みょうじ なまえ、日本にいる間は、…そして彼女が自分の出自を知らない間は、この日本名で呼ぶ事とする。みょうじなまえ、現在21歳。1ヶ月前に大学の交換留学でエミリアナ=ロマーニへ渡り、マフィアの銃撃戦に巻き込まれて被弾。銃弾は左第六肋軟骨を砕き左肺気管支を貫通。緊急手術にて気管支の縫合と肋軟骨の修復のうえで日本へ護送、彼女の生家があるこのK市聖カタリナ病院へ入院。
 …問題は、彼女の被弾事件の際、後頭及び右側頭部を何らかの理由で大きく打ち付け、小脳と右側頭葉部の間に血腫が出来てしまったこと。それも四丘体と松果体の僅かな隙間に出来ており、脳梁と脳幹を圧迫している。つまり、彼女はこの1ヶ月を植物状態で眠ったまま過ごして来たのだ。

 ブラック・ジャックはシャウカステンへ貼られたMRIフィルムとX線写真を前に、河瀬院長からの説明を聞きながらオペでなすべき流れを考えていた。血腫の凡そのサイズと位置、患者の状態を確認したあと、彼はやっとなまえの病室へ向かう。
 ストレッチャーが2台は乗るであろうエレベーターに院長以下5名ほどの医師と看護師がゾロゾロと着いて乗り合わせ、該当のC病棟3階、個室待遇のその病室へたどり着いたのは、病院へ到着してからゆうに1時間は経ったあとだった。

 なまえの病室はがらんとして寒々しい部屋だった。窓からは隣の病棟の壁の光景しかなく、北向きで日差しもない。白い部屋に医療機器と塩化ビニル製の簡易無菌室、栄養流動食を流すための胸の管、酸素マスク…年頃の若い娘にとって、それはあまりにも痛々しい姿だ。
「失礼ですが、ご両親は?」
 ブラック・ジャックは同情からそんな事を言う男ではない。単純に手術の同意を得る事を心配したのだが、院長は前者の意味で捉えたらしく、憐れんだ目でビニルカーテン越しになまえを見た。
「母親が…。」
 それ以上言わない所を見て、ブラック・ジャックは一つの疑問に応えが出た。

 まず、あの公爵がなぜなまえにだけ拘るのか。血縁から言えばなまえの父親…つまり直接の息子の方を気にするのが普通だろう。…だが既に死んでいた。あの公爵にとって、自分の血縁は本当に彼女しか残されていないという事だ。

「支払いの方は既に受け取っている。早急にオペの準備に入りたい。その母親から、手術の同意書を。」
 いかにも下っ端そうな医師にブラック・ジャックの鋭い目が突き刺さると、可哀想なその医師は「は、はい…!」とだけ言って病室を後にする。
「しかし先生、彼女は完全に植物状態です…それをどうやって…」
「理論上不可能ではない。現に私は、過去に3度植物状態からの蘇生に成功している。そのうちの1人は…80mの谷底へ落下した、17歳の少女だった。まずなによりは脳内血腫の除去だ。」

 彼女の手術は、3日後の16時からと決まった。医師たちの希望で、外科医2名、麻酔医2名、看護師5名の立会いを認める。但し、オペは私1人に全て任せてもらう…それが私の、いつものやり方だった。


「ブラック・ジャック先生…彼女、いえ、ナマエ公女は治りますか。」
 太陽が沈み行く街並みを背に窓際でコーヒーを飲んでいると、フェーゲルの煌々とした目が詰め寄るように這い寄ってくる。ブラック・ジャックは静かにカップを置き、カルテを閉じて立ち上がった。
「公女、…か。彼女は公国を、いや公爵との血縁を知らないんじゃなかったのかね。それを勝手に公女とは…」
「先生、我々は何としても彼女を公爵家に招かねばならないのです!先生はご存じない…大国からの暴力や圧力…もし彼女が公爵殿下の後継にならなければ、あの小さな国はたちまち、またあのプロアシア帝国に吸収される運命を辿るでしょう!」
 ブラック・ジャックは静かにその男を見ていた。フェーゲルはブラック・ジャックのその目に、自らの深淵を覗かれているような気がして、振り上げていた拳を下ろす。そしてその黒い医者から身体ごと顔を背けると、流れ出る汗を袖でぬぐった。
「すみません…つい…」
「いや。君たちの言い分は分かった。金を受け取っている以上、患者の治療にも全力を尽くそう。…但し、私は彼女の意思を尊重する。彼女が目覚めた後にもし公国への渡航を拒否したら、…いや、仮に行ったとして、公爵家を継ぐ事を拒んだ場合…私は彼女を、この日本で、普通の生活に戻してやる…それが、主治医である私の役目だ。それだけは理解してもらおう。」



 聖カタリナ病院へ着いてから3日目、この日の夕刻から、ブラック・ジャックはなまえの脳内血腫除去手術を予定していた。しかし早朝、フェーゲルが用意していた市内の滞在ホテルの電話が鳴る。レセプションを経由してブラック・ジャックが部屋でその電話をとるなり、彼は急いでタクシーに乗り込むハメになった。


 金属音と看護師の怒号にも近い声、注射器の無菌パッケージを剥ぐ音…そこにブラック・ジャックが駆け込む。
「バイタル!」
「心拍上昇!ショック状態です」
「くそ、アナフィラキシー寸前だ!アドレナリン!それとステロイドの点滴投与を準備!」

 入院着を剥がれたなまえの真っ白な肢体に、大きな赤い斑点がよく映えていた。流動食用の管の周りを重点的にその赤色が置かれ、首筋にまで浮腫が見られる。服からこぼれ落ちた剥き出しの乳房が心拍に合わせて震える事だけが、彼女が生きているのだと教えていた。

 彼女は食物アレルギーを持っていた。それが今朝の流動食に混入していた。原因はラベリングミスだとされたが、ブラック・ジャックに納得した様子は見られない。
「(…まさか、な………)」
 カンファレンスが開かれ、その後のバイタルが安定値に入ってはいたものの、手術を少し伸ばすべきだとの声も少なからず上がった。───だが、ブラック・ジャックは変更をしなかった。手術の予定時間まで約6時間、彼はカルテや資料をなまえの病室へ持ち込むなり、手術準備までその部屋に留まることとなる。


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