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「バカー!!!」
「おふっ」


 泣き叫んだ子供のやり場のない怒りの拳が、唐突にマスターを襲った。顔面ど真ん中の容赦のない右ストレートは、巨人化を解いた普段の姿だという小柄な老人を軽くはっ倒す。そうして、あろうことかカウンターに伏す老人には目もくれず、男の子はぐずぐずと鼻をすすりながらギルドの出入り口へと走り去って行く。

 木の床を一部染める点々とした涙の跡。年齢に似合わず哀愁を背負う後ろ姿。それらを見つめ、呆然と目を瞬く。一連の怒涛の流れに完全に置き去りにされていた。なんだろうかこの、見てはいけないものを見てしまった感は……。ここのギルドの関係者は血の気の多い奴しかいないのか。
 なんとか理解を追いつかせようと震える指で絶賛出ていく途中の彼の背を示しながら、老人とその子供とを交互に見やり、それから隣に座るミラさんに向けて声を潜めた。


「な、何事ですか、あれ……」
「ああ、あれはちょっと問題が起きててね。あの子の父親……マカオっていうんだけど、彼が仕事に出てから一週間も帰っていないのよ」
「い、一週間……!? あんなに小さい子を置いてですか?」


 驚いた。ギルドで請け負う仕事はそんなにも長期のものばかりなのだろうか。魔導士であることが前提の仕事など、受けたことのない自分には想像もできなかった。精々持ち合わせたイメージと言えば、“魔法を他者のために使おう!”といった概念的な予想のみだ。
 これがあまりに忙しく、ただ単に家に帰る暇がないというだけの理由だったのなら、どこの世界にもブラックは存在するのだと笑えもしただろう。けれども、曇る彼女の表情に事態がそう単純ではないことを悟った。


「ったく、ロメオのやつめ。うちには自分のケツも拭けねえ魔導士はいねえってのに」
「……ああやって、厳しいことを言っているようだけど、本当はマスターも心配してるのよ」
「あの、私に口を出す権利はないとは思いますが……その、探さないんですか? 捜索願いとか。もしかしたら、仕事先で何かトラブルがあったのかもしれませんし」


 おずおずと訊ねた素朴な疑問に、しかし彼女は苦く首を振った。曰く、何の連絡もない現段階では仕事続行中と見做されるため、下手に手出しができないのだとか。つまりは、救助要請のないところへは、どう頑張ったって人は助けには行けないということだ。
 とはいえ、それを待っていては手遅れになる可能性だってある。連絡ができないような最悪の状況が起こっていないとも限らなかった。私でも思いつくそれを、まさかギルドメンバーが想定しないはずもなく、それぞれが彼を気にしては思い思いに言葉をこぼしている。


──ドンッ!!


 どんよりとした空気に包まれた最中、突然に割って入った騒音に反射的に肩が跳ねた。慌ててそちらを見やると、ここに来ることになったきっかけの桜色がタイミングよくくるりと身を翻す。「おい、ナツ! リクエストボード壊すなよ!」咎める声、ぱらぱらと粉微塵になったボードの一部。
 ふと風に舞ったそれとめり込んだ依頼書(おそらく)を見て、彼が破壊音の正体だと気づいたが、相変わらずの怪獣要素にちょっぴり引いた。おおよそ普通の人間は素手で壁を壊したりしない。というかできない。


「マスター、ナツの奴ちょっとヤベェんじゃねえの? アイツ……マカオを助けに行く気だぜ」
「これだからガキはよォ……」
「んなことしたって、マカオの自尊心が傷つくだけなのに」
「放っておけぃ。進むべき道は誰が決める事でもねえ」


 騒つくメンバーの声を、殴られた衝撃からいつの間にか回復していたマスターが一言で諫める。呑気にも煙管を咥えた彼はその言葉の通り、今にも出て行こうとしている桜色をちっとも止める素振りはなく。「待ってよ、ナツー!」と、唯一追い縋ったのはてけてけと懸命に駆ける青猫のみだった。
 ナツ、と放たれたら止まることを知らない鉄砲玉のような彼の名を呟き、心配げに顔を顰めるミラさんにきゅっと心臓が締め付けられる心地がする。きっと、彼女だってマカオさんの安否が気になるのは同じはずだ。前者と違うのは、それでもなお規定や仲間同士の暗黙のルールを守らんとする、そんな真面目さが行動をとどめている点だろう。

 彼女から視線を逸らし、代わりに扉の外の闇夜に紛れていく背中を眺める。
 人懐っこい笑顔を浮かべていたあの時とは違い、ほんの少し近寄りがたい雰囲気を纏っていた。この場合、冷静なのはミラさんやマスター、その他のギルドメンバーの方なのだろう。けれども、だからと言って鱗柄のマフラーを揺らすその人が間違っているとも思えなかった。


「……ルーシィ?」


 不意に立ち上がった私に、隣から怪訝そうな声がかかる。何の脈絡もなく動き出したのだ。そういう反応にもなるだろう。それだけ今の自分は、彼女達のようには上手く冷静になれていなかったのかもしれない。
 目の前の机に両手をつき、顔を俯ける。表情を髪で隠して、一瞬だけ堪えきれない苦笑をこぼした。原作彼らと関わることに怖気付くくらい前向きではないくせに、自らそこへ飛び込もうとしているなんて。それが、ちっとも賢明な考えではないことを自覚しながら、それでも何かに突き動かされていた。


「……あの、すみません。急用ができたのでちょっと失礼します」


 小さく息を吸ってから顔を上げ、そう言って意識して微笑みかける。もう一度飲み物の礼を伝え、そそくさとその場を離れようとすると、面食らっていた彼女が我に帰ったのか慌てて引き留めてきた。


「ま、待ってルーシィ! まさかと思うけど、ナツについて行くつもり……? ダメよ、ギルドの問題に巻き込むわけにはいかないわ!」


 この場にいたのが本物のヒロインなら“放っておけないから”と、それだけの理由で、無条件に手を貸していたのだろうか。
 そう思いながら、そっと顔だけで振り返る。残念ながら私は、そんな可愛らしく真っ直ぐなヒロインではない。ないのだが、本気で“今この場に居る者”を想い、留めようとしてくれている彼女の目を見たらおかしくて……嬉しくて。ふっ、と思わず吹き出すように笑う。ここに来て初めて本当の意味で気の抜けた瞬間だった。


「いいえ。これはあなた方の問題ではなく、私の問題なんです。“私が”そうしたいから、そうするんです。どうか、気になさらないでください」


 そう、これはギルドに加入するかどうかの話ではない。それとは別に、他でもない自分自身が気になるから行くのだ。本来どんな道筋が用意されていたのかは永遠にわからないだろうが、そんなのは知ったことではない。
 例えば、あの子供の涙を見なかったことにしたとして、今夜の宿で罪悪感に塗れて眠れなくなることの方が大問題である。そして、あの主人公らしい行動力を持つ彼に、ちょっとした借りがあるのも理由の一つだった。

 ミラさんは驚いたように目を丸くしていた。何かを言いかけて、やめる。そっと呑み込んだその先は知り得ないが、代わりに小さく「ありがとう」と囁いたのが聞こえた。優しい声音だった。思わずこぼれ出たような、そんな色をしていた。少し気恥ずかしくなったのは、それを受け取れるほど立派な理由ではなかったからだろう。
 適当に誤魔化して今度こそ去ろうとすると、ふと切り替えるようにわざと明るくした調子で彼女が助言をくれた。唐突に飛び出した謎のアドバイスにひとまずは頷いたものの、結局目的地に辿り着くまでその意図を理解することはできなかったのだった。


♦︎


「ええ!? お客さん、こんな真夜中にハコベ山へ行くんですかい? 夜が明けちまいやすぜ」
「なあ、ハッピー。やっぱ馬車はやめよう……うぷ」
「あい、乗る前から酔ってるね。でも、距離的に自力はどう考えても無理だよ」
「あ、あのっ……! はあ……私も、乗せて、ください……」
「「ルーシィ!?」」
他の誰でもない