人の死というものはあまりにも唐突で、呆気なく訪れ、その淵に辛うじて立っていた老人を連れ去ってしまう。
 ヴィルヘルム公爵は遺言状の書き換えを済ませてすぐ、なまえに看取られて死んだ。

「なにもお話しできなかった」

 ただ青い顔で、なまえは血縁上祖父に当たるその老人を見ていた。涙ひとつ出ず、何の実感も、感傷も訪れない、むしろ春の穏やかな水面のような静かな心に、酷い罪悪感と恐怖がその背中を蝕む。
 背後でフェーゲルをはじめフィリダや数々の高官から女中に至るまで、まるでなにかの映画のように悲しみ、泣いている。その中に、まるで死神のように佇む一人の黒い医者が、なまえの目に一筋の陰を映していた。

 なまえに約束された一週間の約束は、奇しくもヴィルヘルム公爵の死とその葬儀によって破られる。
 ブラック・ジャックは、今夜なまえを隣国・プロアシアの国境まで逃がす決心を抱いた。



「どうして逃げるのです。」
 ブラック・ジャックの考えとは裏腹に、なまえは祖父・ヴィルヘルム公爵の葬儀に出るつもりでいた。
「葬儀中なら人手が薄くなる。それに、葬儀のための物資輸送が盛んだ。城から出られる確率も高い。」
「でも……」
 ブラック・ジャックは黙ってなまえの手を握った。なまえもブラック・ジャックらしからぬその行動に驚いて顔を上げると、ひどく慈しむような彼の目に言葉は吸い寄せられ、失われる。
「なぜそこまで父親の方の血縁に拘る。君には日本に、母親と、母方の祖父母がいて……君が無事に帰ってくることを願っている。君の猫も。」
「ね、こ……」
 ブラック・ジャックはファイルから、なまえが落書きしたカルテを取り出した。猫の絵に、なまえは小さく息を飲んで肩を震わせる。
「ベネディクト」
「そうだ。なまえ、……君が一緒にいるべきは、こっちの家族だ。もうこの国に、お前ぇさんの家族は居ない。葬儀に出たって、その罪悪感は違う形になって君を襲うだろう。……23時の消灯後、0時に部屋へ迎えに行く。いいか、それまでに、荷物を出来る限り小さくまとめておくんだ。約束するね?」
 ブラック・ジャックに促され、なまえはカルテの落書きに目をやったまま頷いた。それからやっと顔を上げてブラック・ジャックと目を合わせると、なまえはなにかを言いかけて、やっぱり唇を噛んで、もう一度頷いた。

「わかりました、先生、……よろしくお願い…致します。」



 どんよりとした曇り空は、夕方頃には真っ黒なカーテンを引いて、滝のような雨粒を地面に叩きつけた。
 日の入り時間と重なったのか、その日はもう夜の帳がベールのように重ねられるばかりで、逃亡を企てるブラック・ジャックとなまえを包み隠すように抱きしめる。

 窓を叩く雨に、ブラック・ジャックの暗い顔が映っていた。「やみそうにありませんね」と、背後からフェーゲルが現れる。
「空も泣いているのでしょう。」
「先生も詩的な事をおっしゃるのですね。」
 フェーゲルがブラック・ジャックの横に立ち、同じように空を見上げた。チュールレースのスカートのように、風で光が靡いている。それに合わせて雨音も強弱し、ひさしから流れる水音はメロディラインとなって、窓の縁に沿って落ちていく。

「低気圧のせいか、なまえの頭蓋内圧の数値が微妙に変動している。悪いが、今日から明日の昼ごろまでは、部屋で安静にさせたい。」
 ブラック・ジャックの申し出に、フェーゲルは不安気な目を空から下ろした。
「あぁ……それは、なんて事だ。」
「心配はいらない。ただ開頭手術後、初めての天候による影響だ。公爵が亡くなった以上、そちらもなまえの身体は心配でしょう。あくまで、もしもの為の処置だ。今は彼女も、祖父の死に心を休める必要がある。そのための天気だと思って、今はそっとしておくしかないのですよ。」

「わかりました。では、お夕食とお夜食は部屋に運ばせます。」
「では、夕食は私が付き添いましょう。」
「あぁそれがいい、先生の分も運ばせます。」
 フェーゲルはさっそくその場を後にして、奥の廊下へ姿を消した。ブラック・ジャックはぼんやりとその背中を見送ったあと、深く息を吐きながらカフスボタンを外して袖を捲った。



 なまえの部屋でブラック・ジャックと共に夕食を済ませたあと、「なまえに熱がある」と言ってブラック・ジャックは夜食をキャンセルさせ、メイド達も部屋から出した。
 その隙に、ブラック・ジャックの医療カバンの、ほんの僅かな空きスペースになまえは大切な物だけを詰めさせてもらう。
 家族写真と、猫の写真を挟んだ手帳に、父親の万年筆。そして母親の編んだショール。それだけを詰めさせて貰った。
「先生」
 なまえはブラック・ジャックに手を差し出す。なんとなしにそれを受け取ると、金の指輪がブラック・ジャックの手の中に輝いていた。

「これは、……」
「祖母の指輪です。少しゆるくて、……先生に持っていて欲しいんです。」
 断ろうとしたブラック・ジャックを見抜いて、なまえは首を横に振った。
「先生、どうかお持ちになって。」
 もし自分が帰れなければ、母親に渡して欲しい。そう言いたいのだと、ブラック・ジャックは悟った。なまえも、そう思っていた。

「わかった。」
 ブラック・ジャックは指輪を落とさないよう、内ポケットに忍ばせてある注射ケースに入れた。それを目で追ったなまえは安心したように胸を撫で下ろし、微笑む。

「先生、……もし逃げられなくて、あのセオドアという人と結婚しなくてはいけなくなったとしても、きっと、……私はそれでも良いと思うような気がするんです。」

 雨は相変わらず窓を叩いていた。ブラック・ジャックが怖い目でなまえを見るが、なまえはもう何に対しても恐れを抱かずに、空虚な部屋のどこかしらに目をやっていた。
「結婚は紙にサインして、一緒に住むだけじゃない。特に君は、公爵の血を継ぐ子供を……その、作る義務を負わされる。ファンタジーじゃない。」

「先生は私が、……ヴァージンだと?」
 なまえの言い様に、ブラック・ジャックが初めてたじろいだ。真っ直ぐ見つめてくるなまえのヘーゼルグリーンの瞳に、初めて迷い、ブラック・ジャックは目を逸らす。
「…… もし違うなら───
「いいえ、先生は私を…よく分かってらっしゃるわ。」
 なまえは少し笑って、窓の外を見た。───今思えば、もしかしたら、窓に映った自分を見ていたのかもしれない。

「私はカトリックの女子校で過ごして、大学もカトリック系を選んでる。…あぁ、まぁそれは、日本では保証になりませんでしたね……
  私の周りは『主よ、あなたの愛に従います』と言ったお口でボーイ・フレンドのペニスを慰める同級生ばかりだったし、みんなバイブルよりもフェイス・ブックを熱心に読んでたから。将来有望な男と結婚するためにね。
  日本國公立はノーベル受賞者を排出した事があるだろうけど、日本のカトリック系カレッジは“聖女”を排出した事があるのかしら? もし聖女を出したいなら、中世のように処女検査をして、全員にこう言わせないとね。『夜、天使が現れて、私が受胎していると言うのです』って。」

「笑えない話しだ。」
 顔をしかめたブラック・ジャックに、なまえはやっと申し訳なさそうな顔を向けて息を飲む。少しなにかを考えたあと、苦しそうな吐息と共に、ブラック・ジャックに心を差し出した。
「先生、カトリックの根本は自分を“罪人”だと知ることから始まるわ。試練が訪れるのは、私が父の御心に背く罪を犯した人間だからなのだと。」

「…君は自分が罪人だと思っているのか?」

「……ええ。…これから犯すわ。」

 なまえは腕を伸ばしてブラック・ジャックに口付けをした。術後1ヶ月も経たない彼女をブラック・ジャックは突き飛ばす事もできず、なまえが不器用にも、息を止めて突き出して押し付ける唇と、高い鼻や長い睫毛が触れるのを感じる事しかできない。しっかりと首に巻きつけられた腕をゆっくりとほどき、首を上に反らせば、なまえは呆気なく───諦めたように───ブラック・ジャックを解放した。

「…… ごめんなさい。」
「君も乱れた同級生達と一緒というわけだ。」
ブラック・ジャックはリボンタイを直しながら、どこか責めるような口ぶりで言った。それになまえは俯く。
「そうよ。彼女たちの気持ちが今なら分かる。好きになった男性とファースト・キスを経験してみたいだなんてね。」
「どうりでキスが下手なわけだ。」
「…… 、先生は経験が?」
 見上げた先にあるブラック・ジャックの目に潜むものを“憐れみ”だと感じたなまえは、ゆっくりと鼻で笑いながら、悔いるように頭を落とした。
「そうよね、……先生なら、セックスだって経験してるはずよね。」

「そうだとも。そして君も経験するんだ。…今から。」

 驚いた様子で顔を上げるとほぼ同時に、その頬をブラック・ジャックの手が包んだ。


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