順調に回復を見せ、意思疎通や判断能力も正常ななまえに残された最後の“難関”……いつ、ヴィルヘルミネ公国の事をなまえに打ち明けるべきか。私は正直、とても悩んでいた。
 なまえは現在術後2週間。抜糸も済み、頭蓋内圧も問題ない。頭蓋骨もボルトで固定しているので、小型機による低空航路ならおそらく問題なく公国へ足を踏み入れる事ができるまでには至っている。可能ならあと4週から6週間の安静を経てから飛行したいところだが……
 現状、あまり悠長にしていられなくなってきている。ヴィルヘルミネ公国、ルートヴィヒ・アレクサンドロフ・ヴィルヘルム公爵。あの老人はいつ死んでもおかしくはない。依頼は孫娘であるなまえを治療し、ヴィルヘルミネ公国へ連れて行く事。そのためには、普通の日本人として生きてきたなまえに隠された“血縁”を話さなくてはならない。
「先生、ナマエ公女はいつ…… 」
 お目付けでつけられたフェーゲルも、おそらく半日に一回はブラック・ジャックにそう聞いた。なんせ日本国内では彼が一番急いでいるのだ。ブラック・ジャックも分かっていて、やっとその重い腰を上げた。

「……いいだろう。今夜、私から一度話そう。」



 なまえの個室の引き戸に手をやるたびに、ブラック・ジャックの脳裏では「先生を愛したい」と言ったなまえが鮮明に蘇り、すぐに頭を振ってドアを開ける……それがここ1週間のルーティンワークになっていた。情けないと思ってはいたが、なまえも“大人の対応”なのか、それともプライドの高さゆえか…何事も無かったかのように振る舞うので、ブラック・ジャック自身は仕事に支障が出なかったことに関してはホッとしていた。

「気分はどうかな?」
「大丈夫です……あぁ、そういえば、今朝のヨーグルトはハチミツがついていなかったんですよ。後になってつけ忘れてたって、お昼のとき看護師さんが…酸っぱかったんですから。」
 おどけてプリプリと怒っているように見せるなまえに、ブラック・ジャックもつい口角を上げる。そしてゆっくりとベッドサイドの椅子に腰掛けるのを見たなまえの顔が、どこか変わった。
「……先生、今日は、何か別のご用で?」
 本当に人の機微に敏感だと感心する。なまえはブラック・ジャックの座り方ひとつで、冷静に背筋を伸ばしたのだ。
「君は……いや、君には人の上に立つ素養がある。この2週間で、私は正直、教育環境や家庭環境でも及ばない、遺伝というものに驚かされている。」
「…… 」
「思い当たる節があるはずだ。君は日本人ではあるが、髪の色や瞳の色……自分のルーツが、別の国にあるとね。」
 なまえは咄嗟に肩のあたりに手をやるが、剃毛されて無くなった事を思い出すだけで、その髪に触れることはない。それをブラック・ジャックの目がゆっくりと追ったあと、また伏せて小さく息を吐いた。

「なまえ、……いや、ナマエ・アレクサンドロヴナ・ヴィルヘルミーネ=ミョウジ。君はある公爵家の唯一残された血縁者だ。」

「……ヴィルヘルミネ、公国…」
 なまえがポツリと呟くのを、ブラック・ジャックは驚いた様子で顔を上げた。
 なまえは右の小指に嵌めていた金の指輪を外すと、内面に彫られた紋章をブラック・ジャックに見せた。

「私の、父方の祖母の形見です。祖母が亡くなるほんの少し前、祖母が私を呼んでこれを嵌めてくれました……以来、片時も離した事はありません。この指輪の内側にあった紋章と同じものをニュースで見たとき、心の何処かで……その公国が、私のルーツに繋がっているのだろうと、なんとなく思ってました。」
「……その、ニュースとは」
「ヴィルヘルミネ公国の公爵家が乗った飛行機が墜落した、と……その公国の国旗に、これとおなじものが。」
 なまえはゆっくりと指輪を嵌め直す。
「そうか…… 」
「でも、きっとその国の軍人とか、それくらいの規模で考えていたから……その、もちろん、驚いては…います。まあ、なんていうか、…よく分かっていない方が大きいんですけれどね…… 」
 ブラック・ジャックは少し考えこんだあと、顎を親指で二、三度撫でてからなまえの目を見た。

「なまえ、よく聞いてほしい。……君の莫大な手術費用を支払ったのは、君の、父方のおじいさんにあたる、ヴィルヘルム公爵という老人だ。彼は最末期の癌患者で、私にも手の施しようがない……
 彼は、君に会いたがっていて、君を公国へ連れて行くまでが私の仕事だ。……
 だが、まあ…ここからは私の予想だけどね。おそらく行けば、君は二度と日本の土を踏めないかもしれない。公爵家の血縁者は君だけだ。彼は君を公国君主に立てるつもりだろう。……
 もし行きたくなければ、私は君の意思を尊重する。手術費用を全額あの公爵に返したって構わないつもりだ。…フライトは明日の23時。空港までは屋上からヘリを用意させる。明日の午後までに、よく考えておいてくれ。」

 なまえはチラリとドアの方を見たあと、ブラック・ジャックに視線を戻した。そして小さく応えた。

「…いいえ、先生…… 行くわ、私。その国へ。」


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