帝政プロアシア国、プルゴヴィオ空港から小型飛行機を乗り継いでさらに3時間。私は依頼人の待つヴィルヘルミネ公国へ到着した。バルト海を望む海洋性気候、そして総人口40万人弱。面積で言えば、日本の北海道くらいしかない小国だ。ヨーロッパの主要国とその海域に挟まれ、先の世界大戦でひどく荒廃したと聞いていたが…着いてみれば何のことはない。街並みはある程度まで直され、市街地もそれなりに栄えている。牧歌的で長閑な住宅が点々と並ぶ丘陵地帯が南東の山間部に向けて延び、遠くには羊の群れだろうか、白い点々とした“塊”が霞んで見えた。

「ブラック・ジャック先生ですね」

 ターミナルと呼ぶにはあまりにも簡易的で、雑然と寂れた、田舎の駅舎のような空港。その入国ゲートを出た所で、グレージュの高級スーツに身を固めた男が声を掛けてきた。
「お待ちしておりました。」
 荷物を持とうと伸ばしてきた手を丁重に断り、渋々先導をするその男にブラック・ジャックが陰のように着いて行く。空港の職員以外、殆ど人のいない大理石の張られた床を、二人の革靴がツカツカと気持ちのいい音を響かせる。

「それで?私の依頼人は。」
「お屋敷の方で…それはもう首を長くしてお待ちしております。」
 空港を出た所で待っていたのは黒の高級車だ。ガラスの自動ドアを出た先導の男を見るなり、運転手が出てきて後部座席のドアを開ける。さらに車のトランクを開けるので、黙ってその中に革張りのトランクを置かせてもらった。


 車は市街地を抜け、入り組んだ河岸沿いを走っていた。広大なその水辺がまだ川だと知ったのは後のことで、この時の私は、これがバルト海だと思っていたために、自然と記憶に残ってしまってたらしい。

「申し遅れました、私はフェーゲル・ラビノヴィチ。貴方の依頼人であり、このヴィルヘルミネ公国の領主ルートヴィヒ・アレクサンドロフ・ヴィルヘルム公爵殿下の側近のひとりとして、ブラック・ジャック先生のお世話を仰せつかりました。」
 車の中でフェーゲルと名乗った男から、依頼人がこの国の領主…つまり君主だと告げられる。それでもブラック・ジャックは大して驚くでもなく、黙ってフェーゲルの話を聞いた。
「公爵殿下は御歳82になられ、…10年以上も前から軟部肉腫と闘ってきました。」
「軟部肉腫…内臓部ではない筋肉やリンパ節、脂肪にできる悪性腫瘍か。10年以上闘病しているということは、もう身体中どこに転移していてもおかしくはない。…そもそも軟部肉腫は、癌の中でも気付きにくい部類に入る。」
「そう、先生のおっしゃる通り…10年前、左大腿の内転筋内から軟部肉腫が発見されたとき、腫瘤はすでに150ミリを超える大きなものになっていました。すぐに切除手術が行われましたが、最近になってリンパ節や心臓部への転移が認められたのです…」

 ブラック・ジャックは足を組み直して外を見た。車は岸沿い一本だけの道を時速70キロほどで走り続け、その先の森の向こうには城郭が目視できる。

「心臓及びリンパへの転移、加えて10年以上の闘病…悪いが、私にそのお偉いさんを治すことはできない。身体中の主要病巣を取り除くとして、そんな大手術に耐えられる体力が果たしてその82歳の老人にあるとも思えない。…どうやら無駄足だったようだ。」

「先生!待ってください…!先生をお呼びしたのは、殿下の治療だけでは無いのです!」

 ブラック・ジャックは窓の外から顔を戻してフェーゲルを見た。その目には、老いて死んでいく自分の主人よりも、ちがうものが映されていた。


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