「ここにいたのか」

 開け放たれたドアから入ってきたのは、Xと地平線を登り始めたばかりの朝日の直射光。白金色の影に塗りつぶされたXは、すぐ近くまで歩み寄ってきて初めてその顔が見える。
「X兄様」
 Vの眠るベッド。\はその枕元に腰掛けて足を組み、頬杖をついていた。Xが近くに来れば組んでいた足を下ろし、背筋を伸ばす。
 見上げてくる\の顔越しに、ピッタリとまぶたを閉じたVが、Xの目を細めさせた。深く何かを考えるように目を閉じたあと、Xは\と同じようにベッドへ腰掛ける。軋んだスプリングに\はXを目で追うのをやめ、またVに顔を向けて、その頭を撫でた。

 トス、と大きな手が頭に乗せられた。Vではなく、\の方に。少し見開いた目をXに向ければ、その顔は想像以上に掴みどころのない表情をしている。
「兄様、……?」
 頭を撫でる不安げな手が、垂れた前髪をどかして左の顔の火傷痕を覗く。
 Xが秘密を知っているような気がして、不穏に騒めく胸を必死に落ち着かせた。知らなかったとしても、Xは鋭い。変に怯えれば悟られるだろう。
 Wに会えば、きっとすぐに気付くだろうけど。
「君はこれ以上カイトに、……いや、私達に関わるべきではない」
 思いがけず、心臓が手からこぼれ落ちそうなほど跳ねた。
「なにを言って───」
 だがXの目はまだ慈しみがある。自分が思っているような内容ではないはずだと確信して、\はあくまでシラを切るつもりで、平静として見せた。
「私たち家族の行く末は見えている。たとえ復讐を果たしたとしても、私もWも、Vと同じ運命を辿るだろう」
「───、」
 開きかけた\の唇を、Xの指が静止する。
「私は兄として、君が望む男に、\…… 君をくれてやる日が来るのを、君が幸せになる未来を信じていた。……わかるね?」
 Xの指は\の顎下に滑り、まるで懐かしむようにまっすぐ自分に顔を向けさせて眺めると、意を決したように手を下ろした。
「ここから出て行くんだ」
 呆然とする\の肩を掴む。
「この命にかけてトロンは私が説得する。君はこれまで充分犠牲になってきた。……私達のことも忘れていい。だから、」
 カイトのことは忘れなさい。
 そう言い放つXの声が聞こえた気がした。Xは実際にそう言っただろう。だがあまりにも現実から離れすぎていて、そして予想できていなかったせいで、\はしばらくその言葉を自分の中で反芻するしかできない。
 顔を下ろして体の重心が変わった時、ポケットに入れたままの便箋が\にしか聞こえない音を立てて、\はやっと飲み込み、目を閉じた。
「……私を、」
 静かに口を開けた\の肩から、Xの手が滑り落ちた。少しも驚いた風にも、まして悲しいような素振りも見せない。\は淡白な目を細めるだけで、眠ったままのVの方に顔を向ける。
「兄様は私を、……恨んでる?」
 手を伸ばして、眠ったVの前髪を直してやる\の横顔が笑う。Xは即答してやることができず、\の膝の上に乗せられた右手の傷痕をぼんやりと見つめた。そんなXに\が息をついて、開け放ったままのドアへ視線を向ける。
「私がいなければ、カイトはハルトの事で苦しまずに済んだ。X兄様達ともきっと仲良くいられた。……Wが、あんなに苦しむこともなかった」
「\、私は君を恨んでなどいない。……Dr.フェイカーは、君に会わなくても、いずれは自分で答えを導き出していただろう。君はただの切っ掛けにすぎなかった」
「……」
 僅かに\の右手が動く。それを静かに眺めていたXの耳に、\の震えたため息が届く。
「いまさら、……私を追い出さないで、兄様」
 深く沈んだ瞳を半分覆うまぶたの、端が揺らめく前に\は目を閉じた。そんな\にXが唇を噛む。
 もう癖になってしまっていたのかもしれない。Xはどうしてやることもできず、誤魔化すように\の頭を撫でる。
 心地いいその感触に浸ってしまう前に、\はその大きな手から逃れて立ち上がった。VとXを背にして少し離れた\をXが目で追うと、俯いていた彼女は確かに頭を上げ、背筋を伸ばす。
「兄様の大切な家族は、もう減らさせたりしない。どうか許して、……Wが生き残るためなら、私はなんだってする」
 振り返った\の目は、もう少しの揺らぎもないものだった。思いがけずXの方がその視線に気圧されかける。
「Vのことも、1人にはさせません。だから安心して、兄様」
 小さく笑うと、\はもう振り返らずに部屋を出て行った。その背中を見送ったあと、XはVの顔を眺めて、返事の期待できない言葉を絞り出す。

「君も、私の大切な家族の1人なのだよ」



「(……歩きにくい)」
 なんだか今朝は、いやにハイヒールの靴がグラグラする。
 なんでこんな靴で生活してるんだろう。Wからだって「もうやめろ」と言われた。
 ───『見た目の背丈を合わせるくらいしか、もう同じところがないじゃない』
「……」
 この靴を脱いで外に出てしまったら、Wと「双子の兄妹」で居られなくなるような気がしていた。これは自分への戒め。もう誰のものにもならない。誰のことも愛さない。……Wとは兄妹でいよう。そう言い聞かせて、姿だけでもWの双子に見えるよう努力してきた。
 それが昨夜で、変わってしまったとでも言うのか。


 ───『私だってWのこと愛してた』
 そう告げれば、Wは逸らしたままの顔を顰めて向き直り、膝をソファから下ろして\を解放した。ゆっくりと両の手を伸ばして\の手を取ると、その場にひざまずいて\の目の奥を伺う。
『嘘じゃない』
 自分がどんな顔をしているのかわからない。だが少なくとも、Wの顔を見るに、それがWの望んでいたものではないのが分かる。
 自分の手を包むWの手の片方がゆっくりと胸元に伸びれば、開け放ったままのシャツが直されていく。そのままWの手が首へ、そして頬へと滑り、手繰り寄せられるように顔を寄せ合う。
 目を閉ざし、瞼越しに感じる光が落とす血肉の影と闇の中で、キスはこんなに痛いものだったろうか、とか、カイトの思い出を漁りそうな自分を殺した。血の味と、骨に残る鈍痛と、切り傷に染みる熱い吐息。
 カイトとのキスは、いつも唇を重ねるだけだった。そういえば、初めてのキスも痛くて、血の匂いがしたっけ。……あぁ、やっぱり、カイトのことを思い出す。

 優しく吸い付く唇に口を開けば、Wは少しも躊躇うことなく舌を侵入させた。
「……ッ、ん、」
 舌先を絡める初めての感触に、\の肩が跳ねる。
 Wの手を握り返せば、目を閉じていてもWが指を絡めて手を繋ぎ直すのが分かった。見えてないのに、口の中のどこを、舌のどのあたりで舐め上げられているのか、想像できてしまう。
 人生でキスをした回数なんて覚えてない。でも少なくとも、\にとってWは2人目。なのに初めてしたキスの思い出よりも、今の方が心臓が大きく鳴っている。いったい何分間続くのだろう。それくらい、愛撫に近いWのキスに意識が飲み込まれていく。
 声が漏れそうになるのを飲み込んで、瞼の裏の闇の中で弾ける光のような目眩に微睡んだ。
 耳と顔が熱い。息をするタイミングがわからない。顎から垂れて首に伝う熱いものが、はたして血なのか、混ざり合ってどちらのかもわからなくなった唾液なのか、目を開けて確かめる気にもならない。
 ただ、ぼんやりと、もしVが目覚めなかったら、彼はこんな風に誰かとキスをする事もないんだろうなと、驚くほど冷たい自分が傍観している。でも、許してくれるよね。
 ……私も明日で終われるのだから。

 ハッとして目を開ければ、Wも察したのか唇を離して\の目の奥を覗き込んだ。濡れた瞳の表面に落ちるまつげの一本一本の影が見えるほどの距離で、視界が滲み、歪む。
 落ちるべき涙はWの胸元に吸われて、地に帰ることはできなかった。
 頭を包むように抱きしめられ、暖かい闇が視界を覆う。
『……悪りィ』
 声帯を震わすWの低い声は空気に溶けず、\の体を覆ったWの肉体から直接届く。\には、それ以上言うつもりも、そして聞くつもりもないと言っているように聞こえた。事実そうだったと思う。
 言ってしまえば、そして聞いてしまえば、きっと互いに後戻りできなくなる。どちらにせよ、もう兄妹ではいられない。本当は嘘をついた時点で気がつくべきだった。なのにまた同じ過ちを犯す。どこから間違えた? ……考えたくもない。嘘をついて、傷つけ合うことしかできない。
『(……カイト、)』
 殺しても殺してもカイトを諦められない自分が駄々をこねる。抱きしめられた暗闇に隠れて、自分以外の心臓の音にカイトばかりを思い描く。Wに罪悪感も抱かないで平然とそんなことを考える自分が一番大嫌いで、こんな地獄の中で私の目を覚まさせた「家族」が、大嫌い。

 こんなに愛しているのに。



 考えが言葉になり、言葉が行動になる。その行動がやがて習慣になり、習慣がその人の人格になる。そしてその人格がその人の運命となる。……考えが人間を創る。Wと\、そしてカイト。それぞれが、それぞれのために“嘘”を吐いた時点で、自分たちは嘘を守るための運命を背負った。
 此処に至る運命を定めたのは、私。

「\」

 開け放ったドアの向こう。壁に投影されていたアニメも、椅子の背もたれも無い。ただトロンがひとり、そこに立っていた。
 待っていたとばかりに微笑み、両手を広げる小さな身体のトロン。
「トロン、お願いがあります」
「なんだい?」
 小首を傾げながら、トロンは広げていた手を下ろして後ろに組む。その、昔と変わらない“癖”に、\は小さく笑った。
「今だけ、昔のように呼んでもいいですか?」
 一度だけでいいんです。そう付け加えると、トロンはまた微笑んで手を差し伸べた。瞬間、\は縋るように飛びつき、トロンの前に膝をついてその小さな手をとり、顔を寄せる。
「父様……」
 聞け、聞け、復讐の神々よ、この呪いを聞け。頭の中でずっと、あの《夜の女王のアリア》が、誰とも知らない声で歌われている。

「さあ\、僕のためにカイトを倒してくれるね?」

 ───《So bist du meine Tochter nimmermehr.そうすれば、お前は私の娘でいられる

「はい、トロン」




 目を覚ますと、自分の部屋とは違う配置の家具に囲まれていた。横に寝ていたはずの\の姿がない。
 広いベッドの片側半分。シーツには皺があるだけで、随分と冷たくなっているそこは、彼女が出て行ってから時間が経っているのをWに囁いていた。
「や、べ……」
 飛び起きてブランケットを剥げば、冷たい空気がWに突き刺さる。床に散らばったままのガウンを拾い上げたところで、鏡台の椅子やオットマンに、Wの服やブーツの一式が掛けられているのが目に止まった。
「……!」
 鏡台の上に畳まれたシャツと共に、なにかメモ書きが置いてある。それを読みたい衝動を堪えて、Wは一旦息をついた。頭を抱えながらあたりを見回すと、放られたままの下着に足を通しながら鏡台に歩み寄って、メモ書きに手を伸ばす。
 大きな鏡に映る自分を気にしながら二つ折りにされた紙切れを取り上げると、何かが挟まれていたらしく滑り出た。1枚のカードが、裏側で椅子の脚の側に落ちる。
 それを拾うより先に、Wは手にしたメモ書きを開く。

Bonum maneおはよう,imperitusへたくそ.』

「チッ」
 どこからどこまでを\が先に経験していたなど知らない。それでもカイトと比較されたような気がして、寝起きから最悪な気分に突き落とされる。Wは悪態をつきながら腰を曲げ、落ちたカードに手を伸ばした。
 拾い上げて見ると、苛立ちも忘れるほどの胸騒ぎにWはまた息を飲む。
「……ッ、\」
 まさかもう儀式を? そう思いついてすぐ、Wは綺麗に畳まれたシャツを乱雑に掴んで袖を通した。



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