「なまえを、…ヴィルヘルミネ公国の病院に?」
 バカバカしいと撥ね付けるつもりで振り返れば、当の進言をしたフェーゲルは至って真面目な顔をしていた。
「ナマエ公女は確実に命を狙われています。日本国に彼女を守れる病院がありますか? 一刻も早く我が国で保護すべきです!」
「本気で言っているのなら、悪いがアンタを精神科にでも放り込みたいくらいだ。…彼女はまだ渡航できる状態ではない。分かっているだろうが、高度一万メートル上空で彼女の頭蓋内圧はどうなる?彼女は確実に死に至る。なまえを大切にするのは分かる。だが目的と手段を間違えれば、君が自分の国を滅ぼす事になるだろうな。」
 フェーゲルはまた目を背けた。ブラック・ジャックの目がその背中を厳しい目で見ている。

「悪いが今のアンタの判断に付き合うことはできない。彼女は公国にとって大切な血縁かもしれない…が、それ以前に私の患者だ。彼女を自由に歩かせ、健康に生かす事が、まず第一の私の仕事だと言ったはずだ。彼女の爺さんが死にかけていようが、彼女の命もまた…まだ危ういんだ。」



 私は彼女の回復を待った。術後から1週間、彼女は起き上がって座り、軽い腕の筋肉や握力のトレーニングを開始するまでに至る。僅かではあるが青くなった頭皮を見れば、髪も順調に伸び始めているのがわかった。
 術後8日目、私はなまえの身体検査を行った。基本的な五感に四肢の神経伝達検査から味覚まで……世間が“普通”とゾーニングする枠組みの中で、彼女は生きられるのだと、私は確信を持ちたかったのかもしれない。それだけ、脳を弄るという事は恐ろしい事なのだ。───…この時の私は、そう自分に言い聞かせていた。


「───〜…… 〜〜…… 」

 なまえの部屋へ向かう廊下。風に乗って、あまり抑揚のない高音の歌声が聞こえてきた。まるで張り詰めた一本の糸のような歌。なまえの部屋に近付くにつれ、それが聖歌だと気が付くのに、そう時間は必要無かった。
 引き戸を開けると、ピタリと歌が止まる。そして白眼がちな大きな目に孤島のように浮かぶヘーゼルグリーンの瞳が、今まさに部屋へ入ってきたブラック・ジャックに注がれた。

「気分はどうかな?」
「せ、先生…」
「邪魔をしてしまったかな?」
「いえ、…もうお祈りは、済んでいたから。」
 テーブルには、祈りの言葉が書かれたカードがある。カトリックの祈りカードだ……なまえは父親の影響で、日本人にしては珍しく、敬虔なクリスチャンだった。

「ごめんなさい、先生の前では…失礼でしたね。」
 なまえは手早くカードをケースに入れると、ラピスラズリのロザリオも膝上に置いていたポーチへと放り込んだ。
「なぜ、私の前だと悪いと思うのかね。」
 ベッド脇の椅子に腰掛けながら、ブラック・ジャックはカルテのファイルを空けられたテーブルの端に置いた。なまえは少し考えて───まるで言葉を選ぶように、……先ほどの歌声と程遠い、少し曇った声で応える。
「先生は、宗教がお嫌いだと思って、……私もそうだから。」
 意外な単語にブラック・ジャックは一瞬固まる。聞き間違えでなければ、彼女は宗教が嫌いだと言ったのだ。……それも、あれだけ“敬虔なクリスチャン”ぶりを纏ったままで。

「私も…形骸化した儀礼や都合のいい聖典だけを重んじ、社会組織やいち企業と変わらないカトリックには、あまりいい印象が持てないんです。それは日本の仏教やイスラム、ユダヤ教だってそう。……だけど、ねぇ先生。先生は、無宗教者であるだけで、無神論者ではないんでしょう? 先生のように生命に近しい所にいらっしゃるなら、きっと、先生は“父”の存在をお感じになる時があったはずだわ。

 ……私もそう。厳粛なカトリックの家に生まれたからこそ、私は…日本の中で異教徒側に立っていた。だから冷静にカトリックという宗教としての不信感や違和感を、自分の意思で考えて、理解する事ができたし、日本の穏やかでおおらかな仏教や神道の……そうね、アミニズムに近い感覚を享受する事ができた。

 だけど、私は主を心に受け入れ、父の御手に委ねられた身…これはきっと、主が私を、主の愛の純粋な手足とされるために、私をこの国へ生れさせ、試されたのだと考えたの。
 きっと先生もそう。先生も宗教や心の安らぎから離れている様だけれど、それはいつか、先生が心から安らげる場所にたどり着いたときのために……

 心の底から喜び、救われ、安らげるように、主が今を取り図られていらっしゃるのよ。」

 ブラック・ジャックは暫く考え───神という単語を語らった過去の人たちや、実際に自分が神への冒涜や罵りを叫んだ時を思い出したあと───、両の手を組んでテーブルに預けるなり、うつむき気味でなまえに言葉をかけた。
「きみは私が……そうか、寂しく見えるかね? いや、気にしなくてもいい。私は確かに孤独に生きてきたし、これからもそうだろう。それをきみは、……私の未来に、暖かい家庭や安寧の地があると、信じてくれるという事だね。」
 目を閉じて口角を上げるブラック・ジャックに、それが嘲笑なのか安寧の笑みなのか掴む事は出来ない。それでもなまえの目には、ブラック・ジャックがひどく寒々しい場所に座っているように見えて、思わずその手に点滴のチューブが繋がれた手を重ねた。

「ブラック・ジャック先生…… 私、…わたしで、先生を慰める事ができるなら、私…… 先生を愛したい。」

 咄嗟に口から出た言葉に、なまえはハッとしてその手を離した。ブラック・ジャックも驚きはしている風だが、その心の奥底までに届いてはいなかった。

「私は熱心な宗教家と、深い関係になる事はできない。それに君は、あくまで私の患者だ。勘違いしてはいけない……私は君の治療に大金を受け取っていて、その対価に見合うだけの治療をする、それだけだ。……私に愛を求めても、君が傷付いてしまうだけだよ。」
 ブラック・ジャックは立ち上がってなまえの手を取り、点滴のチューブが絡まりかけるのを直してやる。僅かに震えるなまえの手を解放してやると、ブラック・ジャックはなるべく目を合わせないようにして診察を始めた。

 なまえの目に、それは暖かい愛を恐れて逃げる、孤独な放蕩息子のように映っていた。


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