なまえはまるで初めて息を吸うような気持ち、……世界の全てを知ったような気持ちだった。

 意固地になっていた自分を解放して、今では雨に煙る夜のベールですら羊水を洗い流すための祝福のように感じられる。どんなに冷たい雨でも、なまえの熱い肌を醒ますことはできない。ブラック・ジャック先生が居るなら、そこは何処だって楽園エデンに変わるだろうと確信していた。

***

「歩けるかい?」
「ええ。」

 ブラック・ジャックがなまえの手を引いて、暗闇の中を足早に進んだ。車庫から車を拝借し、プロアシアの国境に向けて車を走らせる。
 夜明けまであと5時間……5時間あれば、プロアシアに入国できるだろう。陽が登るまで部屋からなまえとブラック・ジャックが消えたと気付かれないよう祈り、ブラック・ジャックは城から離れたあたりで急激にアクセルを踏み込む。
 隣で眠そうに目を擦るなまえに「少し寝ていない」と言っても、彼女は返事を返さず首を横に振るだけだった。

 病的な程に整然と並ぶ社会主義国家時代の集合住宅で出来た街並みを一本抜けただけで、世界を2度も割った戦争の激戦区跡地はそこに横たわっていた。急に道が悪くなり振動する車内。雨は止み、雲間の月灯りがこの国本当の姿を…霧に薄ぶる荒野を少しずつ露わにする。
 なまえはなにも言わなかった。顔色を変えるでもなく、顰めるでもなく。ただ平然と半世紀以上前に朽ちた兵士たちの墓場を眺めるだけだった。
 暗闇に見える範囲だけでも戦車や塹壕の残骸が陰となって浮かび上がっている。こんな所を走る車なんてのも他にあるわけもなし、ブラック・ジャックはただ見つからないことだけを祈って、悪路にガタガタと揺れるハンドルを握り締めた。

「ほんの些細なことで世界は変わってしまう。……この場所で起きた戦争がなかったら、私は産まれなかったんですね。」
 窓の外に顔を向けたなまえの顔をブラック・ジャックが知ることはできない。

 何千、何万という人間が殺し合い、流された血。それを凝縮して産み出されたのが自分の父だったのだろうと思えば、なまえは自然と納得してしまう。ずっと崇高な存在であるべきだという願望と理想を思い出の中の父親に着せていた。だがあの父親が狂っていたのは、敵同士の諍いによって産み出された因果だったのだろうと…… なまえはこの戦場跡を目にしてやっと納得したのだ。

 そしてその血は、自分にも流されている。

「先生は自分に与えられた愛に報いたことはありますか。」
「……」
 黙ってギアを入れるブラック・ジャックに、なまえはやっと顔を車内へ向けた。白と黒の長い前髪に横顔を隠し、窓の向こうと同じ闇色の服で身を包んだ男。その男の体が違う色の皮膚で継ぎ接ぎされていたのを、なまえはちゃんとベッドで見ていた。
 ブラック・ジャックはただライトが当たる中を過ぎる道の小石らを見つめる。その脳裏には、ブラック・ジャックという男なり、間黒男という男なりを愛して、そして過ぎ去った人たちの存在が思い浮かんでは消えていった。

「私は君ほど、誰かから愛されたことに対して報いなかったのを悪かったとは思っていない。その過去を罪だと…自分を罰して贖い続けるには、1人の人間に与えられた愛情は余りにも大き過ぎる。」
「……」
「君も私を愛したいと、言ってくれたね。だがそれは私のための愛にはなり得ない。……君の贖罪は、まず自分を愛することだ。」
 なまえは思わず息が止まった。ブラック・ジャックの真意を掴めず、ただ自分が拒否されたような気がしてその目が霞む。
 ブラック・ジャックも彼女のその心情を察していた。それでも今はなまえにこの痛みを与えなくてはならないとも分かっていた。なまえは「愛」という単語で人の気持ちを片付けようとしているだけで、本当に人を愛することがどんなものなのか、そして愛に報いるとはどういうものなのかを知らない。……だから今は、そこから解放してやりたかった。なまえのこれからの人生のために。

「人はもっと動物的でいいと私は考えている。……両親や祖父母に君が報いる事ができなかったとしても、たいてい親はそれでいいと思っているもんだ。野生動物は巣立てば決してその両親の元へは帰らない。君が将来…親がしてくれたように誰かを愛し、自分の子供を愛し育ててくれたら、それが何よりの“報い”になるからだ。」

「……でもそれは、“種の存続”にのみ純粋なものだわ。」
「そうだとも。それでいい。」
 石に乗り上げたのか車内が一度大きく揺れた。そしてまたガタガタと同じ調子ペースに戻って振動する。

「過去の誰かの愛への報いに縛られ続ければ、君はいずれ誰のことも愛する事ができなくなるだろう。誰かを愛するとき君は過去の誰をも思い出さず、その相手だけを見なくては……君はそこに芽生えるべき愛を失ってしまうかもしれない。
  たとえ血縁であろうと、たとえ返し切れないほどの愛を与えてくれた相手だとしても、君はいつか振り切って前へ進まなくてはならないんだ。」
 ふと顔を背けたなまえにブラック・ジャックは小さく口を結んだ。
「説教くさくなった。すまない。」
「いいえ、……なんとなく、分かります。」
 なんとなく、もう一度そう呟いた横顔の下瞼が僅かに揺らめいて光った。

 あの時、死ぬ前に一度だけ見た祖母の顔を思い出していた。あの手を取るのを拒んでしまった時の、祖母の顔を。
 ───彼女は決して私を呪うような目なんかしていなかった。私は周りの親族の目に惑った記憶ばかりを繰り返し見ているだけだと気付いていた。ただ自責の念に囚われているだけで、祖母自身は私の幸せを願っていた。

 それを知っていてなお私は自分を憎む材料にしていたんだわ。


 ブラック・ジャックも自分で言った言葉が本当の心なのだと振り返っていた。純然たる復讐心が自分をここまで成長させたハイパワーの正体だと理解していて、それがある一点を過ぎたとき破滅への下り坂へなり得ると気付いていた。
 なまえと自分は、本質的にはとても良く似ている。だからこそ彼女を掬い上げたいと思い上がってしまうのだろう。心まで治すことなどできないと何度も痛感してきたというのに、なお手を差し伸ばしてしまう。自分に残された人間性の一端に、ブラック・ジャックは目を細めた。

 この沈黙はしばらく続く。時間は深夜3時を過ぎた。地図通りならそろそろ東プロイセンの国境付近だ。ここからさらに東へ進路をとり、山を越えてプロアシアの国境へ向かう。
「(もってくれよ……)」
 ガソリンメーターが真ん中より下に振れはじめている。給油したくともガスステーションはおろか人家の灯りすら見当たらない。街らしきものも見えたが、全て半世紀以上前に破壊された遺物の姿でそこに佇んでいるだけだった。
 最悪、国境近くで徒歩になるかもしれない。ブラック・ジャックはチラリとなまえを見る。……なまえはただぼうっと外を眺めているだけだった。



「先生、あれは?」
 遠くにライトが灯っていた。片方は大きく、もう片方は小さい…… それが横並びに2つ。それもちょうどこの道の進んだ先で。
 ブラック・ジャックは不審に思ったが、こちらから見て気付いたということは向こうもこちらのライトに気付いているだろう。へんに方向を変えても怪しまれる。
「伏せていなさい。」
「は、……はい。」
 なまえも言われた通りにすると、車内の空気は一気に張り詰める。何事も無いと願って、足はブレーキに乗せたまま、ブラック・ジャックは小さく息を飲んでその道を進んだ。

 相変わらず石に乗り上げては振動する悪路。それと同じくらいに鼓動が煩く胸を叩く。
「(車だ───……)」
 道の先に止まっているのも車だった。なだらかにカーブした道の先、不自然なその光景にハンドルを握る手からは汗が滲む。
 バレたのか、先回りされたのか…… 色々予測できる事態が待ち構えているが、引き返す事もできない。

 煩い心臓を抱えたまま2人を乗せた車がその車の横を通り過ぎた。
 ブラック・ジャックは横切るほんの一瞬に目を凝らしてその車内を見たが、ライトはついたままなのに誰も乗ってはいなかった。

 煩かった心臓が僅かに緩みを見せたとき、なまえがおずおずと顔を上げる。
「……先生?」
「あ、あぁ。すまないが、もう少しそのままでいなさい。」
「はい。」
 こんなところでライトをつけたままの車を乗り捨てるわけがない。ブラック・ジャックはあくまで神経質にあたりを見回しながら運転を続けた。

 突然道の真ん中で車のライトがつけられた。ブラック・ジャックは驚いて急ブレーキを踏む。
 横でなまえの小さな、短い悲鳴が上がったが、ブラック・ジャックはそれに謝る余裕もなかった。

「クソッ!」
 予測は当たっていた。バックギアを入れて後ろを振り向いたとき、さっきの停車していた車がこちらに向かって走ってきて道を塞ぐ。
 深夜の逃避行は失敗に終わった。ブラック・ジャックは大きくため息を吐き出すと、やっとなまえに謝る。
「すまないなまえ。ここまでのようだ。」
 なまえはゆっくりと起き上がり、サイドブレーキに乗ったブラック・ジャックの手を包んだ。
「……いいんです。先生、ここまでありがとうございました。」

 ブラック・ジャックもなまえも、正面を塞ぐ車から見慣れた男が降りてこちらへ歩いてくるのを見つめていた。……逆光で男の表情までは掴めない。だがフェーゲル・ラビノヴィチの手には拳銃が握られている。なまえはブラック・ジャックに重ねた手を離すと、意を決したようにドアを開けた。

「待て」
「……いいんです、行かせて下さい。」
 ブラック・ジャックがなまえの腕を握る。なまえはゆっくりと振り向き、そして小さく微笑みを返した。
 彼女の瞳の奥に、ブラック・ジャックは自分に向け燦く愛があるのを見た。それをなまえが口にしない理由も。

 ブラック・ジャックは手を離す。なまえは自らの身柄と代わりに、ブラック・ジャックを護らなくてはと決心していた。


 車を降りた先でフェーゲルは拳銃を下ろした。それを目で追ったあと、なまえは一歩ずつフェーゲルに向かって歩き出す。ブラック・ジャックも思わず車を降りた。ドアを閉めるとその横に立ち、なまえの動向を見つめる。

 なまえはフェーゲルの前から少し離れて立つと、震える手を握りしめた。
「逃げた事は謝ります。……お願いです、もうどこにも行きませんから、ブラック・ジャック先生をここで解放して下さい。」
 なまえは舗装もされていない道に膝をついた。どんな痛みももう苦にはならない。ブラック・ジャックはどうする事もできず、ただその光景を静観していた。

 なまえが撃たれる瞬間も。

 何もない荒野に銃声が響き渡る。何が起きたのか理解するよりも前に、ブラック・ジャックは走り出す。
 崩れ落ちたなまえの身体を抱き上げると、硝煙の匂いが鼻をつく。瞳孔は開き、脈を測るまでもない…… 眉間から少し右に逸れた額に、弾痕が穿たれていた。
 たった数秒で奪われた彼女の生命にブラック・ジャックの腕が震える。綺麗に穴を開けられた顔の裏、砕けた頭蓋骨からは血が溢れ出し、なまえの頭を支えるブラック・ジャックの肘を黒く濡らした。

「───ッ なぜだ?!」

 振り向いてフェーゲルを見上げる。この男はこの国で一番なまえの継承に熱心な男だった。それをどうして撃ち殺す必要があるのか。
 フェーゲルの顔は平然としていて、ブラック・ジャックの求める答はそこに無い。だがブラック・ジャック自身を殺すつもりはないと言うように、手にしていた拳銃を懐へ仕舞い込んだ。

「答えろ!!!」
「……」
 背を向けて去ろうとするフェーゲルにブラック・ジャックはもう一度叫ぶ。彼はゆっくりとブラック・ジャックに向き直ると、今まで見たことのない顔をしたフェーゲルの表情に、ブラック・ジャックはどこか自分と同じものを見出していた。
 この男も純然たる復讐心を持っているのだと。

「私の名前で気付きませんでしたか。まあ日本人では無理もありません。……私はユダヤ人です。」
「……!」
「この国で私の一族は平和に暮らしていた。だがあの男、いえ…… ヴィルヘルム公爵一家は、この国にいた40%のユダヤ人国民を裏切り、虐殺した! ───しかしこれで私の復讐も終わりです。」

「最初からなまえを殺すつもりだったのか」

「そうですよ。」
 フェーゲルは毅然としてそう応える。
「ヴィルヘルム公爵一家を事故と見せかけて殺したのも、入院中なまえの命を狙っていたのも、全て貴様の仕業か……!」
「……まさか。先生は何か勘違いしておられる。……私1人でできるものではありません。」

フェーゲルがジャケットを脱いでみせると、その腕には赤い腕章が留められていた。

「私は帝政プロアシア国のスパイです。───これでこの国はプロアシアのものになる! ナマエが死ねば東プロイセンもこの国を統括できない。」
「それなら何故なまえを殺した! あのまま逃せば済む話しだ! ヴィルヘルム公爵と血縁を主張した所で行使力は小さい。」

「私は私の家族に、両親の憎しみに報いただけですよ。」

 それ以上何も言うつもりはないと、フェーゲルは車に乗り込んで去って行った。遠くで雷が鳴っている。また雨が降るのだろう。
 ブラック・ジャックはただ呆然と、なまえの身体を抱えたままそこに座り込んでいた。


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