その後“俺”が目を覚ましたのはあの出来事があった二日後のことだった。その間、彼女は“俺”の元には来なかったらしい。まあ、あの時の彼女を思えば“俺”なんかを気にかけられる程の精神的余裕などないだろう。
しかし、そう思ったところで気がついた。記憶が混濁していたため今までどうやってあの場を切り抜けたか忘れていたが、結果的に“俺”の命を救ったのはやはり彼女だったのだ。剥き出しの刃を握って、血が噴き出す右手を気にすることなく彼女は化物の右目に刃を突き刺した。痛みに悶える化物の隙を突いて彼女は項を斬りつけた。結局とどめを刺したのは“俺”だったが、それでも彼女が俺を助けてくれたことに変わりはない。
やっぱり彼女はかっこよかった。
「失礼します」
“俺”が目を覚ました翌日、彼女は病室にやって来た。彼女はベッドの際に置いてあった椅子に座った。
「あの………どうしたんですか、その頬」
記憶が正しければ、彼女は頬を負傷していなかった筈だ。まさかあの後に戦闘でもあったのだろうか。
“俺”の心配を他所に彼女は不貞腐れた。その表情の意味が分からず小首をかしげると、彼女が小さく「殴られた」と言った。
「な、殴られた…?」
「ああ」
「誰にですか!」
怒りを露わに詰め寄れば、彼女は落ち着けと窘めてきた。
「ハンジだよ、ハンジ。ケジメとしてな…一発だけ」
罰が悪そうに呟く彼女に、“俺”は何も言えなかった。黙って彼女の人工的な白に包まれた頬を見つめるしかできなかった。
やがて、彼女の頭が下がる。普段見ているつむじが真正面に来た。
「済まなかった」
その一言に心臓がドクンと鳴る。
「私は…冷静じゃなかった。あの人どころか…お前まで……失うところだった…」
声は震えていた。本当に心の底から悔いた声音だった。こんな彼女を見たのは、初めてだ。
「……頭を上げてください」
ぴく、彼女の包帯に包まれた右手が動く。
「“俺”は今まであなたが望むならと…何でもしました。でも今回のこれはあなたの為じゃない。本当にあなたを想うなら助けないほうが良かった…あなたを助けたのは“俺”の為なんです。“俺”が死んでほしくないと思ったからあなたを助けたんです。“俺”の為に、あなたを…あの人がいないこの世界に引き留めたんです」
「だから」彼女は黙って聞いていた。
「…だから、そんな顔して謝らないでください」
全部全部、“俺”の為なんだから。あなたは何も悪くない。“俺”は分かっていた、あなたの次の行動を。でもそれを勝手に食い止めた。わざわざつらい生き方を選択させてしまった。……謝るのは“俺”のほうだ。
――全て吐露した。彼女は沈黙を貫いていた。
「……まあ……一つ、我儘を言うなら、今のあなたを両腕で抱き締められないことが不満ですかね」
おどけて言えば、彼女はなんだそりゃと小さく笑った。久しぶりに見た笑顔に少し安堵する。
風が、通り抜ける。白いカーテンが揺れる。草木がなびく音に暫し耳を傾ける。太陽の光がじりじりとなくなってゆく。病室は陰を満たしつつあった。彼女の髪に、頬に、白い右手に、陰が忍び寄る。やがて白い室内全てが日陰に入る。“俺”は暗くなった彼女の頬に無意識に手を伸ばした。彼女は何も言わなかった。黒曜石の瞳は静かにこちらを見据えている。廊下で初めて目が合ったあの時のように。静かに、息を潜めて。
“俺”は彼女の唇に己のそれを寄せた。
彼女はやはり、何も言わなかった。
「…済みません、ユキさん」
久しぶりに彼女の名を紡ぐ。この世界で一番特別な、大切な人の名を。
そして最後に“俺”は、言ってはいけない言葉を口にした。


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