鮮烈な光の中で、なまえの心は平静そのものだった。心を塞いでいた一枚の壁が砕け落ち、目の前に降り頻る。その 燦醒さんざめく断片の向こうで、膝を抱えて震える少年の姿を見た。なのに、なんの揺らぎも、なんの 漣凪さざなぎも感情として起きない。
 ただ茫然と、あれが何だったかを思い出そうとしていた。


「なんだアレは……?!」
「うっ……」
 孵化するように聖杯から抜け出た“それ”は、長い躰を伸ばして咆哮をあげた。強いて言うなればサソリ。しかし身体中に端巡らされた棘に幾重にも重なる牙が除いた大口、虫とも獣とも違う一種独特な姿をした《聖獣セルケト》は、外野で観ていた本田や杏子、静香には本能的な嫌悪感を抱かせる。

「《聖獣セルケト》は、聖櫃に封印された聖なるカードの守護神! そう、……神のカード《ラーの翼神竜》は、この聖なる守護神によって守られている」

《聖獣セルケト》(★6・地・攻/ 2500)


リシド(手札 2/ LP:6500)
なまえ(手札 7/ LP:900)

「(なまえ……?)」
 巨大な体躯のモンスターを前にして、茫然と立つだけのなまえに海馬が違和感を察した。諦めずに闘う姿勢を取っているでも、まして敗北を認めたわけでもない、本当にただ静寂の色をした横顔。むしろ焦っているのは、対峙しているリシドの方だった。


「(なぜだ、……なぜ千年秤が、)」
 なまえの足元に落ちる濃色の影。その光源は頭上の月。震えているのはリシドの手では無い。
「(千年ロッドが震えている)」
 マリクは外野で観戦している遊戯達の一番背後で、背に隠し持った千年ロッドに眼を向ける。反応しているのは千年ロッドと千年秤、そして───

「(これは……)」
 遊戯もまた千年パズルに手を伸ばす。冷たい黄金の外殻に触れた瞬間、指の腹から脳天までを雷光のようなものが駆け抜けた。
「───ッ」
 真っ直ぐに向かい合った、同じ赤紫色の瞳。その周りを駆け巡る景色や光景が大河のように流れるが、見つめ合うその瞳から目が離せないせいで何も見る事が、その眼を持つ女の顔すら認識する事ができない。ただその一瞬で、遊戯は間違いなく“前の”一生分の彼女を観た。
 青い瞳の男に血で染められる最期まで。

『もう1人の僕?!』
 どうしたの、と続く表の人格の遊戯の声は遠く、目の奥で煌いた水面の小波も蜃気楼のように夢散した。は、とやっと大きく息を吸ったところで無機質な鉄の床を見つめていたことに気がつき、顔を上げて望む者の姿を探す。
『(もう1人の、僕……?)』
 呼んでも顔を向けない彼に、表の人格の遊戯も同じ方向を見上げた。デュエルディスクも構えず、両の腕を下ろして佇むだけのなまえの背中と、風でひるがえる赤い髪。どこか険しい目付きで、しかし何かを探るような目で遊戯が彼女を見つめている。
 千年パズルに触れてから何かを感じたのは察していた。それがなまえのことだろうということも。それが段々と、自分ともう1人の自分とを隔て始めていると気付いていて、表の人格の遊戯は不安の手を握り締める。

 手を握り締めたのはもう1人。マリクは遊戯の動向から眼を離すと、リシドの顔色に眼を細めた。
「(リシド、何を焦っている)」


「セルケトは特殊な儀式召喚のため、呼び出したターンはバトルフェイズがスキップされる。よって、私のターンは終了だ」
 リシドの、ターンのエンド宣言。それが聞こえていない筈もない。なのに、なまえの顔は風にはためく髪で伺えない。

「おい、どうしたんだ、なまえのヤツ……」
 海馬の足元でモクバが呟くのを聞き逃した者はいない。その一声を発端に、城之内や本田、舞、御伽へと、違和感は伝染していく。
「なんだ、ビビっちまったのか?」
「そりゃあんな気色悪いモンスター相手じゃぁ……」
「バカ! んなわけないでしょ?!」
「なまえちゃん! ターン宣言!」
 騒ぎ出す周りに杏子が遊戯を覗き込む。だが杏子の予想に反して、遊戯はなんとも言えない、まるで僥倖に当てられたかのような顔をしていた。
「……遊戯?」


「みょうじなまえ、デュエル続行の意思がな───

 ジャッジの磯野の注意からか、それとも最初から周囲の声など聞こえていなかったのか。慌てた様子もなく、なまえは静かにデュエルディスクを構えてデッキに手を向ける。


 ぬるい油の中に居るような感覚だった。体は滑らかに動くのに、どこか重くて抵抗を感じる。まばたきをしなくても目が乾かない。だけど呼吸が重くて、肺を別の何かが満たしているような意識の中で、なつめ色の微睡に声をあげた。

***

 私のターン、そう宣言した自分の声が遠い。
 微睡みから目を開ければ、煮詰めた飴色の地平線と、太陽が沈んだ青い空の溶け合った、境界線の無い世界に佇んでいた。持ち上げた腕にデュエルディスクの重みがない。それどころか、両の腕を糸で手繰られているような浮遊感と圧迫感に、やっと誰かから腕を掴まれていると気がつく。
「───ッ」
 振り向くより先に、肩を撫でる髪が吐息に揺れた。自分と同じ色をした瞳に、自分の横顔が写っている。背後にぴったりとくっつく女は、なまえの両の腕を掴んだままその赤紫色の目を細めて、憂いたように鼻筋を寄せた。
「あ……」
 覚えている。彼女は、───

『善良な部分の私。臆病で、愚かで、脆弱…… お前は私』
 まるで自分の子のように慈しむ瞳を伏せて、彼女は顔をなまえの横顔に摺り寄せた。あのとき感じた恐怖や畏れ、冷たい目などどこにもない。なまえはその違和感に目を見開くことしかできないでいる。
『私は善良であろうとして憎悪を受け入れなかった。その姿こそが悪であるとも知らないで…… 空っぽに尽きた“愛の容れ物”の私は、この手から溢したものを探している。だから千年秤は、あなたを見捨てない』

「……! あなたは、誰……?」
 スッと顔が退かれ、掴まれた両腕でただ背後にその存在を感じながら声を待つ。塵よりも細かい砂が足首まで飲み込んだ。ぬるい油のような微睡みが迫り来る中で、溶けた地平線から太陽や月を目で探す。光源の何もない純粋な青色の中で、なまえの意思に反して瞼まで溶けたように重くなっていく。

『私はあなたの青い時間。あなたが叶えた“女の願い”が形成した、ひとつのかたち。どんなかたちで生まれても、始まりがどうであれ結末は自分の選んだ道の涯てであることに変わりはない。だから今度は、───自分のために、彼を愛するためだけに生きると約束したの』

「……ッ、海馬」
 真青色の空気、この青い時間は、海馬の目の色。その顔を探すように、なまえのまぶたがついに下睫毛をなぞって閉じられた。ズルズルと微睡みの砂漠へ飲まれていくなまえの腕を離し、女は薄暗い青色の空気を閉じ込めた空を見上げる。

『私はあと2人を探している。───たった一度しか生を受けていない2人。何千年分もの終わりと始まりの数だけ離れていても、何千年分の生を繰り返し、私は2人を追いかける』

 顔の半分まで砂に埋れたなまえが僅かに目を開けて、女を見上げようとした。だがその顔は天を仰いでいて垣間見ることさえできない。抗いようのない眠気の中で、ぼんやりとその声を聞いた。

『どうかもう一度だけ、この腕で抱くために』



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