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「う、えっ……げほっ、けほ」


 しょっぱ! え、塩っ辛い!
 海水ってこんなにえげつない味だっただろうか。これは喉を殺しにきている。おまけに不安定な体勢だったせいもあり、鼻にまで水が入ってしまった。つん、とした痛みに思わず涙目になる。呼吸が苦しくて死にそうだ。
 波がもう少し激しかったら、余裕で溺れている自信がある。邪魔なドレスもすっかり水を吸って動きづらくてしょうがない。けれども、一番大切なものはしっかりと手に握られていたから、全て良しとしよう。


「そうだ、さっきの音は……?」


 海に落ちたのとほぼ同時くらいだっただろうか。何かが壊れるような、ものすごい衝撃音がしていた気がするのだが。あれは何だったのだろう。
 海面から船を見上げると、なんだか煙のようなものが吹き上がっていた。まさか、隕石でも落ちたか……?? 数秒眺めていると、ひょこりと煙の辺りから小さな何かが飛び出してきたのが見えた。鳥のようなシルエット、しかし月明かりに照らされるその姿は紛うことなき猫のものだった。猫に羽が生えている。


「あれ、ナツを助けてくれた女の子? そんなところで何してるの?」
「えっ、と、この船に誘拐されて……?」
「ええ!? 誘拐!?」


 ぎょっと、元々大きな目をさらに見開かせて、彼はわたわたと慌ただしくこちらに近寄ってきた。そうして流れるように、むんず、とドレスの肩紐を掴まれて。え? と疑問に思った頃には体が宙に浮いていた。
 体が、宙に、浮いている。……??


「え、ちょっ……!? え!?」
「落ち着いて、あんまり暴れると落としちゃうよ……!」
「え、あ、うん……!?」


 状況が飲み込めないままに、ぴたりと動きを止めた。再び海に落ちるのは勘弁だ。何より先ほど飛び込んだ位置よりも、さらに高い位置に運ばれているので、単純に怖い。どうか落とさないでほしい。
 そう願っていると後方で、パァン! と何かが弾けるような音が響いた。同時にピリッと片腕に痛みが走る。


「わっ、銃だ!! ごめんね、当たった?」
「大丈夫、掠っただけ……。えっと、ハッピー、さん?」
「ハッピーでいいよ。ていうか、オイラ名前教えたっけ?」
「あ、ごめんなさい。列車の時に呼び合っているのを聞いて。私はルーシィです」
「そっか、じゃあナツの名前も知ってるんだね」


 会話を交えながらひょいひょいと青猫、ハッピーが縦横無尽に宙を飛び回り銃弾を躱していく。随分手慣れている。弾が当たったのも最初の一回だけだし、人間を運べるなんて見た目より遥かに力持ちだ。
 いや、それにしてもすごい動くな。内臓が浮き上がるようなこの感覚は、前の世界の絶叫系の乗り物ととてもよく似ている。特にフリーフォールが苦手な人は、たぶん彼に運んでもらうのは無理だろう。間違いなく気絶待ったなしである。


「ね、ねえ、ハッピー! もしかして、ナツって人がさっき船に飛び込んだの?」
「うん、そうだよ。妖精の尻尾の名前を聞いたから、どうしても気になって」
「ふぇありーている……。あの、それより彼、列車でひどく酔ってたけど船は平気なの?」
「あ、」


 ぴたり、とハッピーの動きが止まった。
 そんな盲点だったみたいな反応をされても。「ごめん、ルーシィ」「え、なに?」「びっくりして変身解けた」「うん??」彼を見上げれば、先程までそこにあったはずの羽が綺麗に消えていた。刹那、再び落下の浮遊感に襲われる。重力に逆らい視界を舞う髪と、あっという間に近づいてくる海面。今度は咄嗟に息を止めた。
 ばしゃん! と、海水に勢いよく叩きつけられた体が痛い。隣で同じように落下してきたハッピーを逸れないうちに抱き留めて、少し遠くに見える海面を目指す。

 ああ、今日は水難の相でも出ているのだろうか。身も心も水浸しだ。しかも、鍵がキーケースごと水没してしまった。これが一番ショックである。防水加工が施されたキーケースはまだいいとして、鍵が錆びてしまわないか心配だった。魔法のアイテム故か、ちょっとやそっとでは壊れないらしいが、それはそれ、これはこれだ。
 新しい小犬座の鍵もあるというのに……。後で全部綺麗に拭くと心に決めた。


「ぷは……っ。ハッピー、大丈夫?」
「うぐ……、オイラは平気。ルーシィは?」
「大丈夫。それじゃあ、いくよ……」
「え、なにを?」


 首を傾げたハッピーを頭の上に避難させて、慣れ親しんだ一つの鍵を取り出した。
 もう何度も触れたことのある、彼女の鍵だ。きっと、この場面だったのだと思う。私が唯一、鮮明に思い出せるアニメの情景は。列車の中で懐かしい彼女との記憶を夢に見たのは、この瞬間が近づいていたからなのかもしれなかった。

 鍵を握りながら、そっと腕を前に突き出す。何もない空間、けれどもそこに鍵穴があるかのように。優しく鍵に魔力を込めると、静かだったはずの海面がざわつき、波を打ち始めた。それは、何かの出現を祝福、あるいは恐れるかのようで。

 さあ、どうかその、美しい姿を魅せて──。


「──開け、宝瓶宮の扉……アクエリアス!」


 もう間違えようもないほど、長い間繰り返してきた言葉。紡いだそれらに応えるように、波がうねり、そこから見慣れた人物が姿を現した。「すげーー!!!」と頭の上でハッピーが興奮している。
 空色の長い髪に水滴を纏わせた美しい人魚は、ふうと息を吐くと、こちらにじとりとした視線を送ってきた。睨む、とは少し違う。どちらかと言うと呆れたような色を含んだそれに、はてと首を傾げる。何かやらかしてしまっただろうか。


「おまえは相変わらず無鉄砲だな。鍵を落とさなかったことは褒めてやるが、少しは考えてから動け」
「ああ、そのこと……。でも、大切なものだから」


 ぎゅう、と彼女の鍵も含むキーケースを胸元で大事に握りしめると、「ふん」とそっぽを向かれてしまった。照れているのだろうか。指摘すると、張り倒されそうなので言わないけれども。
 緩みかけた口元に力を入れつつ、先程よりも離れた位置にある船を指差した。


「ね、アクエリアス。あの船を港まで押し戻してほしいの。お願いできる?」
「船だぁ? ああ、おまえが間抜けにも誘拐されたやつか……」
「押し戻すって、ルーシィ本気? ここ大海原だよ」
「うん、アクエリアスなら大丈夫」
「まあ、いいだろう。鍵の扱いもなってない野郎みたいだからな」


 灸を据えてやる。
 鋭い眼光で船を睨みつけ、そう言った彼女が大きく水瓶を振り上げた。刹那、どこから現れたのか、洪水のように溢れ出した水が海水と共に巨大な波を作り出す。自然ではあり得ないほどの力が加わったそれらが勢いよく船を押し流していた。
 ついでに、近くにいた私まで流されていく。いや、あれだけそばにいれば巻き込まれるのは仕方がないし、予想はしていたけれども。それより、あまりに水の勢いが強いので、港が半壊しないか心配なのだが。


「おい、ルーシィ。平気か」
「う、いたた……ついに溺れるかと……」
「軟弱なやつだな」
「返す言葉もございません……でも、ありがとうアクエリアス。おかげで港まで戻って来られた」


 少し半壊しかけているものの、押し戻されたのが砂浜だったからか、だいぶ被害は抑えられているようだ。彼女のことだから、そこもきちんと計算していたのだろう。
 流された衝撃でいつの間にか船の上に打ち上げられていた私の片腕を、ふよふよと宙に浮いているアクエリアスがそっと掴んで引き起こしてくれた。礼を言って立ち上がる。と、その際に何かに気づいたらしい彼女が青い瞳をすうっと細めた。そこに浮かぶ感情は怒りと心配、だろうか。


「アクエリアス? どうかした?」
「いや、別に。ただあのゲス野郎は海に落としておくべきだったかと後悔していた」
「??」
「それじゃあ、私は帰る。しばらく呼ぶな。一週間彼氏と旅行に行く。彼氏とな」
「そ、そう。うん、わかったよ。今日はありがとう。楽しんできてね」


 ひらひらと笑顔で手を振ると、口元を一瞬だけ、ほんの少しだけ緩めた彼女が背を向ける。
 そうして、すっと空気に溶けるようにして消えていく間際のことだった。「その怪我、ちゃんと手当てしろよ」小さな声だったけれど、しっかりと聞き取れた。え、と思った頃には彼女の姿は完全に消えていて。同時に思い出す。そういえば、先程掴まれた腕に怪我を負っていたのだったと。

 ああ、だからあの時。なるほど、どうやら心配してくれたらしかった。こんなもの小さな擦り傷でしかないのに。相変わらずわかりにくいけれど、性根はひどく優しい人だ。
 彼女の鍵をぎゅうと握って、大丈夫だよと囁くと、隣で伸びていたハッピーが「仲良いんだね」と肩に飛び乗ってきた。そう思われることが心底嬉しい。

 それと、本人には言わないけれど、私知ってるんだよアクエリアス。あなたが船を押し戻す時、私の周りだけ水の勢いを弱めに調節してくれたでしょう。そういうところが本当に大好きだよ、昔から。


♦︎


「さて、この事態をどうにかしないと……」
「ねえ、ルーシィ! 今の騒ぎを聞きつけて軍隊がやって来そうだよ」
「えっ、どうしよう……。いや、でもこれで他の女性達が助かるかもしれない」
「あい、ナツと合流しよう」
空間を繋ぐ魔法