▼ ▲ ▼


 ゆらり、ゆらりと体が揺れる。
 それは誰かに揺すられているような感覚ではなくて、もっと微睡みを揺蕩うような……。そんな、ゆったりとしたものだった。
 最近感じた列車のそれとも違う。背中に受ける衝撃も、木造の硬い座席の感触ではなくて、もっと柔らかな何かだ。

 薄らと瞼を開ける。目の前で天井からぶら下がった照明が揺れていた。キィキィ、と時折木が軋むような音がする。次いで、潮の香りが鼻腔を擽った。窓の外に見えるのは闇色の海。
 なるほど、どうやらここは船らしい。いつの間にこんなところに来たのだろうか。眉を顰めながら身を起こして、すぐに思い出した。


「(カフェであの男性に会って、それから……)」


 お会計を済ませた覚えはない。おそらく、何かを仕掛けられたのだ。しかし、一体どこで。特に不審な行動はなかったように思う……いや、待て。あの時。雑誌をやたら押し付けてきた時のこと。
 今思えば不自然にテーブルに片手が伸びていた気がする。それも小細工を隠すための行動だったと仮定すれば、何故だかとてもしっくりきた。今まで寝ていたことを踏まえると、大方睡眠薬でも盛られたのだろう。

 やってしまったな、と思う。けれども、すでに過去となったことを嘆いても現実は変わらない。
 この世界に来て、魔法というものを少なからず扱えるようにはなった。しかし、さすがに時を戻すような魔法は使えないのだ。そもそも、そんなものが使えたらチートすぎる。ただ、存在しないと言い切れないのが、こちらの世界の怖いところ。加えて、人々は魔法を本当の意味で特別とは捉えられていない。圧倒的な認識の差があった。故に、その辺にころっと時を操る魔導士が居ても何ら不思議ではない。

 全く、恐ろしいことだ。自分は未だに、魔法を扱える事実が信じられない時があるくらいなのに……。


「あれ? 服が……」


 よいしょ、と寝かせられていたソファから立ち上がる。その際に邪魔な長い裾が足に触れて、はてと首を傾げた。いつの間にかドレスに着替えている。どことなく見覚えのあるそれは、アニメでヒロインが着ていたものとよく似ていた。
 ……ほう? つまり、商品は綺麗に飾っておこうって魂胆か?

 なんて胸糞の悪い話だろう。
 勝手に着せ替えるのもどうかしているし、元々着ていた服だって返してほしい。沸々と怒りのようなものが込み上げ、しかし早々に考えるのをやめた。今はそれよりも、早くここから逃げなくてはいけない。


「やあやあ、目が覚めたのかい?」
「! どうも……随分とやることが手荒ですね? これは立派な誘拐ですよ」
「ふふ、嫌だなあ。パーティーに招待しただけさ」
「招待、ですか……」


 部屋にある唯一の扉から悠々と入って来たのは例の男性だった。
 よくもまあ、いけしゃあしゃあと。人が飲んでいた紅茶に勝手に睡眠薬を盛り、その上断りもなく船まで連れ去っておいて、それが招待とは面白い思考をしている。全く笑えないけれども。

 それにしても最悪のタイミングだ。なんとか逃げ出そうと思った途端にこれなのだから、監視カメラでも付いていたのではと疑ってしまう。


「どうしてそこまでして私を?」
「君ほどの上玉は滅多に拝めないからね。高く売れる物をみすみす逃しはしないさ」
「……」


 何故だろう。どうして裏の顔を少しも隠そうとしないのだろうか。
 ここが海の上で逃げ場がないからと油断しているのか、あるいはこちらが彼の正体を知っていることに感づいているのか。後者だとしたら一体いつ……?


「ようこそ、奴隷船へ」


 嫌な笑みを深めるその人を、じいっと睨みつけるように観察する。警戒して一歩下がると、「やっぱり……」と彼が目を細めた。


「君、魅了チャームも効かないし、何故だか知らないけど、僕の企みを最初から知っていたね?」
「!」
「あからさまな態度に、“奴隷”って言葉まで使ったのに全然驚かないしさあ……」


 ごくりと無意識に息を呑む。まさか、最初から疑われていたなんて。言われてみれば、初対面の人物に対して示す警戒にしては、異様と言う他なかったのかもしれない。彼はどう頑張っても、こちらがその知識を“アニメで得た”などという、文字通り次元が違う答えには辿り着けないだろう。しかし、その不自然さは懐疑心を煽るには十分だったのだ。
 対応を間違えたなあ……。とはいえ、犯罪者を前に冷静でいろというのも難しい。変なことを口に出さなかっただけ上手くやった方だと思いたい。


「(せめて、鍵が手元にあれば……)」


 そっと、バレないように腰に触れる。そこにあるはずのいつもの感触はやっぱりなくて。どうやら、着替えさせられた時に奪われてしまったようだ。
 必死にアニメを思い起こす。この後の展開が知りたかった。が、実際に脳内に浮かぶのは同じシーンばかり。だめだ、肝心なところは思い出せない。最終的に、この事態が主人公の手によって収束するのはわかっている。それは絶対の自信があるものの、その過程が朧げだった。私はその間どうすればいいのだろう。

 ヒロインの行動を思い出せるとしたら一つだけだ。青の人魚──アクエリアスを呼び出す、あのシーンくらいだった。


「(それも、鍵がないとなあ……!)」


 ジ、エンド。八方塞がり。お手上げ状態だ。
 鍵を返して、と頼んだら素直に返してくれたりしないだろうか。いや、無理だよね知ってる。そもそも、目の前のこの人と関わりたくない一心でヒロインと違う行動をとったと自覚しているから、今後の展開がアニメ通りに働くかどうか怪しいところである。
 まあ、その記憶も曖昧なので、アニメ通りだろうとそうでなかろうと確かめる術はないのだけれど。


「さて、それじゃまずは奴隷の烙印を押させてもらうよ。ちょっと熱いけどガマンしてね」
「!? ちょっと、なに、離して……っ!」
「へへ、ほんとにこりゃあ上玉ですねえ」
「さすが、火竜さんです」


 なんか人が増えたんですけど!! どこから出て来た!?
 いつの間にやら増えていた二人組に、後ろからぐっと腕を掴まれて身動きができなくなってしまった。力一杯抵抗してみるものの、さすがに大男には敵うはずもなく。

 かなりの高温で熱された烙印がじりじりと近づいてくる。ジュゥ、と嫌な音を立てるそれを絶望して眺めるしかなかった中で、ふと男性の動きが止まった。「そうだ。これ君のだけど、もう要らないよね」懐から取り出されたのは、ずっと前から見慣れている一番大切なもの。


「わ、たしの鍵……!」
「珍しい魔法を使うよね。星霊だなんて。まあ、契約者以外には使えないから、僕には必要ないんだけど」
「っ……!」


 そう言って、ぽいっと。
 まるで、ごみを捨てるかのような動作で。何の躊躇いもなく。呆気なく放り捨てられたキーケースが、緩く放物線を描いて窓の外へと向かっていく。
 その時間が何故だかものすごくゆっくりに思えた。スローモーションの映像を見ているような感覚の中で、声を出そうとしても上手く言葉にならなくて。

 ああ、ああ。だめなの、だめなんだ。あれだけは、失くしちゃならない。絶対に。失くしたくない。お願い、離れないでほしい。

 あれは、みんなは私の、大切な……一番の宝物しんゆうだから──!!


「あ! おい待てっ!!」
「何してやがる!!」
「馬鹿、逃すな!!」


 無我夢中だった。大人しくしていた私に油断したらしい二人組の拘束を、ここぞという火事場の馬鹿力で振り切り全力で駆け出す。そうして、今まさに打ち捨てられたキーケースを追いかけて、力を込めて窓枠を蹴った。
 暗い海面へと落ちて行くそれに目一杯手を伸ばす。届け、届け……! そうひたすらに願って、ようやく指先が触れた。

 掴み取ったその瞬間、安堵する暇もなく、私は重力に従って真っ逆さまに海へと落ちたのだった。


♦︎


「あ、あの女、海に落ちましたよ!?」
「ど、どうしますか……!?」
「おまえらが油断するからだろ!?」
──バキッ、ドカァン!!!
「!!??」
私の宝物