「ッ……と、」
 結露した廊下のタイルで足が滑る。既の所で転ぶところだったが、なんとか持ち堪えた。


 海馬から「来週あけとけ」と言われてから、あっという間に金曜日を迎えていた。今のところモクバ君とメールしたり電話したりするだけで、肝心の海馬からのコンタクトは一切ない。
 それでもなまえはどうせまた突然現れて連れ回されるのがオチだろうな、としか思わなかった。

 降り続く雨と限界値超えてそうな湿度にうんざりする。ただでさえ滑りやすいのに先生が生徒に掃除当番をやらせてモップ掛けなんかするから、余計にどこも水浸しで歩きにくかった。


「大丈夫?」

 突然背後から掛けられた声に千年秤が僅かに震え、振り向かずともそれが遊戯だとわかる。
 振り向いて見れば、表の人格の方の遊戯。
 ちょっと恥ずかしいところを見られたと、なまえは口を曲げた。

「み、見てた?」
「あはは、ごめんごめん」
 廊下の窓一面に映る電灯が外の暗さを物語っている。昼休み頃から降り出した雨はまだ止みそうになかった。

「もう怪我は大丈夫なの?」
「うん。あの時はありがとう」
 顔の絆創膏が無くなっている遊戯になまえは胸を撫で下ろす。視線は自然と千年パズルに吸い込まれた。

「あのさ、なまえ……今度の日曜、ヒマ?」

「……え?」

「実はさ、もう一人の僕が最近なんか元気なくてさ。僕にも打ち明けてくれないし…… なまえに会えば、元気でるかな〜と、思ってさ。」
 少し恥ずかしそうに目を逸らす遊戯に、なまえが目をぱちぱちさせた。
 それを見た遊戯が、はにかみながら頭を掻く。

「え、えっと、じゃあ日曜の10時、童実野駅とか、どうかな。」

「え、……えぇ。別に構わないけど」
 なまえの返事に遊戯がパッと顔を上げる。その嬉しそうな表情になまえも照れ臭くなり、たじろいだ。

「ありがとう! じゃあ、約束だよ! 僕もう帰らなきゃ、じゃあね!」
 結露で滑りやすくなっているのも構わず走って行く遊戯に、なまえは「う、うん、じゃあね」と返すので精一杯だった。

「……え? これ、って……デート?」

***

「おい城之内、静香ちゃんの手術どうなった?」

 掃除当番の本田と城之内が、廊下のモップ掛けをしていた。バケツにモップを突っ込んでお喋りを始めた本田に、城之内も手を止めて振り返る。
「あぁ、遊戯の賞金のお陰で、目の手術じゃァ世界的権威とかっていう医者が居る病院に入院できてさ。もうすぐ手術なんだ」
「その時は行くんだろ?」

 本田の当然だろとばかりの物言いに、城之内はふと視線を逸らした。そのまま窓の外で降り頻る雨を見たあと、答えあぐねてモップを自分の方のバケツに突っ込む。

「わかんねぇ。……ホラ、オレんとこ昔、父ちゃんと母ちゃんが、オレと静香を別々に引き取って生活してるから───」

「なに言ってんだよ。行ってやれよ」

 辛気臭い城之内の肩を本田が抱く。
「オレも一緒に行くからさ!」
 慰めかと思っていた城之内もその一言で一気に表情を変えた。

「なんで本田が来るんだよ!」

「静香ちゃん、おめぇに全然似てなくて可愛いじゃねぇか。紹介しろよ〜」
 悪びれもせずそう言い放つ本田に城之内は肩に掛けられた腕を取り関節技を決めてやる。

「テメェ! やっぱりそう言う事か〜〜!!!」
「待て! ギブ! ギブ!」

***

 昇降口へ降りて行く途中、階段の踊り場から、靴箱の列の向こうで杏子がひとり立っているのが目に入った。どんなに同じ制服の女の子がたくさん居たって、遊戯にはどれが杏子かすぐに分かる。

『相棒』
「わっ!」
 突然の声に今度は遊戯が足を滑らせた。思い切り尻餅をついて痛がる遊戯を、千年パズルの中の遊戯が『す、すまん! 大丈夫か』と心配そうに覗き込んだ。

「(どうしたの、もう一人の僕)」
『……いや、すまないが、少しの間だけオレと変わってくれないか。』
「(えぇ? ……まぁ、別にいいけど。)」

 千年パズルが煌めけば、遊戯の目つきが変わる。
「悪いな、相棒。」

 心の部屋に表の遊戯が閉じ籠もったのを感じる。しばらくは相棒も出てこないだろう。
 遊戯は階段を降りて靴を履き替えると、何度か見回して杏子の後ろ姿を探した。

「あれ…… 居なかったか? マズいな、」
「遊戯?」

 見つけられなかった目当ての人物の声が降り掛かる。驚いて振り向けば、探していたはずの杏子がキョトンとした顔で遊戯を見ていた。

「杏子! 探したぜ」
 声色とその目の色に、目の前の遊戯が“いつもの遊戯じゃない方”だとすぐに気がつく。途端に高鳴る心臓が杏子の瞼を瞬かせた。

「私を?」
「あぁ。」
 幼なじみのはずの遊戯、それが中身が違うだけで杏子は何故か急に照れ臭くなる。少しドギマギしながら、平静を装って「なあに?」と聞き返した。

「今度の日曜、オレとデートしてくれないか?」

「……えっ」

 なんの恥ずかしげもなくデートに誘ってくる遊戯に、杏子が目をぱちぱちさせた。
 それを見た遊戯が、自信満々なのか不適に笑う。

「今度の日曜、10時に童実野駅で会おうぜ」

「え、う……うん!」
 杏子は状況が良く分からないまま二つ返事で返す。そのパッと嬉しそうな表情を咲かせる杏子に、遊戯も満足そうに笑った。

「助かったぜ! 実は相棒がこの前の火事の時から、色々気に病んでるみたいでさ。オレと話すより、杏子と気晴らしでもしてくれた方がアイツのためになると思うんだ。」

「え、」

「じゃあ、相棒が爺さんの店の手伝いあるから」
 何か重要なことを返事のあとで聞かされた気がする。それを確かめるより先に、遊戯は雨に濡れるのも構わず走って行ってしまう。
 「約束だぜ!」と言いながら校門を出て行く遊戯の背中に杏子は手を振るのが精一杯だった。

「……え? アタシ、どっちの遊戯とデートするの?」


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