私の見た限り、なまえは軽視されている。

 夕食会も終わり、通されたゲストルームでブラック・ジャックはベッドに寝転び、天井を眺めていた。ゆっくりと風呂に浸かりたい気分だが、残念な事にこの国はサウナかシャワーが主流らしい。今日何度目かもわからない溜息をまた一つ零してブラック・ジャックはゴロリと横に寝返った。

 夕食会のなまえのテーブルには、黄色い花が不自然なほど沢山飾られていた。なまえは素直に喜んでいたが、セオドアとか言う男の終始嘲るような笑顔が気になった。フィリダという女も、決してなまえを歓迎しているような、ましてやこの国の君主である公爵の孫娘という立場に向けた態度ではない。そしてやっと気付いたのだ……なまえに対して熱心な態度を取っているのは、ヴィルヘルム公爵とフェーゲルだけだという事に。

「(さて、どうしたものか……)」
 この国の真意が見えない今、なまえを無暗に留め置くのは得策ではない。ヴィルヘルム公爵からの依頼は「なまえを治して、この国で公爵に会わせること」だった。その点ではもう依頼は達成されている。彼女を日本国へ帰すのも問題ないはずだ。
 しかし、どうやってこの国を出るかだ。空港までは車で1時間以上の距離があり、飛行機だって日に何本も飛ぶわけでもない。どうしたってプロアシアの空港で乗り換える必要がある。
 ブラック・ジャックはあれこれと考えていると、一度頭の中の机に並べたそれらをひっくり返した。そしてベッドから起き上がると、コートを引っ掴んで足早に部屋を出て行った。



「《黄色人種って本当に黄色いのかと思ってたけど、あの娘は緑色に近いのね。》」
「《チュパカブラって、本当は極東人の事だったんじゃなくて?》」
 クスクスと笑い合うメイドたちの声がずっと聞こえている。しかし幸か不幸か独語のスラングや差別用語は意味が受け取れず、なまえは教科書に載っているような単語だけをなんとか聞き取る程度だった。

「(本当に…黄色い……、ベルベット? あの…は、…緑色? ダメだわ、全然分からない。)」
 ロザリオの一粒一粒を指で送り静かにアヴェ・マリアを唱えるが、一向に集中出来ないでいる。僅かに開けた扉から聞こえてくるメイドたちの話の内容が気になって仕方なかった。
 自分が疎まれているような気がしていたからだ。

 アーウ!と針金で突いたような短い悲鳴が響き驚いて振り返れば、笑いながら部屋に入ってくるセオドアと、扉の隙間からお尻を押さえながら走り去るメイドの姿がチラリと見えた。
「《邪魔したかな?》」
「あ……《いいえ、…先程はどうも。》」
 なまえの手からぶら下がるロザリオを繁々と見て、セオドアは歩み寄るとその十字架を手にした。
「《カトリックと聞いたよ。…君は改宗した方がいい。離婚も自殺も出来ないんじゃ、余りにも可哀想だ。》」
 嫌みったらしく笑っている事に気付いたなまえは、その手を払いのけてロザリオを胸に抱いた。
「《意外と気が強いようだ。》」
「《いったい何の話しをしているの?》」
「《そうだな、君は処女かと聞いている》」
 何とも言えない赤い顔を背けるので、セオドアは面白そうになまえに詰め寄った。
「《私はヴァージンを突き破るのは嫌いではない。一度くらいは抱いてやろう。改宗と離婚はそれからだ。》」
 セオドアがなまえの首筋を指でなぞる。ゾワゾワと生命の危機すら感じる悪寒が背中を支配していた。
 逃げるようにセオドアを押して走りかけるが、腕を掴まれ呆気なく腰に手を回されてしまう。
 腕に収まったなまえの顔を、不味そうな食事を我慢して食べないといけないと言ったような口で吐き捨てる。
「《顔は悪くない。まぁ好みでもないな。大伯父が死に損なったせいで、お互いこんな目に合っているんだ。あとは肉付きだな。日本の女は胴長らしいが君はどうかな? 尻がデカい方が、叩き甲斐があって好きなんだが。》」
 ナイトガウンをネグリジェごと思い切り捲られ、なまえは悲鳴を上げる。セオドアに頬を叩かれてカウチに押し倒されると、下着を引き千切られて胸が露わになった。
 なまえはセオドアの腹を思い切り蹴り飛ばすと、ガウンの襟を抱くように前を隠して扉を開け放つ。おそらく覗いて笑っていたのだろう。4、5人ものメイドが笑ったり驚いたりした顔でそこに居た。頭が真っ白になったなまえは、そのまま逃げるように裸足で走り去っていった。



 ブラック・ジャックの部屋をノックも無しに開け放って飛び込むが、そこに助けを求めるべき相手は居なかった。人が1人居ないだけでこんなにもがらんとするものだろうか。なまえは肩で息をしながら、震える足で部屋の奥へと進む。
 部屋中を見渡すと、水瓶と洗面器の置かれた簡素な鏡台が目に入る。鏡には、乱暴を働かれたままの自分の姿が映っていた。
 恐る恐る胸に抱いたままの手を離すと、ガウンやネグリジェの端がだらりと落ちて、見慣れたはずの白い乳房が露わになる。鎖骨のあたりについた、引っ掻き傷のような赤い跡が見えたとき、なまえはようやくその恐ろしさに追い付いて震えながら涙を零す。

「なまえ?」
 深く、冷たくなったつま先を包むような声にゆっくりと振り返る。驚きを隠せないような顔のブラック・ジャックがそこに居た。
「……あ」
 先生、そう声に出すことも出来ず、なまえはブラック・ジャックに駆け寄ってしがみつく。震えるだけの彼女に何かを悟ったブラック・ジャックは、静かになまえを抱きしめて宥めた。



「アンタの国ではレイプはご挨拶の内らしいな。」

 朝、開口一番にそんな事を通訳しないといけない哀れなフェーゲルが、「はやく言え」とブラック・ジャックに急かされる。渋々と言ったように一言二言…そして色々と言い澱みながらそれなりにセオドアへ伝えると、悪さがバレた子供のように唇をブーっと鳴らして舌を出した。
「《悪かったって。俺だって腹を思い切り蹴られたんだぞ。アンタ、ドクターなら俺の内臓が破裂してないか診てくれよ。》」
「タマを蹴り上げなかったなまえの優しさに感謝すべきだな。それと私は医者だ。私は君を一切の証拠もなく殺す事もできるし、どうしたら最大限に苦しんで殺せるかも知っているという事を覚えておくんだな。」
「《ヤパーナ日本人、それは脅しか?》」
「挨拶だよ。」
 もう話すつもりは無いと踵を返して扉に向かうブラック・ジャックを、セオドアが呼び止めた。

「black jack!」
 振り返ると、セオドアは巻きタバコを口に咥えシガレットケースを閉じてからブラック・ジャックに目をやった。
「《俺はあの娘と結婚するようにヴィルヘルム公爵から言われて、わざわざ来てやったんだ。この国の統治権を東プロイセンが持てば、ヴィルヘムミネ公国の北方地区は大戦前のさらに前……歴史的に正しい国境線まで戻る。アンタがしゃしゃり出られる幕じゃない。》」



「どうして祖父に会えないの?」
「貴女はこの部屋で保護されている状態なのです。」
 答になっていない返事しかフィリダは口にしない。苛立って部屋をウロウロしても、氷山の色をした彼女の目がそれを追うだけで、一向に状況は変わらない。
 この国へ来て2日目にして、公爵との面会ができたのはたった30分程度。こうしている間にも公爵は死に瀕し、やっと再会できたと言うのに何の話しもできないままだ。
「祖父が私を避けているの?それとも、…貴女達が私を避けさせているの?」
 フィリダは腕時計を見ると「これで失礼」とだけ言って部屋を出て行ってしまう。なまえは落ち着かない様子でソファに座り込み、クッションを床に投げつける。そしてすぐにハッとして、クッションを拾うと元の場所へ戻した。

 自分の手が震えているのを見ていた。セオドアという遠い血縁者に乱暴されかけた事も応えているが、全く理解できない現状が一番恐ろしい。祖父に会うこともできず、朝から部屋に閉じ込められたまま抗うことさえできない。
 今、なまえが信頼できるのはブラック・ジャック先生しか居なかった。


「明日の航空便がキャンセルされた。」

 ブラック・ジャックが部屋に入ってくるなり最悪なニュースをなまえに伝える。彼が電話で予約をした航空券は公国の政府命令でキャンセルされたのだ。頼れる大使館は隣国、プロアシアまで行かなくてはならず、どちらにせよ経由地であるプロアシアの地を踏む必要があった。
「公爵は君と、あのセオドアを結婚させて公国を東プロイセンに引き渡すつもりらしい。」
 なまえの顔が曇る。あの男への信用は既に壊滅的にまで失われているというのに、面会を拒絶される祖父、ヴィルヘルム公爵の考えと聞いて不信感がさらに募った。

「1週間で、必ず一度は日本へ帰すって……」
「だから言っただろう!奴らにとんでもない事を、君が言ったからだ。」
 ブラック・ジャックも苛立っていた。突然荒げた声になまえは萎縮するが、すぐに反撃に出る。
「こんな事になるなんて私にも分からなかったんです!先生、お願いですから……私の味方で居てください。私には先生が必要なんです。」
 ブラック・ジャックも言い過ぎた事をすぐに心の中では認めていたが、それを口にする事は無い。ジッとなまえを見つめ、そして短くため息をこぼす。
「君と結婚しなければ、東プロイセンは公爵が持つ公国の支配権をプロアシアに奪われる事になる。だが君はカトリックだ。離婚は許されない……育ったわけでもないこの国のために、お前ェさんは犠牲になるのか? 」
 ふとなまえの目の奥を見て自分への眼差しに色が付いている事に気が付くなり、ブラック・ジャックはすぐになまえから身体を離した。
「待て、私は君の英雄症候群ヒロイック・シンドロームの気質よりも、…君の心の奥の問題が心配なんだ。」
 突き放すような口振りに、なまえの心は大きく揺らいだ。震える瞳にブラック・ジャックも何故か罪悪感を植え付けられる。
「……先生、は、…あくまで私の病気にしか、気にかけて下さらないんですね?」
「待ちなさい。君は少し疲れているんだ。精神状態も芳しくない。今は休んで、冷静さを取り戻すことに集中したほうがいい。」
「いいえ、いいんです。先生にご迷惑を掛けて本当にごめんなさい。……私、もう一人でも大丈夫ですから。どうか先生は先に帰国なさって……」
 なまえは立ち上がってベッドに戻ると、そこへ腰掛けた。ブラック・ジャックの視線が気になるのか、まるで隠れるようにそのまま倒れこみ、枕を抱き寄せる。

「(まいったな……)」
 ブラック・ジャックは目の前に山積みになった問題に、なまえとの関係が加わった瞬間を目の当たりにしていた。


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