私はフェーゲルが公国特使として日本に入国している事を告げてから、なまえにフェーゲルを引き合わせた。なまえはそこで、公国へ行く事への条件を提示した。
 ひとつは、訪問期間は1週間以内である事。もし公国に留まることになったとしても、日本での身辺整理のため必ず一度は帰国させる約束を取り付けたのだ。
 第二に、もし自分に何かあった場合には、保険として…母親の生涯を経済的・社会的に保障する事。───その二つが、なまえの要求だった。

 フェーゲルは現場判断をする事は出来ないと渋ったが、なまえ自身の生命の保障が出来ない現状を踏まえて、彼は渋々承諾した。



「猫は渡航できないのかしら」
 なまえは夜の暗闇の向こうの、街灯の下にだけ見える街並みと、黒く塗り潰されたガラスに映る自分を見ながら、つまらなさそうに呟いた。
「猫は…… 難しいだろうな。再会は帰ってきてからになるだろう。何という名前だったかな?」
「ベネディクト…… 私も母も、“ベニー”って呼んでいるわ。そのせいで、ベネディクトって呼んだって振り向かないの。ベニーって呼べば尻尾を立てて振り返るようになっちゃって。」
 クスクスと思い出し笑いをするなまえを、ガラスに映るブラック・ジャックが見つめ、つられたように優しく笑った。
「ベネディクト…名前の由来は?」
「───…ラテン語で“祝福されたもの”という意味よ。まあ、聖ベネディクトから頂いた…ていうのも、あるけれど。ベニーは捨て猫だった…… 私が拾ったときにはもう成猫で、最初は誰にも心を開いてくれなかった。」
 徐ろに手帳を開くと、のびのびと腹を見せてゴロ寝する猫の写真を取り出して、ブラック・ジャックに渡す。
「だれかから捨てられ、孤独でも、神はそういう打ち拉がれたものを愛し、救ってくださる。あなたは祝福されている…… そういう意味を込めたのよ。」
「猫を相手に?」
「猫が相手でも、よ。」
 「今は母の実家で、祖父母が面倒を見てくれてるの。私のこと忘れてないかしら」と口の端と眉を顰めるなまえに、ブラック・ジャックはなんとも言えない目をして彼女を見ていた。


 翌日の正午、なまえとフェーゲルが母親を説得し、なまえの祖父母…母親の両親とベネディクトのいる実家へ送られて行った。なまえは「少し寂しい。私はまだ一人暮らしもした事がなくて…… 父が亡くなった時とは全然違うのね、…親と離れるって。」と零し、ブラック・ジャックが無言でその肩を抱いた。

 夕食を軽く済ませた16時頃に、病院の屋上ポートにフェーゲルが用意したヘリが到着。15分ほどで搭乗し、空港へ向けて出発した。



 眼下には、あの青黒い山筋ではなく…所々に密集する光の粒が点在する光景だけが広がっている。見え方は違うにしろ、そこはプロアシア上空航路。ブラック・ジャックには3回目の空路だ。一つ違うところがあるとすれば、高度が低いことだろうか。だが、公国にプライペートジェットを持つほどの余裕はなく、あくまで中型機の“貸し切り”だったのを、ブラック・ジャックは察していた。
 なまえはと言うと、早寝早起きの習慣からか、23時発の飛行機に乗ってすぐ、リクライニングを下げて寝入ってしまった。少しくらいは緊張するものだと思うのだが、ここはやはり彼女の芯の強さだろうと感心するばかりだ。ブラック・ジャックはなまえのひとつ斜め後ろの席でそれを眺めていたが、すぐに飽きて彼もリクライニングを下ろした。



 地球を半周して、現地時間で午前11時頃に到着。およそ19時間のフライトに、7時間の時差。あの雑然としてもの寂しい公国の空港を目にして、なまえは少し驚いたような顔したあと、それが不安の色へと変わるのに時間はかからなかった。安全を考慮し、なまえを車椅子に座らせて、女性護衛官が押し、いかにも屈強そうな護衛官2人が挟んで歩く。観光客など滅多に訪れない空港に、疎らに散見される空港員。どんな小説家でも“殺風景”という安直(チープ)な言葉で表現するしか出来ないようなありさまの中を、そんな黒尽くめの団体が車椅子に女を乗せて広い大理石の上の真ん中を練り歩いているのだ。ブラック・ジャックもなまえも、それに向けられる視線に耐えるしかない。
 やっと息詰まったロビーを過ぎたあと、ブラック・ジャックはまた黒いフランク国製らしい高級車に乗せられる。前と違うことは、なまえがいる事…そしてあの間抜けそうな運転手が解雇されたのか気になってしまった事だった。ブラック・ジャックの横で、なまえは毅然と座っている。彼女のその態度にフェーゲルは満足そうな顔で車を運転しているが、なまえの目だけはお行儀良くするつもりがないようで、キョロキョロとあっちこっちを見ていた。

「貧しい国なのね」

 なまえがポツリと溢す。フェーゲルや助手席のボディガードは何も返さない。否定できない上に事実なのだろう……ブラック・ジャック自身も気付かなかったが、主立った道路側の建物は修繕してあるものの、路地から僅かに見える住宅は、確かに大戦後の荒廃した姿をしているし、道路脇に座り込む人も少なからずいるようだった。

「窓を開けたいわ。」
「ダメです。スモークガラスの意味が……」
「私の肉がこの国の土から生まれたのかどうか、感じたいの。風の匂いを感じたいだけ───… 」
「開けさせてやれ。」
 まさに渡りに船というようにブラック・ジャックがそう言えば、フェーゲルも渋々パワーウィンドウのスイッチを押す。ゆっくりとガラスが降下すれば、フィルターによって変色して見えていた空や、山の色がなまえの目にはっきりとした色彩で飛び込んでくる。そして顔に圧を与える風、微かに匂う淡水と泥。なまえの心に懐かしさなどない。それでも、この土地がいいものであるようには感じていた。


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