「先生…私はあと何日、持ちますか?」

 豪華な装飾や調度品が並ぶ部屋に、真っ白で無機質な医療機器の存在だけが浮き、調和を乱していた。ガラスの大窓が部屋の一面に嵌め込まれ、眼下にはバルト海とヴィスワ川を隔てる細長い半島が(日本の“天橋立”によく似た景色が)その死を目前にする老人と共に横たわっている。

「生きているのが不思議なくらいですよ、ヴィルヘルム公爵。主治医のカルテを見せてもらいましたが…アンタは既に最末期の癌患者だ。1日数回に及ぶ医療用モルヒネ投与、過度な放射線治療による人体損傷まで見られ、白血球の数値が著しく低下している。それなのに無菌室や集中治療室にも入らないで、こんな湿気と埃の多い古城に留まるとは…アンタはよっぽど生命力が強いのか、ただ運が良いのか。」
 ブラック・ジャックは脈や瞳孔、口内の観察をしては独自のカルテに書き込んでいく。だがうめき声と共に伸ばされた枯れ木のような腕が縋り付いてきて、彼は走らせていた万年筆を止めた。

「そんな事はどうだっていい!私は、…私はあの娘に会うまで、死ねないんだ!」

 ブラック・ジャックの脳裏に車の中で見せられた一枚の写真が過る。無理矢理にでもシーツの白い海から浮き上がって縋り付くヴィルヘルム公爵の点滴の管や資料が散らばって床に落ちていく音がやけに大きい。フーフーと息を荒げる公爵に、フェーゲルや看護師が駆け寄ってなだめようとした。

「“あの娘”…アンタ、まだ成人したかしないかくらいの若い、それも日本国籍の“孫娘”に会ってどうする。この国を継がせるとでも言うのか?」
 ベッドに戻され点滴や酸素マスクを看護師に直される公爵に、ブラック・ジャックはあくまで冷静に問いかけた。カルテを小脇に挟むと、ポケットからフェーゲルに渡されていた写真を出す。

「みょうじなまえ、本名ナマエ・アレクサンドロヴナ・ヴィルヘルミーネ=ミョウジ。日本国籍。アンタの私生児である息子の子供…つまり、アンタの孫娘さんらしいな。」
 その写真を見るなり公爵はひどく寂しそうな、しかしどこか恍惚とした顔でその娘の顔に手を伸ばした。「あ…あぁぁ…」と嗚咽を漏らし、ついにはブラック・ジャックから写真を受け取って顔や胸に押し当てる。窓の向こうで海は穏やかに揺らいでいた。その細々とした波間に目を向け、枯れ果てた涙に眉間をくしゃくしゃに丸める…公爵はしばらくそうやったあと、フェーゲルに勧められてやっとベッドへ静かに横たわった。そして、ぽつりぽつりと自分の過去を話し始める。


「そう…“あの戦争”で我が国は戦勝国側だった。しかし独立国として認められず帝政プロアシアへ吸収されていた…社会主義国家にこの国の人々は資本主義的だと迫害され、とても苦しい時代だったあの時───

 私は先代君主である父の意向で、プロアシア帝国とユナイテッド合衆国の起こした句麗半島の内戦へ視察に行っていた。だがそれはあくまで建て前…私は敗戦国であり当時ユナイテッド合衆国の占領下にあった日本へ、我が公国の独立を合衆国から国連へ要請してもらうための交渉に訪れたのだ。

 私は日本国で、ある女に出会った。なに…私も若く、東洋人の中で初めて美しいと思える顔立ちの女に出会ったら、他に“する”事はないじゃろう。あの国には独立のための交渉で句麗戦争中に2年留まったが、私はあの女を心から愛したつもりだ。…だが、我が国が独立を勝ち得て帰国の時になり、私はあの女と、一人生まれた息子をこの国へ迎える事はできなかった。」───


「それが、この写真の娘の父親か。」
 ブラック・ジャックの方を見ずに、公爵は項垂れる。
「先生は身勝手だと思うだろう。そのあと私はこの国を治める公爵として、この国の貴族の家から正妻を娶り、二人の跡取り息子にも恵まれ、独立をさせた名君として、この家を繁栄させることができたと思っていた。」
 公爵はブルブルと震えながらベッドのシーツを掴んだ。それをブラック・ジャックが目で追ったあと、また公爵の青白い顔に向ける。心電モニターは上昇し、公爵の精神的な負担までもが電子音のリズムとなって部屋に響き渡った。
「殿下…どうかお気を確かに!…公妃殿下とご子息の事は…僭越ながら私から先生に先にお話ししてございます。…まことに、残念でした…。」

「残念!!!残念だと!」
 急に激昂した公爵は顔だけを上げてフェーゲルを一喝すると、ブラック・ジャックに目を向ける。
「あれはプロアシアの報復だった!!!私の代で後継者がいなければ、我がヴィルヘルム公国は再びあの汚い帝政プロアシア国に吸収され…ッ」
 ゲホゲホと大きく咳き込み、次第に引きつった顔で発作を起こす公爵に、ブラック・ジャックは慌てて背後の看護師に指示を出した。
「クロルジア!」


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