深夜、ドアを開けると、白いものが目の前を掠めて落ちた。どうやら、開けたら落ちるよう挟んでおいたらしい。こんな事をするのはWだけ。つくづくやる事のひとつひとつが気障な男だと思う。
 \は腰を屈めて紙を拾い上げる。今度はノートの切れ端ではなく、ちゃんと折り畳まれた便箋だった。
 粗暴な人格をしているくせに、字だけは綺麗。薄暗い中でたった数行の、整然と並んだ文字の羅列をぼんやりと目で辿るが、\は途中で読むのをやめ、ため息をついて便箋を折り目に沿って畳み直す。着ているものにポケットでもあれば良かったものの、生憎寝るためだけのガウンにそんなものはない。
 足元が僅かに見える程度の明かりしかついていない廊下を、真っ直ぐ斜め向かいに進む。ドアノブを回せば、待っていたとばかりに扉は口を開けた。勝手に入って、後ろ手に静かにドアを閉めると、\は歩きながらガウンのリボンを解いて床に落とす。
 暗闇に目が慣れてくれば、カーテンの隙間から差し込む窓明かりで、ベッドに横たわるWの肩と背中の影が見えた。
 ルームシューズ代わりのミュールが音を立てないよう窓際の方へ回り込めば、見慣れたWの寝顔がそこにある。床に膝をつき、腕を組んでベッドに預けると、肘に顔を埋めてまじまじとWを眺めた。
 無防備に息をする整然とした寝顔、“元の位置”に戻された眉。静かに頬杖をつき直すと、\は慎重にWの前髪をかき上げた。まぶたと眉を突き抜け、額にまで伸びている十字傷。Wと同じ傷を描くように、\は自分の無傷な方の顔に爪を立てた。
 顔を寄せれば体重のかかった手の下でベッドが軋む。垂れた髪がWの鼻先に触れる前にかき上げると、\はWの右の頬骨のあたりに唇を落とした。リップ音も立たない、肌と肌が僅かに触れるだけのキス。
 そのまま離れて立ち上がろうとWから目を離した瞬間、腕を掴まれた。

 互いの呼吸音だけがする暗闇。さっきと違うのは、それが寝息ではないということ。
 Wにまたがる形で向かい合い、抱き締める腕はガッチリと頭と背中に回され動けない。それでも\は首だけでも少し動かして、Wの鎖骨に折られそうな鼻筋を外の空気の中へ逃した。肘から下も体と体の間から抜き、背中に回してやると、Wは倍の力で抱きしめ返してくる。
 肌と肌を直接密着させても、肌と肌でお互いが分かり合えない予言を囁き合うだけ。
 テンポの違う心臓の音、Wの熱い体温と、\の冷たい肢体。まばたきをする粘膜の音さえ聞こえそうなほど静まり返ったベッドの上、少しだけ緩んだ腕に体を離せば、真っ暗な中で煌めくWの視線とぶつかる。
 Wが恐る恐る指の背で\の頬を撫でると、嫌がる気配のないのを見てそのまま冷たい顔を包み、引き寄せた。だが鼻先同士が触れ合ったところで、\は少しだけ顔を逸らす。苛立ちに軋んだ歯を隠す震えたWの唇は、\の唇から少し逸れたところに迎えられた。
 無力な自分を嘆くように、Wは\の首筋に顔を埋めて大きく息を吐く。
「満足かよ」
 Wがやっとこぼした、震えた低い声。熱い息が肩にかかる。耳元を掠める癖っ毛がくすぐったい。Wの肩から腕を辿り、行き着いた手のひらを握れば、指を絡めて握り返された。
 ゆっくりと目を閉じて、\も頭をWの首元に預ける。
「……私はWの“なに”になればいいの」
 絡めた指に撫でられる右手の傷痕、そこへ潜むカイトの悲しみ。冷たい空気に晒した左の顔の火傷痕、そこに染み付いたWの嘆き。きっと、そのどちらにも自分は介在していない。……自分はただの水。自分を受け入れてくれる器を求めているだけ。カイトのことも、Wのことも、傷付け合ってよく理解した。受け入れる側になれば、その人を溺死させてしまうだけなのだと。
 だから、“役目かたち”を与えてくれないと、私は何も応えてあげられない。
「双子の妹は、もういらない?」
「……俺の恋人になれっつったら、なんのかよ」
「……」
 すぐ返事をしない\に、顔をうずめたままのWが鼻で笑った。
「Wはどうして私のことが好きなの」
「いま聞くかよ、フツー」
 やっと顔を上げたWが、間近く\の目を覗き込む。手を引かれ、促されるまま一緒にベッドへ沈めば、冷え切った\の体をブランケットとWの腕が包み込んだ。
「もう寝ようぜ、……どうせ、解決しねぇさ」


 ───アイツを笑わせてやりたい。
 最初の動機は、純粋にそれだけだった。忘れもしない、あのとき俺と\は10歳。怒られると分かっていながら、冒険にでも出るような気持ちで俺は\を連れ出した。手を繋いで花壇のへりを辿って、芝生の丘陵を転がって、……忘れたくても、忘れられない。噴水を覗き込むアイツに水をかけたのが始まりだ。びっくりしたアイツの顔を笑ってたら水をかけ返されて、気付いたら、2人で水浸しになりながら大笑いしてた。
 覚えてるさ。俺たちを探し回ってた父さんや兄貴が血相変えて飛んできたのを。少し離れた所から\を見つめていた奴が、カイトだったって事も。
 だが皮肉なもんだぜ、水をかけてアイツの笑顔を取り戻したはずの俺が、火を浴びせてその顔の半分を奪うことになるなんてな。


 ハ、と目を覚ませば、カーテンの隙間から差し込む朝日が、Wの目に\の寝顔をはっきりと写した。枕と首の隙間に差し込んだままの腕に、寝汗で\の髪が絡む。
 \の寝顔で全て吹き飛んでしまったのか、自分が何の夢を見ていたかを思い出したくても全く思い出せない。Wは大きく息を吐きながら、仰向けになって自由な方の手で目元を覆った。途端に心地いい倦怠感が背中を襲い、\を起こさない程度にあくびをして体を伸ばす。
 ひと心地ついて一度深呼吸をすると、Wはなんとなしに部屋を見渡した。
 二度寝をしようか、\を起こすか。そう考えたところで、もうVが起こしに来ないのだという現実が、やっとWの胸に沈む。
「W」
 突然の呼び掛けに、悲鳴に似た呼吸音がWの喉を鳴らした。顔を向けた先て、あくびをして体を伸ばす\が顔を擦る。
「いま何時?」
「え、あ……」
 さっさと体を起こした\が、声を詰まらせたWに振り返った。寝ぼけたようなふりをして、Wは顔を覆って隠す。そして自分の部屋の時計がある方を指さした。
 \が指さされた方に目を凝らし、時計の針を眺めるのと同じくらいのタイミングで、ドアの向こうにXの声が遠く漏れ聞こえた。
『\、私だ。起きているか』
 斜め向かいの、\の部屋のドアをノックする音。
「やべ、」
 ガバッと飛び起きたWが、\の腕を掴んで部屋中を見回す。とりあえず部屋の隅の棚の影に\を押し込むと、Wは顔を擦って何か考え込んでからドアを開けた。

「……\なら朝早く出てったぜ」
 廊下に顔を出したWに、Xがノックをしていた手を止めて振り返る。
「そうか」
 分かったら早くどっか行け、と念じるWの思いも虚しく、XはWに歩み寄った。下着一枚で出るのを躊躇いはしたが、Wは慌てて自分の部屋に立ち塞がり、後ろ手にドアを閉める。そんな引き攣った顔を見て、弟が何か隠しているのを察せないようなXではない。
 肩や太腿に残った赤い圧迫痕と、後ろ手に離さないドアノブ。言及する気にもなれず、Xはため息をついて手にしていた紙束をWに差し出した。
「代わりに渡しておいてくれ。今夜の前夜祭パーティーの招待状と、会場の見取り図だ。お前の招待状も入っている」
 受け取ってざっくり目を通すWの伏せたまぶたを眺め、Xは閉ざされたドアに視線を向ける。
「早く服を着ろ。風邪をひくぞ」
 去り際にそれだけ言って背を向けたXに、Wが顔を顰めた。見送るつもりはなかったが、ある程度離れたのを確認してからWはドアを開ける。少し荒っぽくドアを閉め、鍵をかけて、Wはやっと息をつく。
「(バレてんな、あれは)」
 今更自分の選択ミスを悔やんでも仕方がない。ドア横のテーブルに招待状や紙束を放り、やっと部屋の奥で膝を抱えて座り込む\に目を向けた。


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