13時間余りの大手術を完璧な精神力でこなしたブラック・ジャックへの、周りの病院の人間からの扱いは格段に変わった。どんな悪い噂を耳にしていた医師たちも、あの手術以降態度を改め、崇拝にも似て尊意を持った目で見ていた。
 感染症予防や頭蓋内圧のチェックをしながらさらに2日、手術から3日目の早朝に、彼女はついに目を覚ました。おかげで、ブラック・ジャックはまたもやホテルからタクシーに飛び乗る事となる。


「自分の名前は?言えるかい?」
「みょうじなまえ…」
「生年月日は?」
「───年──月──日…」
「これは何か分かるかい?」
「…ボールペン…?」
「ちょっと使ってみて貰おうか。」
「…」
 ブラック・ジャックは優しい面持ちでペンを差し出すと、カルテを挟んだままのバインダーを渡した。なまえはボールペンの頭をノックして芯を出すと、文字の書かれていない罫線欄に、3周ほどペンをグルグルと動かす。すると、なにかを思いついたように絵を描いた。
「…フ、これは?」
「猫よ。私の家に居るわ…ベネディクトって言うの。私が拾ったのよ。」
「そうか。」
 ブラック・ジャックが柔らかく笑いながらゆっくりと立ち上がると、背後のガラス越しに立っていたなまえの母親を見る。母親は充血した腫れぼったい目で、首を縦に振った。
「ベニーは…いえ、ベネディクトは確かにうちで飼っている猫の名前です、この子が高校生の時に拾ってきたんです。」
 母親はまたハンカチを鼻に押し当てて、堪らずまた泣き出す。その声はスピーカーを通してなまえのICUに響いた。


「事件前後の部分にだけ軽い記憶障害が認められるが、銃撃のショックを考えればさほど気にする程度では無いだろう。それ以外の記憶や学習能力にも問題は無い、…脳圧が安定しICUを出たら、一度聴覚や視力など、身体の検査を考えておくとして…食事も流動食は必要無くなった。早めにチューブを外す処置をしようと思う。」

 別の診察室で、ブラック・ジャックは母親に説明をした。ブラック・ジャックの背後には、看護師ではなくフェーゲルが白衣を着て立っている。
 母親は神にでも縋るような顔で感謝を繰り返した。彼女はこの半月の間、なまえの手術に立ち会えないほど精神的な錯乱を起こし、つい昨日まで別の精神病院へ入院させられていたのだ。ブラック・ジャックがなまえを植物状態から復活させたことで、結果的にこの母親自身の心の病気を完治させる治療にもなったらしい。


 ブラック・ジャックに、一切の不安が無いわけではなかった。ICUはブラック・ジャック本人と一部の看護師にのみ立ち入りを許可し、なるべく部外者を入れないよう努めている。…あのアレルギー物質の混入、いや、まず最初の銃撃事件からこそ、ブラック・ジャックは怪しんでいたのだ。
 ふとカルテをめくると、その1ページになまえの描いた、おかしな猫の絵が目に入る。緊張した背中が解されるような、ゆるりと頬を上げて口の端に笑みをこぼさせるような温かみのある、その他愛のない落書き。14〜5歳の写真だけで見ていたなまえ、植物状態の痛々しい姿で眠っていたなまえ、その出会いからおよそ1週間、ブラック・ジャックはやっと本来の姿のなまえに出会い、その一端に触れる事ができた。ぼんやりとした意識の中で、ほんの少しだけでも微笑んだ彼女は、とても美しかった。

「(まるで眠り姫、か…)」
 もし彼女が、自らの出自を知ったならば。
 ブラック・ジャックは落書きのされたカルテも入れたままファイル挟むと、デスクのドキュメントスタンドへ戻した。何があっても、患者を守らなくてはならない。それがブラック・ジャックの医師としての心情だった。
 人はいずれ、どういう理由があっても、死ぬのだ。人は誰かの死を前にして、何をする事も出来ないのだと知っている。その人を悼み、一時涙を流すことくらいしかできないのだと…だからこそ、ブラック・ジャックはこうしているのかもしれない。その人の死に抗ったと、その確たる証拠がほしくて…彼は医師をしているのかもしれない、と。


「先生、」
 ICUを訪ねれば、なまえは朗らかに笑って見せるようになった。まだベッドを緩やかに上げるだけで、ベッドから頭を離すことは禁じている。それでも彼女は本を読んだり、ゆっくりでも自分の口で食事をとれるくらいには回復を見せていた。
「さぁ、まずは本を置いて。気分はどうかな」
 なまえは素直に本を閉じて差し出すので、ブラック・ジャックはそれを受け取るなりサイドテーブルへ置いてやる。
「悪く無いわ。早く外を歩きたい…」
 控えめに足先をウズウズと動かして、急に幼な子のような笑みを浮かべるので、ブラック・ジャックもつられてため息混じりに微笑み返す。
「もう少し安静にしていよう。君がちゃんと我慢していれば、それだけ早く退院がやって来る。」
 静かで、それでいて優しい心地にさせる声がなまえを包んでいた。出自を知らないとは言え──この年若い患者にはその素質があると、ブラック・ジャックの目にはそう写っていた。まずこの年の頃にしては大人びていること。髪が無い事に僅かに動揺は見せたものの、すぐに受け入れて動じなくなった。プライド自体は高いらしく、泣いたり弱音を吐くところを決して見せない。誰かが側にいれば常に気を遣い、笑わせようとしてくる所がある。皮肉にもプロアシア文学を好み、北・東欧の陰鬱な近代小説を読んでいた。熱心なカトリック信徒であるものの、彼女自身は運命論や理想論を毛嫌いする節があり、清廉で清貧、潔白を重んじる事を父親から言い聞かされてきたと語った。


 ブラック・ジャックが思っているほど、事態はそんなに甘くはなかった。なまえが目を覚ましてさらに5日後、ICUから一般病棟の個室へ移される日、その事件は起こった。

 なまえが移る予定だった個室病室に、たまたま急患で運ばれた80代の女性が急遽入ることとなり、なまえは別病棟の個室へ移る事になった。…この偶然によって、80代の女性は死亡する事となる。
 ベッドのマットレスを支える鉄柱が腐っていた。それも頭部にあたる部分だけが。女性が運ばれてベッドへ寝た時、鉄柱は折れ、マットレスが傾斜状に落下。女性は後頭部を挫傷し、蘇生の甲斐もなく、死亡が確認された。───もしこれがなまえだったら。彼女は開頭部の頭蓋骨が落ち、間違いなく即死していた。

 ブラック・ジャックは確信した。間違いなくこの病院に、既に敵は潜んでいる。
 ベッドの鉄柱の一部だけが腐食しているなどあり得ない。恐らく誰かが、硫酸などでそこだけ腐食させておいたのだ。一体誰が───… ブラック・ジャックは頭を抱える事となる。安全な場所へ移送するにも、移送先が無いのだ。仮にブラック・ジャックの私邸に入院させたとして、脳の外科手術をした患者を安全に入院させる設備までは無い。


- 8 -

*前次#


back top