「痛……」

 指で触ると、固まりかけた血がつく。長い廊下を歩いていると、向こうからWが歩いてくるのが見えた。咄嗟に血の着いた手を下ろして裾に隠し、いつもより前髪を多めに垂らす。
 待ち構えるWを、何事もなかったかのように、それでいて足早に過ぎ去りながら、「ただいま」とだけ声をかけた。
「\、いままでどこ行ってやがった」
「どこだって良いじゃない」
 呼び止めるWを無視してさっさと進む\。左側の顔は壁に向けて、Wには綺麗な方の顔だけ見せようとする。
「待てよ」
 腕を掴まれるが、\は振り返らない。
「何か隠してやがるな? \、俺に─── ……?!」
 ふと掴んだ腕の袖に血痕があるのを見てWは目を丸くした。
「Wには関係ない」
 その一瞬の隙をついたように腕を振り払う。
「\!」
 逃す気は無いとでも言うように両肩を掴まれ、そのまま壁に追いやられた。観念したようにため息をつくが、それでも顔を背けて唇を噤む。Wはそらされた顔に苛立ち\の顎を掴んで正面を向けさせると、ハッとして前髪を掻き上げた。
「……誰にやられた」
「……」
 額から目元、そして首にかけて広がる大きな火傷痕の染み。その染みの上からスタンプで押されたように青黒く変色した殴打の痕からは、僅かに血が滲んでいる。
「答えろ\!!! ソイツをブッ殺してやる!!! 誰だ、言え!!!」
「……」
「\!!!」

「そこまでだ」

 耳元で大きな声を出されてビリビリと痺れる鼓膜に、Xの凛とした声が水を差した。Wと同時に声のした方へ顔を向ければ、肩を掴んでいたWの手の力も少しだけ緩まるのを感じる。
「\、トロンが報告を待っている」
「はい、X兄様」
 少し離れて立っていたXに返事をして、Wの両手首を掴んで持ち上げれば、すんなりと解放された。だがすぐにハッとしたWが呼び止める。
「おい待てよ\、トロンに何を頼まれた。なんでお前がまた怪我する必要が……!」
「……」
 立ち止まりはするが、背を向けたまま振り返らない\に、Wは顔を顰めて手を大きく振る。
「なんで俺に話さねぇんだ?!」
「話す必要がないからよ」
「な……ッ」
 予想もしていなかった返答に、Wが言葉を詰まらせる。
「トロンがWに話さないのなら、私もWには話さない。私はアンタほど口が軽いわけじゃないの」
 一度もWに目を向けることなくそう吐き捨てると、\はWがまた何か言い出すより前に、足早にXの元へと歩き去って行った。
「\……」





「君は本当に良い子だね、\」

 珍しくトロンは椅子から身を乗り出して\の顔を覗き込んだ。壁面いっぱいに映されたアニメの反射光が、\の顔に押印された打撲痕を青白く照らす。
「ずっと妹を救出してくれたと思っていた女が加害者側だと知って、彼は相当動転してましたよ」
 クスクス笑う\に、トロンもにっこりと笑って肘をつく。
「フフフ…… やっぱり、僕が望んだことをちゃんと果たして来たようだ」
 満足そうなトロンを見てから、\はアニメの映された壁を見上げた。
「私はWのような中途半端はしません」
 その言い草には、トロンの横で聞いていたXも小さく眉を動かす。何か咎めるような事を言いそうなXに目配せをすると、トロンはまた口の端を緩やかに上へ持ち上げる。
「なるほどね。それで、わざわざWの代わりに殴られて来たの?」
 ドッと心臓が胸を叩いた。
 大きく吸い込みそうになった息を最小限に留めて、\は平静を装う。
「……、これは」
「良いんだよ\、僕は責めてるんじゃない。むしろ、本当に良くやったと褒めているんだ」
「……」
 視線を落とせば、仮面越しに目を細めて笑うトロンが\を迎え入れた。それでも、\は何かを隠すように目を逸らす。それすらも見透かしたような目で、トロンは\を見つめたままもう一度「フフフ」と小さく笑った。
「\、今日はゆっくりお休み」
「はい」
 軽く頭を下げて出て行く\を見送ると、トロンはまたアニメの画面を見上げて地につかない足をブラブラさせる。
 背後で扉の閉まる音を聞きながら、すっとぼけた猫のアクションに手を叩いて笑い出す。その笑いも次第に低くなり、叩いた手も仮面を抑えながら顔を覆う。
「……トロン?」
「フフフフフフフ…… X、\は本当に良い子だ。あの子はいつも、僕が望んだものにひとつ何かを足して返してくれる。……良い意味でね」
 少し困惑したようなXの顔を一瞥もする事なく、トロンは顔から手を下ろして仮面のふちを指でなぞった。
「\に手を上げたのが神代陵牙だと知れば、Wは躊躇いを完全に捨てる。あの子は、Wにとって自分がどういう存在なのか分かっていて、わざと神代凌牙を挑発したのさ。フフフ、……アハハハハ!」





「なぜ凌牙に会った」

 ノックもせず部屋に入ってくるなり、救急箱を漁っていた\にWはそう言い放った。しばらく見つめ合いはしたが、\は答えもせず軟膏を取り出して鏡と向き合う。
 そこへズカズカと歩み寄って来たWが\の手から軟膏を取り上げた。\から文句が飛び出てくる前に椅子を引き寄せてドカッと座ると、少し乱暴な手付きで\の髪を掻き上げて耳にかける。
 ヘタクソでも、やってくれる事に越した事はない。\は諦め半分でそう自分に言い聞かせ、ため息をついてWに自分の顔を任せた。
「X兄様から聞いたのね」
「……」
 沈黙のうちに、消毒用アルコールのアルミキャップがガラス瓶の口から回し取られる。それを脱脂綿から垂れるほど浸して、Wは乱暴に\の傷痕に押し当てた。
「バッ…… いったい!!! もうちょっと優しく」
「テメェが先に約束を破った罰だ」
「……!」
 ぐっと唇を噤むと、あからさまに不機嫌な顔をしたWが左手で\の顔を掴んで逸らさせ、またアルコールで殴打の痕を拭い始める。
 自分とWを映す大きなこのドレッサーを、将来の化粧台にとプレゼントされたのはもう随分と昔のこと。2人して顔へ傷を負ったが、女である\にとって、あの時から化粧のためのこのドレッサーは醜い自分の顔と向き合わされる忌まわしい物となった。事実、Wが並んで座っても余裕があるほど大きなドレッサーなのに、置いてあるものといえばブラシと調整用のデッキパーツくらい。
 スースーする傷に、軟膏がWの指で塗られる。生温いのは、きっと、Wの指が熱いから。
「……」
 涙が出そうになるのは、気化したアルコールが左目に染みるせい。
「ほらよ」
 軟膏がついたままの指もお構い無しでWは\の髪を下ろす。結局シャワーを浴びたらやり直しになると文句を言いたくもなるが、余計な喧嘩をする気力はもう無い。
 ため息をついて小さく「ありがと」と返せば、鏡越しに救急箱を片付けていたWが鼻で笑った。そのWの横に座る、顔にパッチを貼られた自分の姿。

 ───『なぜだ、なぜだトロン!!!』

 あの時のWの叫びは、火傷と共に顔の半分に焼けついて離れなくなってしまっていた。だけど、この火傷はWの悲しみだけのもの。自分の心の傷は……
 Wが救急箱を手に立ち上がったとき、\はふと、右手を持ち上げて大きな縫合痕を見下ろし、左の手でそれを撫でた。\が何を考えているかは分からない。それでも、何を思い出しているかくらいはWにも想像できる。同じ横顔を何度も見てきたWにとって、右手の傷を撫でる時の\にだけは干渉しない方がいいという経験値があるほどに。
 ただ、面白くない。心の中で舌打ちをすると、Wは救急箱を乱暴に掴んで\に背を向ける。部屋の扉が音を立てて閉められても、\は一度もWへ目を向けることなかった。



- 5 -

*前次#


back top