14時30分、なまえの頭髪剃毛を看護師に任せ、15時より全身麻酔に立ち会う。私はCT画像による最終チェックを行ってから、15時30分手術着に着替え、消毒。傾いた太陽が丁度廊下の突き当たりの窓から一直線に差し込んでいる。白で統一された病院を橙色に染めることはあの太陽にとって簡単な事だ。16時、私は手術室へ入った。

「これより開頭による脳内血腫除去術を行う。」
「よろしくお願いします」
 手術室に満たされた人員から一斉に声が上がる。マスク越しで曇ってはいたが、その目は──特に助手を希望した外科医たちは──煌々としてジッとブラック・ジャックを見つめていた。
 広げられた手術道具の殆どがブラック・ジャックの持ち込んだ愛用品だ。電気メスで頭皮を切り開いていく。
「クラニオトーム」
 研磨の高いドリル音が響く。孔を4箇所開けると、糸鋸で頭蓋骨を円状に切り開ける。まるで椀の蓋をあけるようにカパ…と骨を上げると、乾燥を避けるため生理食塩水へ漬けた。
「メッツェンバーグ」
 慎重に硬膜を切り剥がしていく。切り終えたところをピンセットで持ち上げて、やっとブラック・ジャックの前に脳が現れた。ブラック・ジャックは一度体を起こし、汗を拭いてもらう。
「プラズマ、ワン・バイアル、ゆっくりと側管注」
「はい」
片目をルーペで拡大視しているとはいえ、ブラック・ジャックはいつも脳を触る時だけ、独特の緊張感を持ってその手を動かした。ほんの些細な毛細血管ひとつを弄るだけで、この患者は言語障害や身体麻痺、心肺の停止さえ起こし得るのだ。心臓を手術するよりも恐ろしく、まさしく患者の命を、一番残酷な形で手にしている。
「ガンマグロブリン製剤を追加。」
「はい」
「ICPチェック」
「心拍数63、血圧102から51、ICP落ち着いています。」

「これより脳内のくも膜剥離に入る。患者に対しての、一切の振動・刺激をゼロに保て。ほんの僅かな振動さえも、患者の生命を奪う事になる。ライト、中央部のみ。開頭部を2000ルクスに保持」
「中央部のみ、2000ルクスに保持」

 その後は誰一人として口を開かなかった。椅子に座り自らの身体を安定させ、ブラック・ジャックの指先は自らの脈拍による微弱な振動さえも必死に押し殺して脳神経にピンセットを入れる。まだ若く、黄色味掛かった乳白色の脳を走る青と紫の毛細血管と、糸のような神経組織。内視鏡を差し込み血腫の除去を進めていく。

 彼女の心拍を伝える機械音だけが、そのタイル張りの冷たい部屋を温めようとしていた。


***


 糸を切る鋏の音が響いたとき、その手術室にいた誰もが息を飲んだ。天才医師と云われる彼が手袋の血を水桶で洗い流し、看護師から受け取ったタオルで拭いて、ようやく同席した医師たちから拍手が上がったのだった。
「終わりました…」
 ブラック・ジャックもやっと大きく息をついた。時計は6時を指している。手術室に入る前に沈みかけていた太陽は、地球の裏側を観光してからその病院をまた白く照らすために帰って来ていた頃だった。

「患者をICUに移動。術後感染症の予防と、脳圧・頭蓋内圧のチェックを忘れないように。」
 ブラック・ジャックは更衣室へ向かうと、手袋を外して看護師に渡してから、簡易的な長椅子にそのままうつ伏せた。
「私は、暫くここで睡眠を取る。」

 手術室の使用中ライトが消されると、待っていたフェーゲルがハッとして立ち上がる。ドアが開かれるなりなまえはICUに移された。フェーゲルが慌ててブラック・ジャックを求めて更衣室に飛び込んだ時には、彼は大いびきをかいて起きることはなかった。



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