例えば汚れた洗濯物が山積みのランドリーバッグ。
 曲がったネクタイに転がったカフス。不安が詰め込まれたポケット。

 ダメだった? 近くに寄りすぎたのなら謝る。罪悪感で暗く淀んだ瞳を覗かれるのが怖かったのね? わかってる。
 だけど、私のことも分かって。そして信じて欲しい。
 そんなもので私の愛が冷めたことなど、一度もなかったって。


 Unconditional loves, and...


 例えば血溜まりのできた手術台の床。
 先の曲がったメスに散らばった脱脂綿球。不安が詰め込まれたゴミ箱。

「ダメだった?」
「……今日も手間をかける。すまない」
 死体はもうない。運ばれてもう少し経っている。血溜まりもゼリー状に固まり始め、死臭に近い脂のにおいがタイル張りの部屋を充していた。なまえはそっとブラック・ジャックから目を逸らし、薬剤を溶かした水で満たしたバケツとブラシを持ち上げて、手術台の横に運ぶ。
 項垂れるブラック・ジャックに構うことなく、なまえはゴム手袋を嵌めて散らばった綿球や手術道具を拾い集める。ゴミはゴミ箱へ。さっきの患者が生きて、必死に戦っていた“生の証し”。それもなにもかも捨てていく。
「先生」
「あぁ、……すまない」
 床に物がなくなったところで声をかければ、ブラック・ジャックは立ち上がって手術室を出て行った。その背中を見送りもせず、ただ固まった血溜まりに薬剤入りのバケツをひっくり返すだけ。デッキブラシで擦る音がタイル張りの壁にはよく響く。


「今日の賃金だ」
「……」
 これは日払いの仕事。ブラック・ジャック先生の身の回りの手伝いなら何でもする。お洗濯からベッドメイク、食事の用意から手術室のお掃除まで。大してたくさん貰っているわけではないけれど、1ヶ月で考えたらそれなりの額にはなる。私はこれでなんとか暮らしていた。
 海に面した窓からは、水平線に着水しはじめた太陽が赤く燃え、ブラック・ジャックの半分白い髪も赤く彩っている。その縁取りはため息が出るほど美しいと思う。しかし見惚れるのも程々にして、なまえはいつもの平素な態度を装った。
「先生、来週の火曜日にお休みを頂いても……」
「ここへ来るのは君の自由だ。好きにしなさい」
「……はい」
 基本的に出勤日も出勤時間なんてものもない。私が勝手に来て、勝手に先生の面倒を見ているに過ぎない。先生がそれに賃金としてお金をくれるだけ。
「何かあるのかね?」
 なまえが黙り込むので、きっと理由を聞いて欲しかったのだろうとブラック・ジャックは思ってそう聞いた。その予測は半分以上正解で、なまえは少し照れたような、そして困ったような顔で答える。
「実は、働き口を紹介してもらったんです。面接があって……」
「そうか」
 ブラック・ジャックの返事はあまりにも素っ気ないものだった。引き出しを開けると、6、7ほども帯留めされたお札の束を取り出して机に置く。流石にギョッとしてブラック・ジャックの目にその真意を探るが、前髪に隠されたその顔になまえが知ることのできるものは何一つとしてなかった。
「これは君が受け取らなかった私からの慰謝料だ。新しい仕事に就くのなら、これを持って行きなさい」


 私の家族は、この先生が助けられなかった患者だ。母親は居ない。父親と歳の離れた兄と、3人家族。私はたった1日で、身寄りのない孤児になった。
「ダメだった?」
 父も兄も死んでしまったのだと、あの時の先生の顔を見てすぐに分かった。私は先生が患者を助けられなかったたびに、あの時と同じ言葉を吐く。「ダメだった?」って。
 いまは小さなアパートに住んでいる。先生が保証人になってくれた。高校も卒業させてくれた。そして今がある。先生の身の回りの世話をする代わりに、お金をもらう。それで生活をする。
 私は先生を恨んだり、呪ったりしてはいなかったと思う。自分でもよくわからない。最初はとても大嫌いだったと思う。だけど、父と兄の死を告げる先生を見て、私はすぐに許していた。何もかも受容するしかない。
 どうして家族を殺した医者を愛せるかって? 愛してなんかいない。……でも愛している。そんな理屈だとか、好き嫌いで隔てられるものではない。ただ、私に謝る必要も、先生が贖罪するに値しないことも知っていただけ。


「先生、私はそんなもの要りません。私は……もう、お金はたくさん頂きました」
「……」
「ブラック・ジャック先生、私は仕事に就いてもここへ来ます。お賃金が欲しいんじゃないんです。……私は、先生からもっと違うものが欲しいんです」
 膝をついて、縋るようにブラック・ジャックの膝に手を置く。覗き込んだなまえの目を恐るように、ブラック・ジャックは顔を逸らした。
「私に何を求める? ……理想や夢を私に求めるのはよしなさい。私はお前さんの家族を奪った。許されることじゃない」
「もう謝らないで。どうか私を怖がらないで」
「やめないか!」
 椅子の倒れた振動で、マグカップの中のコーヒーが小さく波立った。
 肩で息をするブラック・ジャックが、床に手をつくなまえを見下ろす。やり場のない手で顔を擦り、そのまま前髪をかき上げるとブラック・ジャックは背を向けた。
「先生、もう自由になりませんか」
「……」
「自由になるために、どうか先生も私のために同じことをしてください。私はあなたを愛しています。無条件に。なにも恐れず、何にも躊躇わず、私はあなたの何もかもを受け入れたい」
「私に君を愛する資格はない。私を知らないからそんな事が言えるだけだ」
「知らないって何をですか!? 汚れ物が山積みのランドリーバッグ? 違法薬物のガラス棚? 半年に一回は詰まらせるトイレの排水管?」
「いい加減に───」
 振り返ったところでブラック・ジャックを捕らえたのは、なまえの腕だった。初めてこんなに近くで触れ合う体温と、シャツ越しにも湿った吐息が胸にじんわりと広がって、彼女が泣いている事くらいすぐに分かる。
「本当の中身とか、先生の全ての不安とか、どうでもいい。先生の何を見ても、私は一度も目を逸らしませんでした。もう私は1人の人間です。先生に頼らなくても、私は生きていける。だからこそ私は先生の近くにいたいんです」
「……なまえ」
 両の肩を先生の手が包む。顔を上げると、ひどく不安に揺らいだ瞳がそこにあった。


「良かったですね」
「そうだな」
 包帯を巻いたままの子供を車に乗せて、笑顔の両親が何度も頭を下げながら車に乗り込み、そして峠の道を去っていく。それをいつまでも見送るブラック・ジャックの背中に、なまえが小さく笑った。
 ポケットに両手を突っ込んだまま柱に体を預けるブラック・ジャック。そのポケットの中に詰め込まれたものが、なにも不安なものばかりではないとなまえには分かっていた。

 例えば汚れた洗濯物が山積みのランドリーバッグ。
 曲がったネクタイに転がったカフス。最後にあの子の親と交わした、熱い握手の体温を閉じ込めたポケット。


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