「落ち着いた?」

 暖かい缶のココアを差し出されて、震える手でそれを受け取る。冷たくなったベンチに腰を下ろし、すっかり星が輝き出した空を見上げた。

「ごめん、……勝手に怒って。痛かったでしょ」
「ううん。僕は大丈夫。……僕も、もう1人の僕とちゃんと話すべきだった。そしたらなまえを、ううん、杏子の事も傷付けないですんだのに」

 隣で缶コーヒーを開ける音がした。海沿いには首を這うネックレスのように光の粒が連なり、いくつもの大きな灯りが煌めいている。

「……」
「……」

 遊戯を叩いた手のひらがまだジワジワと痛む気がした。あんなに感情を露わにして泣いたのはどれくらい振りだろうと、なまえは腫れて重くなった瞼を指でなぞる。
 不思議だった。泣きたくなって大声を上げたくなっても、今まで我慢する事ができていた。父親が死んだときも、母親に捨てられたときも、海馬にひどく心を揺さぶられたときも。
 それがどうして遊戯が来ないだけであんなに涙が溢れたのだろう。

「ごめん遊戯、もう1人の方と、少し変われる?」
「え、あ……うん」
 遊戯は缶コーヒーをベンチの端に置くと、千年パズルに手をやった。
 金色の光がなまえの赤く擦れた鼻先を照らす。その目をもう1人の人格に入れ替わる瞬間に向けた。
 なにか別の感情が膨らみ続け、限界まで張ったその表皮が弾けた気がした。まるで心臓をひと突きされたように、胸の中が痛み、熱いものが広がる。

「なまえ、──」

 遊戯の瞳がなまえを捉えようとしたとき、冷えた体に彼女の腕が回された。

 どこか遊戯の赤っぽい髪にも似た、なまえの赤い髪が視界に広がる。心の部屋から出て肉体の感覚を得て、遊戯の肩にはなまえの震える吐息が降り掛かった。

「お、おい」
 遊戯は思いがけない事態にたじろぐ。いきなり頬を引っ叩かれたと思ったら、大泣きされて、今度は抱きしめられている。何かが変だ。だけど分かっている。なまえがどうして泣いていたのか、どうして怒っていたのか、そして今どうして自分に縋り付いているのか。遊戯にはどうしてか分かってしまった。

 だからこそ、なまえが自分をどう思っているかだって知っていた。

「ごめん遊戯、ごめん……」
「……オレは大丈夫だ。すまない、オレの方こそ」

 シャンプーの匂いだろうか、甘すぎない爽やかな香りが遊戯の胸を満たす。冷たい背中に腕を回し、慰めるように頭を撫でてやる。
 その髪に触れるのは初めてのはずだった。だがその瞬間遊戯の心は震え、忘れていた記憶の彼方に今が重なる。
「遊戯?」
 すぐにその違和感を察したなまえが体を離してその目を覗き込む。

「あ、いや…… なんでもない」

 なまえを好きだと認識していた感情が揺れた。なまえが本当は誰を好きか知っているからではない。その「好き」と遊戯の持つ「好き」の意味に齟齬がある、……そう気付いてしまった。
 その証拠と言うべきか、あんなに好きだったなまえが抱き付いてきても、何の欲求も湧かなかったのだ。確かにドキドキはしたけど、そう…まるで相棒、いやもう1人の自分のような存在だと思った。

 それを知ってすぐ、遊戯の心は自然と落ち着いた。

 何もかもと向き合わなくてはいけない。自分のことを、そしてなまえのことを知りたい。千年パズルに千年秤、決してなまえが千年秤を持ち、遊戯に出会ったのは偶然なんかじゃない───

「なまえ、これからエジプト展に行かないか」
「え、……」

 脳裏に千年首飾タウクを下げた女がよぎる。大して話しは出来なかったが、海馬の持っていたあの強大な力─── またあれに向き合わなくてはいけないのか。
 陰の差すなまえの目をまっくずに遊戯の目が見つめる。小さく息を飲むと、千年パズルに視線を向けて頷いた。

「わかった」



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