フィリダという女性の印象は、仕事が出来る人なんだろうな、というくらいだった。年齢は自分の母親くらいだろう。流石に現地語で声を掛けられた時は焦ったが、それと同時に彼女のヴィルヘルミネ公国の人間としてのプライドの高さも知った。
 この国の事はある程度聞いている。大戦中、独裁政権と共産党国の国境防衛線として最大の激戦区であった事と、プロアシア、プロイセン、フランクフルト、そしてヴィルヘルミネ…いくつもの国に分裂して、今もその国境を巡ってピリピリしている事。そしてヴィルヘルミネ公国の国民の85%近くが、プロアシア人であると言う事。
 大戦で点在していた街は焼け、元々住んでいたヴィルヘルミネ公国の国民は、いまこの国に住んでいるプロアシア人と同じくらいの数だけ虐殺された。…この国の人の半分以上が、プロアシア語で話すのだ。だから、このフィリダという女性は、大戦前までの国語であった独語で話す事で、自分が純粋な公国民であると誇りにしているのだろう。

 なまえにその深い禍根を理解するだけの経験は無かった。それでもどれだけ深刻な事かは察している。大陸特有の民族派閥は、生物の本能的な部分として仕方の無い部分を差し引きしたとしても批判に値する。最早彼らの意思は民族崇拝に近い。…日本で、名は体を表すと言うが、皮肉にもこのフィリダもその通りだった。
 いくつもの部屋を通り過ぎる中で、まだ見ぬ祖父に一歩一歩近付いている実感はまだ湧かない。先導するフィリダと、すぐ側を歩くブラック・ジャック。きっと術後初めてヒールのある靴で歩いているのを心配して、いつ転んでも受け止める気でいるのだろう。
『わたし、先生を愛したい───』
 なぜあんな事を言ってしまったのだろうか。本当に突然口から飛び出た。まだ先生の手の感触がハッキリと残っている。
 これでも、恋はいくつかしてきた。───叶った事など無かったが。───あの言葉が本心だったのは認める。ずっと人に尽くして愛する事を望んできた。しかしそこにセックスが伴わなかったと言うだけで、なまえと恋愛をしたがる男はすぐに去って行った。一体何が恋愛なのか分からないまま、成人を迎えていた。
 そんな僅かな男性経験の中で、先生は異端だった。そして高慢にも期待してしまった。“ きっとこの男なら、自分の思想上にも相応しい伴侶となるだろう” と。ハイヒールの爪先の痛みが、濡れた革紐で首を縛ったように罪人を一歩一歩追いやっていく。

「こちらでございます。」

 フィリダの声に胸が詰まった。潜思の間中、心臓を動かすのも忘れていたらしい。扉を前にしてやっと、困惑を孕んだ鼓動に頸筋が冷たくなる。
 なまえの不安を感じ取ったのか、ブラック・ジャックは彼女の肩を抱いてやった。なまえが顔を上げて彼の目を見つめると、互いに無言のまま小さく頷く。なまえの喉が鳴る。今なら肩を抱いて支えてくれるブラック・ジャックに、親のような大きな安堵感を持てる。膝が震えて、彼の支え無しには立って居られなかっただろう。
 やたらに大きな金属音と、木が擦れる音が耳を叩く。観音開きに露わになる部屋の奥で、───従者に支えられながら───ベッドに腰掛けた老人が網膜に焼き付いた。

 しばらく固まっていたのだろう。ブラック・ジャックとフィリダに後押しされて、なまえはやっと足を踏み入れた。
 フカフカとした絨毯にヒールが刺さる感触が伝わる。そっちへ行ってはいけないと、蔓薔薇が絡みつくように。それでもなまえは足を進める。血の繋がった祖父だと聞かされた、この老齢の男の前へ。

 公爵の窪んだ瞼の淵が何度か動いたあと、震え、立ち上がった。従者がそれを必死に支えながらも、なお公爵は萎えた足を踠き進めて、写真でしか見てこなかった孫娘に腕をのばした。

 なまえはその手を取るべきか悩んでいた。袖口からは本当に皮膚が張っているのかわからないほど白い腕が見える。恐ろしいほどに痩せ細った、死の陰に抱かれたこの老人の手を、なまえは躊躇いかけた。
 しかし結局は公爵の思うままにその手を受け入れた。血縁がどうであれ、なまえにとって目の前の公爵は、ひとりの弱い人間だった。『良きサマリア人であれ。』主の御心のままに、主の手足となって、この今際の際に立つ老人と主の愛を分かち合わなければいけない。そう本能的に身体が動いたのだ。

 2人はどちらともなくその場に膝をつき、座り込み、公爵は彼女の顔の隅々までよく見ようとした。白く濁った瞳の奥で、キラキラと生が目覚め始めている。確かに血縁を感じる顔立ち、同じヘーゼルグリーンの瞳。言葉はなく、ただ公爵の感嘆の掠れた声が漏れ出る。

 なまえがひどく憐れんだ目をしているのを、ブラック・ジャックは見ていた。直感的に、彼女は孫娘としてではなく、修道女シスターのように献身をしているのだと悟る。事実、公爵がなまえの顔や肩を撫で回すのに対して、なまえは身動みじろぎひとつせず、彼が満足するまで、優しく微笑んだまま彫刻のようにそこへ座っているつもりなのだろう。
 その大切な彫刻を砕くように、フェーゲルが割入って公爵を立たせる。
「公爵閣下、お身体に障ります…どうかベッドへ…」
 公爵はされるがままに立たされ、ベッドへ後退りするが、その目はなまえを離さない。そしてベッドへ腰掛けたところでやっと視線を外し、また白いシーツの中へ沈んでいく。

「ナマエ……ナマエ、孫娘よ……
Oh gottおお、神よ,Vielen Dankあなたに感謝します…dank……」

 膝をついたままのなまえをブラック・ジャックが立たせると、そのベッドの側へエスコートする。なまえがベッドの横に跪き、白樺のような細腕をとった。

Gott hat mich zu dir geschickt.主は、私をあなたのもとへお遣わしになりました。
Benutz meine Glieder, wie du willst.あなたの望むまま、私の手足をお使い下さい。


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