んでやった海馬が文句ありげな目をなまえに向ける。
「もう終わり。ハイ、行った行った。」
 まるで面倒くさいペットでも追い払うように海馬をキッチンから追い出すと、食器棚へ向き直る。なまえが「もう構まってあげません」という態度を見せた以上、海馬もスケジュールがあるので大人しくテーブルに向かった。

「ひゃアッ!!」

 否、やはり海馬が大人しく従うわけがない。
 去り際にお尻を思い切り撫で上げられ、なまえはお皿を落としかける。蹴飛ばしてやろうかと振り向けば、海馬は涼しい顔でコーヒーメーカーのポットを持ってテーブルに向かっていた。
 バクバクと騒ぐ心臓をなんとか撫で下ろしながら食器棚に顔を戻すと、ガラス戸に海馬の背後に立つブラック・マジシャンが映り込んでいるのでなまえはまた慌ててお皿を置いて振り向いた。



「キャンセルだと?」
 朝食を済ませスーツに袖を通したところで、思わぬスケジュール変更に海馬は眉をひそめた。磯野はアイウェアーの奥でマグカップを手にしたなまえに助けを求めている。
 海馬の死角でなまえは視線や顔の動きで磯野に合図したりして、海馬が振り向けばさも知らん顔をしてお茶を啜りながら新聞なんかに目を落とす。

「フン、……まぁいい。」
「本日は遠方への訪問でしたので、次のスケジュールは1じゅう……」
 ギッとなまえの眼光が磯野に向けられる。15時……と言いかけた磯野は慌てて咳払いをし「明日まで予定はございません」と言い直した。
「明日? デュエルディスクのシステムアップデートの報告会はどうした。」
 デュエルディスクの事だけは詳細に覚えていやがる。なまえは内心悪態をつきたくもなったが、磯野は冷や汗を流しながら言い訳を取り繕いなんとか海馬を納得させた。

「いいじゃない、たまには体を休めないと。」

 我ながら絶妙なタイミングで助け舟を出せたと思った。なるべく機嫌の良い笑顔を向けて大胆に足を組み直してみる。まあスカートで釣れたのは磯野の視線だけで、肝心な海馬の方は相変わらずの仏頂面でなまえの目だけを見るだけだったが。

「瀬人が家にいるなら、私も今日は学校休んじゃおうかしら。」
 だいぶ狙いを定めた決定打をお見舞いしたつもりだ。
 お前は熱があるんだ。いつもより素直になれ。そう目で訴えているのに、海馬がチラリとも足を見てくれなかったことに役者っぽい振る舞いが恥ずかしくなって自然と瞬きのペースが上がる。ブラウスのボタンをもう一つ開けておくべきだったか、それともいつも通りの朝を演出した方がよかったか。海馬が答えを渋る時間が長ければ長いほどなまえは焦りを加速させてしまう。
 海馬もなまえがなにか企んでいるような様子をなんとなく察知してはいたが、無駄に間延びした時間を過ごすよりはと珍しく妥協した。

「わかった。今日は部屋で仕事しよう。」

 背後で小さく安堵の息を吐く磯野に、海馬は理由もわからずなまえと磯野を交互に見た。



「何をしている。」
 海馬はスーツから着慣れたタートルネックシャツに着替えると、部屋に戻って早々なまえの姿に困惑した顔を見せた。

「あー…… 巣作り?」
 屈めた腰を伸ばして「ふぅ」と息をつくと、いい仕事をしたとでも言わんばかりに肩を竦める。
 海馬の前には応接用のソファーをくっつけたベッドモドキにブランケットが敷き詰められ、退かされたテーブルにはボトルドリンクなどが並べられていた。
 なまえが“巣”と命名するに相応しいその様相に、海馬は呆れながら書斎机に着く。

 こっちだって海馬が素直に二度寝してくれないことは百も承知だ。こうなったらトコトンヤケになってやるわ、と意気込む。
 とりあえず抗生物質は食事や水に混ぜて摂取させる事に成功した。あとは体をゆっくり休めて、可能なら眠ってもらうだけ。ミッションコンプリートまでの工程は僅かだ。……ただし、羞恥心を捨てるのが前提で。

「瀬人をダシに使って悪いとは思ってるけど、学校に欠席連絡も入れたしゴロゴロさせてもらうわ。」

 海馬が鼻で笑い書類から顔を上る。───そこには、制服のブラウスのボタンを外し始めたなまえの姿があった。
「……ッ オイ!」
 思わず声を掛けるが、なまえは構わずスカートも脱ぎ捨てて、ゆるいパイル生地の短パンに履き替える。

「なによ、今さら見慣れてるでしょ?」
 そうじゃない。誰か来たらどうするんだ、……そう言いかけて、海馬は諦めたように立ち上がると、部屋中をぐるりとまわってドアに鍵をかけた。ひと段落終わったところでもう一度なまえを見れば、シャツに短パンだけでソファーのベッドに寝転び、デッキを手の中で広げて眺めている。
 さっさと寛ぎ始めたなまえにペースを乱されて、海馬もムッとしたのか書斎机のパソコンの電源を切る。スラックスのベルトだけ引き抜くと椅子に放り、口を曲げたままなまえの横にズイズイと割り入って寝転んだ。

「せまいぞ。」
「あなたがタテにばっか長いからよ。ベッドに戻る?」
「いや、2時間だけだ。」
「そう」

 ソファの肘掛から海馬の足が放り出されている。本人はそれでも気にしない様子でモゾモゾと下に降り、なまえの胸に顔を埋めて抱きしめた。
 この体勢だと腕が痺れるんだけどな…… そんな文句も今は飲み込んで、なまえは目一杯に腕を伸ばしてカードをテーブルに戻すと、ブランケットを引き上げて海馬の体を包んだ。

 そっと海馬の前髪をかき分けて唇をあてる。やっと38度くらいだろうか、今朝よりは下がったように感じた。

「(黙って寝てる分にはカッコいいのに。)」
「なまえ」
 ぱちっと開けられた青い瞳に心臓が跳ねる。

「いまオレの悪口を考えてただろう。」

「そんなことないよ」
 目をそらして片眉を下げるなまえに、海馬は首を伸ばして軽いキスをした。
 そしたらまた“定位置”に戻ってすこしモゾモゾとしたあと、数分と経たないうちに寝息が聞こえ始める。
 なまえはやっと安心して、海馬の頭を撫でながら目を閉じた。

***

 悩みなら聞くぜ! と威勢の良い城之内を横目に、なまえは「そういうわけじゃ…」とブリトーにかじりついた。
 なんとなく笑って誤魔化して、海馬の名誉のために「海馬が風邪をひいた時の対処法」については胸に仕舞い込んでおく。
 休んだおかげか、今朝の海馬はケロッとしていて何事もなかったかのように仕事へ出て行った。正直こっちは腕は痺れるわ出席の単位が危ぶまれるわどっと疲れるわで散々だったと言うのに、海馬は自分の風邪を認知しないし、体の異変も気力で正常に動かすという根性論の塊りなものだから、なまえの気苦労なんか知るよしもない。
 自然とでる吐息に遊戯はまた眉をハの字に下げた。

「ねぇ、もしかして具合悪いの?」

「ふぁ?」
 もぎゃもぎゅとブリトーの最後のひと口を口に押し込んでたところで、格好のつかない変な返事を返してしまう。なるべく早く挽回しようと「も“っ も“っ」と勢いよく飲み込むと、遊戯に赤い顔を向けた。

「そんなわけ───」

***

「兄様?」

 唯一合鍵を持っていたモクバが部屋を覗き込むと、書斎机にいつもの兄の姿はなかった。
「いないの?」
 そう言いながら足を踏み入れると、ソファー同士をくっつけた中になまえと抱き合って眠る兄を見つける。

 モクバはいけないものを見てしまったような気がしたが、幼い頃の記憶にある兄の寝顔と全く変わってないのを見て、つい小さくわらってしまった。

***

「納得いかない。」

 なまえは冷たいジェルシートをオデコに貼られ、自分の家のベッドに寝かされていた。
 家政婦があれこれサイドテーブルに置いて出ていくと、その元凶が腕を組んでなまえを見下ろしていた。

「バカは風邪を引かないらしいな。フン、まあ貴様がバカでないと知れただけ良しとしよう。」

 ゴルゴ13こいつを狙撃しろ

 そう思っては見たものの本当に魔導士の誰かが出てきても面倒なので、なまえは一旦自分を落ち着かせた。
 せっかくお見舞いに来てくれるなら遊戯とか杏子とか、……とにかく癒しになる人物がいい。だが早退してきたがために、頼みの彼らはまだ学校で授業を受けている時間だった。

 そこへバサリと盛大な花束をベッドに放られて、うんと顰めた顔を自信満々に花束を用意してきた男に向けてやる。

「フン、体調管理がなっていない。このオレを見習ったらどうだ。」

 明日城之内に海馬の風邪の実態を吹き込もう。なまえは熱い頭の先までブランケットを被った。


- 17 -

*前次#


back top