なまえは笑った。それは決して哀れみや嘲笑ではなく、まるで母親のような眼差しの微笑みだった。

 教皇パパ・フランシスコは後に、こう言われた。

「何を信じようと、あるいは信じなくとも、主はその血によって私たち全てをお救いになりました。無神論者でさえも。救済の対象にならない人は、誰もいないのですから。」


***


「さっきは何を言ったんだ。」
 夕陽の差すテラスを背に、ブラック・ジャックはシースルーのカーテンに攫われそうななまえを問い訊す。……希望に満ちたような瞳で、飛び起きるようになまえを抱き締めたヴィルヘルム公爵と、騒めいた側近たち。フェーゲルは慌ててなにかの書類を持ってはあちこち歩き回っている。その様子を見て、ブラック・ジャックはあの場で、彼女が“ とんでもない事 ”を言ったのだと理解した。

「…しゅが私をお遣わしになりました。あなたの思うように、私の手足をお使い下さい、と。」

 ブラック・ジャックは頭を抱えたあと、前髪をぐしゃぐしゃと掻き回す。苛立ちをこんなにストレートに表しているのに、なまえ自身はシラっとしていた。

「そんな事を!お前サンをアトガマに据えようと躍起になってる連中に言ったのか!」
 つい感情的に怒鳴った事を直ぐに改めるように、ブラック・ジャックは軽く咳払いをしながらリボンタイを緩め、深く息を吸ってから続けた。

「私はね、心配しているんだ。解ってくれるね? ……君は今、決して安全じゃアない。この国がどうなろうと、君はまだ元の…そう、何も知らない、何も関わらない、普通の日本人として普通に暮らす事ができるんだ。
 聖人のような振る舞いをしに此処へ来たのなら、私は君を引き摺ってでも日本へ帰すぞ! …君の目は若さと、間違った正義感で大切な事が見えちゃいない。私はお前サンに、人の上に立つ素養があると言ったがね。ここで、あの死にかけの老人を憐れんで言いなりになるなら、君はこの国を取り巻く連中に“ 消費 ”されるのがオチだ。」

「…わ、私はそんなつもりは───」
「だがあの老人を憐れんだろう。君はあの時戸惑ったようだったが、それでも抱擁を受け入れたのは何故だ。
 君は敬虔なクリスチャンに陶酔しているだけで、清廉潔白な人間だという過剰なプライドが自分をそうさせていると気がつくべき年齢だ。もう父親は居ない、もう君を見てはいない。一体誰の目を気にしてそんな風に振る舞う? 何故自分が生きたいように生きない?!」

 ガチャン
 …と花瓶が割れ、水と花が床に撒き散らされた。
「あ……」
 舌で表せない音でブラック・ジャックの言葉は強制終了され、なまえはテーブルの上にあった筈のその花瓶を見ていた。じんわりと痛む手の甲を抱き、震えながら後退りする。

「それが君の本当の心だ。」
「違う! …いいえ、本当に違うの。私、……私はただ、……ただ───」
 ガタガタと震えだすなまえを、ブラック・ジャックが歩み寄り、抱き締める。初めて悪い事をした幼な児のように震えるなまえが落ち着くまで、ブラック・ジャックはその背中をさすってやった。



「なぜ父の事を?」
 カウチに座らせたなまえが、静かに呟いた。
「……君の、キリスト教への強い傾向が父親の影響と聞いて、想像はしていた。父親が自分の娘に聖性を期待するのは、仕方のないことだ。…しかし君や君の母親を見て思ったのサ。君の父親はそれを逸脱していたんじゃないかとね。」

 なまえはぼんやりとした目で、テラス側に割れて打ちやられたままの破片や水、花を見ていた。
『どうしてこんな事をするんだ!』
『まだ主の祈りを暗記できていないだと?!』
『神社で遊んだ?!お祭り?!誰から誘われたんだ!そんな人間とは付き合うな!』
『なぜあのホームレスに施しを与えた?あのジジイがカトリックか聞いたのか?!』
『公立の学校教師は学が足りない!頭の悪さと素行の悪さがなまえにうつったらどうするつもりだ!』
『何としてでも○○大附属に合格しろ!私の娘ならそれくらいの頭があるはずだ!』
『もしボーイフレンドを作ったら、お前を修道院へ入れて二度と社会と関わることの無いようにするからな!』

 蓋をするように、なまえは目を閉じる。

 もし父親が生きていたら───…こうして先生に寄り添う事にだって、怒り狂っていただろう。
 それでも、どんなに辛い過去があっても、なまえは父親に大きな愛情と感謝を持っていた。…尊敬できる部分はあまり無かったが、それでも必死に、良い父親になろうとしていたのは知っていた。
 彼は物心つく前に公爵から捨てられ、祖母が女手一つで育てた。父親というものがどんなものかも分からず、冷戦時代の敵対国の混血児として酷く荒んだ子供時代を送っていたのだ。
 罰として裏庭に締め出された時は、いつも祖母が扉を開けて、抱き締めてくれた。そして言うのだ。『お父さんはね、必死に“お父さん”になろうとしているのよ。なまえちゃんに辛く当たるのは、なまえちゃんが嫌いだからじゃないの。それだけはわかってあげてね。』
 祖母は死の床でもそう言いたかったらしい。朦朧とした意識の中で、もう誰の顔を見ても分からなくなっていたはずなのに、私の顔を見た時だけ、『なまえちゃん』と嬉しそうに顔をくしゃりとさせた。声は出ていなかったし、口もうまく動かせていなかったけれど、祖母は確かにそう呼んで笑った。いつも私の顔を見て、同じように笑っていたのだから。
 それなのに、私は気付かない振りをした。
 今でも後悔している。これからもずっと悔いるだろう。なぜあの時、駆け寄ってその手を取ってやらなかったのだろうと。私は聖女なんかじゃない。死に直面した場で、可愛がった孫に無視された祖母を思うと、私は一体どうして赦しを乞うことができるだろうかと思う。
 だけど、怖かったのだ。初めて人の死際に触れようとしていたあの瞬間、あんなに力強く私を抱き締めた腕が、骨だけのようになっていて、皮膚は安いシワだらけのナイロンの袖みたいに垂れていた。───そして、呼ばれた私を見る父の目……それが一番怖かった。思い出そうにも、祖母の顔や父の目が墨で塗り潰したような映像しか思い出せない。
 次にまた来ればいい。また来週会いに来ればいい。父の目のないところで。そう考えて病院を出た。もし時間を巻き戻してやり直せるなら、私はすぐにでも駆け寄ってあの手を取り、言い尽くせないほどの感謝と愛を伝えるだろう。あんな後悔は二度としたくない。
 祖父だという公爵の伸ばされた腕を見た時、確かに戸惑った。だが、それは祖母や父の事もフラッシュバックしていたからだ。もしまたその手を拒んで、祖父を傷付け、後になって後悔してしまったら……それならせめて、巡り会わせて下さった主の御業に感謝し、主の愛を分かち合い、この老人の慰めに少しでも肩を寄せたい…そう思った。
 たとえそれが傲慢な行いで、ただの自己防衛で、偽善的であったとしても、祖母への仕打ちのことよりは良い。

「……先生には分からないわ。」
 なまえは身体をやっとブラック・ジャックから離して、ズン…と痛む脚にため息を漏らす。久しぶりに歩いて、膝や爪先が怠い。
「先生は、私のこと……嫌い?」
 長い前髪に横顔を隠したまま、ブラック・ジャックのその首は否定も肯定もしない。代わりに口を開いて、小さく息を吸った。
「意味合いにもよるが、私はそう簡単に人を二分するつもりはない。だが前にも言った通り、……私は熱心な宗教家を、手放しに好きだとは言わん。私は、ひとりの人間として評価したいのさ。」

 三回のノックが部屋に響き、なまえはハッと背筋を伸ばして立ち上がり、ウィッグの髪を整えた。それを見計らったように扉が開けられると、フィリダが顔を出す。
 あまり機嫌が良くなさそうに、ピンヒールをガツガツ鳴らして部屋に入ると、それに従うように、身なりの良い、中年くらいの男も入ってきた。

「ナマエ様、こちらはセオドア・ガブリイル・フォン・ホイム=ヴィルヘルム侯爵。貴女の従叔父じゅうしゅくふ…つまり父上の従兄弟にあたるお方で、東プロイセン領主の第5子でいらっしゃいます。」
 フィリダが「Bitteどうぞ」と耳打ちすると、セオドアと紹介された男は軽い足取りでなまえの前に跪き、手の甲にキスをした。
「Schön dich kennenzuはじめましてlernen,Süßeかわいい Mademoiselleマドモアゼル.
Hoppla!おっと!You weren't good at Germanこちらの言葉は苦手でしたね.」

Dankありがとう、あー…My relatives are私の血縁というのは… Is that youあなたですね?
Es ist eine Ehre, Sie kennenzulお会いできて光栄ですernen.」

 しっかりと応えたつもりだったが、セオドアは片眉を上げて小さく鼻で笑った。気のせいかと思ったが、彼は立ち上がってフィリダになにかボソボソと耳打ちをするなりさっさと部屋を出て行ってしまう。
「あの、……なにか、失礼をしてしまいましたか?」
 フィリダは吟味するように頭の先から爪先までなまえを見渡すと、また不服そうに目を細めて言った。
「いいえ。ナマエ様はシッカリと公爵家らしいお振る舞いをなさっています。さぁ、そろそろ侯爵閣下とお夕食を。」
 開け放たれた扉の方へ促されるままに足を進めると、フィリダは扉のところへいたメイドに顎と目で割れて散乱した花瓶と花を指した。なまえは何か言われるのかとドキドキしたが、フィリダもメイドも何も言わずに自分の仕事へのみ動く。
 ブラック・ジャックもフィリダから促されてなまえの後を追うように着いて行くと、途中でフェーゲルとセオドアも合流し、公爵のいる部屋へそのまま通された。


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