はたしてなまえを本当に連れて来て良かったのだろうか。
ブラック・ジャックはずっとそこに立って、同じ事を慮っていた。分厚い木製の扉の前で、ただ静かに扉の中にいるなまえを見つめていた。
***
「召し替え……着替えるってこと?」
城に着いてまず、なまえは3人のメイドを引き連れた───シャネルツイードのスーツで固めた───いかにも気位の高そうな女性と対峙していた。
「
Geht es Ihnen gut?
…Auch
wenn du deinen Kopf bewegst」
北欧系は顔が硬い。女が目線でメイドの1人を寄越すので、なまえもブラック・ジャックもそっちを見れば、おそらくフォーマルなドレスであろう服を腕に掛けている。
「だ…ダンケ,」
固く身構えるなまえに、女は小さくため息を吐いてから───不本意だと言わんばかりに───軽く会釈した。
「
Ich bin Phyllida.
Von nun an wird Ich werde um dich kümmern.」
一息に言い尽くしてから、フィリダは はたと目をぱちくりさせてなまえを覗き込む。
「Deuts
ch okay so wie es ist?
…Qu'e
n est-il du français? …ah〜……English?」
「thank you, please. …あー、
Tut mir leid.
Ich hätte Deutsch an der Universität studieren sollen.
Could you continue in English?」
「大丈夫か?」
どことなく気難しそうな顔をしているなまえにブラック・ジャックが声を掛ければ、なまえは既に降参だと言った面持ちで目を向ける。だがなまえもめげないで、フィリダに顔を戻すと背筋を伸ばした。
「
maybe…under
stand what talking about,」
ブラック・ジャックが見兼ねたようにフェーゲルに目配せすると、彼もフィリダに顔で合図のような仕草をした。
「結構です。少し試させて頂きました。ある程度はこちらの言葉もお分かりのようで安心しました。」
フィリダが突然流暢に喋りだすので、外国語のヒアリング体制に移っていたなまえは肩透かしを食らったように、それが何語で通じているのか少し考えてしまう。そしてみるみるうちに文句でも言いたそうな顔になるので、フィリダが追加攻撃を仕掛ける。
「貴女のお祖父様、ヴィルヘルム公爵殿下は8ヶ国語嗜まれます。日本語だけでお話しされるのも良いですが、くれぐれも失礼の無いように。」
“郷に入れば郷に従え”と言いたいのだろう。何となく察した様子のなまえを見て、フィリダは指でメイド達を部屋に下がらせ、彼女はなまえの背後に歩み寄ると車椅子を押し始めた。
「本日は東プロイセン領から縁戚がお見えです。お召し替えを。」
「……縁戚?」
分厚い木製の扉の向こう、ブラック・ジャックは追い出されてフェーゲルや護衛の男たちと共になまえを待っていた。ブラック・ジャックはまさしく腕組みに仁王立ちといった状態で、護衛官は気にするでもなく椅子に腰掛けている。フェーゲルも最初は気を遣ってブラック・ジャックの横に立ってに話しかけたりしたが、無視を決め込む彼に「やれやれ」と言った感じで───護衛官よりは良い、応接用のソファに───座っていた。
やっと扉が開くと、なまえは自分の脚で立ち、ゆっくりと歩いてブラック・ジャックの元へやって来た。
この時のブラック・ジャックに、“女性を褒める”という基礎的な事は無かった。正確に言えば、彼女を見て吹き飛んだ。
なまえは手術のために全剃した髪と同じ色のウィッグで包帯ごと頭を隠し、フォーマルでシンプルなミディアムワンピースを着ていた。彼女自身のプライドかジュエリーと呼べるものは無く、いつもの金の指輪に、首から小さな十字架のメダイだけを下げている。足元は高すぎないヒールを履いているが、久しぶりの自歩行にしてはしっかりとした足取りだ。
「……どうですか、先生。」
お世辞にも「可愛い」と言える様ではない。なまえの年齢からしたら地味で、彼女を知っているからこそ、質素や清貧さに固辞しているのが見て取れる。もしドレスの色が黒や灰色だったら、白い顔が相まってそれこそ修道女や
退廃的に近い装いになっていただろう。
しかしブラック・ジャックは見惚れていた。まるで華美に着飾る喜びを恐れる聖女にも映るなまえの姿は、確かに禁欲的でお堅いし、正直にいえば、性的な女性としての魅力はあまり無い。それでも何故か、ブラック・ジャックには彼女が魅力的で、どこか惹かれるもの……その芯の強さが見えていたのだ。
「先生?」
訝しげに眉を顰めるなまえに、ブラック・ジャックは咳払いをしてから応えた。
「君らしい。それが一番だ。」
なまえの後ろでは不満気なフィリダが腕を組んでいる。部屋の奥ではもっと華美な装飾のジュエリーやドレスが用意されてたようだが、なまえが嫌がったのだろう。
「それでは公爵殿下の部屋へ」
フェーゲルがおずおずと割り込んできて、フィリダはため息まじりに背を向けてメイド達に支度部屋のドアを閉めさせた。
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