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 轟々と山を襲う猛吹雪。目の前の白く染まった光景に、それを間近で見せられた頭の中も真っ白になるようだった。

 寒い、ただただ寒い。そして痛い。冷たい。冷気が身に突き刺さってくる。予想だにしなかった出来事に直面すると、人は考えることをやめるらしいとはよく言ったものである。
 客室の戸を開けた状態のまま固まる私を、不可思議なものを見るように一人と一匹が振り返った。置いてくぞ、と言外に言われている気がして、ようやく思考が戻る。そうして、今にも吹き荒れる雪道を進まんとするナツの腕を、ぐっと力一杯に引き戻したのは咄嗟のことであった。


「待て。待て待て待て」
「うおわっ……!?」
「ど、どうしたのルーシィ?」


 どうもこうもないわ。
 あな、あなた達、なんでそんな平然とホワイトアウト寸前の雪の中を進む気満々なの? その上半身ほぼ裸体のような軽装で行く気か? ハッピーなんか服も着てなくて相当寒々しい。毛皮があればいいってもんじゃないだろうが。死ぬわ普通に。どういうことなの、マジで。

 降りたばかりの客が再び乗り込むのを背後で感じ取ったのか、馭者が「お、お客さんー!? 降りないんすかー!?」と戸惑いに声を張り上げていた。こちらはかなり動揺していたので、ちょっと時間をくださいお願いしますといった内容を早口に捲し立て慌てて戸を閉める。
 この猛吹雪の中で待たされる馭者が、文字通り死ぬほど可哀想だったというのは後になって気づくことであった。正直すまなかったと思っている。本当に申し訳ない。

 とりあえず外からの冷気と風圧と、容赦なく吹きつけられる塊が防がれて、心の底からほっと息をついた。この短時間で頭や体に雪が降り積もるなんて、一体どこの豪雪地帯まで来てしまったのか。前の世界では雪が降ればテンションが上がるほどに珍しい現象だったのに、ここまで大荒れだともはや白銀に感動すら巻き起こらないとはなあ……。
 そもそも今の季節は真夏のはず。大寒波とかそんなレベルではないだろう、これは。


「な、なにすんだよルーシィ……馬車に引き戻すとか、鬼……うぷ」
「大丈夫だよ、ナツ。今は動いてないから」
「お? 言われてみりゃそうだな。さんきゅ、ハッピー」


 突然に腕を引いたせいで崩れるように床に寝転んでいたナツが、その肩に乗っていたハッピーの声によってすぐさま生気を取り戻す。
 むくりと起き上がりその場で胡座をかくと、今度はこちらをじとりと睨めつけた。下からひしひしと突き刺さる視線に急に引き止めてしまった申し訳なさを感じながら、悴んだ指先で自身の肩に乗っていた雪を払い落とすことでそれを凌ぐ。脳内に浮かぶ大量の疑問をなんとか整理して、とりあえず諸々の説明を聞くべきだと座席に腰を掛けようと目を向け、やめた。先程の吹雪が室内に入り込んで濡れてしまっていた。

 うわ、と思わず声を漏らす。手で払い抜ければ座れそうなものだが、下がる気温に体温が奪われ、それ以上行動する気にもならなかった。できれば雪溶けで服が湿ってしまうのも避けたい。そう思いながら、はっとした。
 決して忘れていたわけではないけれど、混乱していたせいで後回しになっていたナツにごめんと慌てて手を差し伸ばす。無理に引き戻したために、彼が今もなお座っている床は座席なんかよりもよっぽど雪塗れだった。元々座るようなところでもない上に、今の状況ではさらに冷えてしまうだろう。悪いことをした。


「ごめん、二人とも……ちょっとびっくりして。本当にここが目的地なの? 夏に雪が降るなんて珍しい地域なんだね……」
「はあ? おまえ、依頼内よ──」


 “ないよ”? ないよ、ってなんだ。
 ちょうどこちらの手を掴んだタイミングで、何故か彼が言葉を止めた。形の良い眉がぴくりと動いたような気がする。首を傾げ、その言葉を復唱しようとした時だった。

 ぐいっ、と手を引かれ、否応なく前に倒れ込んでいく。突然のことで声を出す暇もなく、ただ目を丸くしてされるがままにそこへ膝を落とす。必然的に目の前に近づいた彼の吊り上がった双眸に息を呑むと、倒れ掛かる体を予想していたようにもう片方の腕で肩辺りを支えてくれた。
 が、しかし。こちらは意味不明で思考が追いついていないので、呆けてぱちぱちと瞬くことしかできずにいると、ふと彼が「冷てえ」と呟いた。お、おう。そりゃあそんなところに座り込んでいれば寒いだろうよ。私もたった今、床に接触した膝がとても冷たいもの。


「う……? うん、だから立ち上がった方がいいかなと手を出したんだけど……?」
「ちげーよ。オレじゃなくてルーシィだ」
「え?」


 言われて気づく。未だに繋がったナツの手と肩に触れたもう片方の手はとても温かくて、こちらが心配する必要もないくらいに体温が高いことに。
 これはすごい。まるで冬にしゃかしゃかと振って暖をとる、あの小型アイテムのようだ。子供体温とかそんなものではなく、おそらく彼が炎を操る魔導士だからこその温かさなのかもしれない。そう思ったら滅多に見ることの叶わない雪よりも感動した。


「で、おまえは依頼内容を知らねえでついて来たのか?」
「ああ、“ないよ”って内容のことか……」


 小さく呟きながら頷いて肯定する。
 事の顛末は大方聞いたが、行方不明者がそれまで何をしていたかの詳細までは知らされていない。どこかの誰かさんが早々に飛び出して行ったから、それを聞くほどの時間もなかった。確か、連絡もなく何日も家に帰っていない、という話だったはず。「それってつまり、何も知らねえってことだろ」まあ、まずその認識で間違いない。

 訝しげな表情を深める彼に先の説明を求めながら、ふと視線を下に向ける。
 そういえば、何故未だに手を握ったままなのだろうか。がっしりと絡みつく一回りも大きな骨張ったそれを疑問に思いながらも、深く考えることはせず、これ幸いともう片方の手を加えぎゅっと両手で握り返す。ちょうどいいから、その熱を分けてもらおうではないか。気分はさながらアイドルの握手会のようだった。


「マカオは一週間くらい前から仕事に行ってる。依頼はハコベ山に生息するバルカンの群れの討伐だ」
「ばるかん? の、とうばつ?」
「バルカンは凶悪モンスターって言われている獣だよ。討伐は文字通り、戦って倒すこと。最近になってバルカンに襲われる被害が増えてきたから、ギルドに依頼が来たみたいだね」
「モンスターの討伐……? え、マカオさん狩人か何かなの?」


「魔導士だ」「魔導士だよ」即座に声を揃えて返された。そうか。うん、ちょっと待ってくれないか。想像以上に理解の範疇を超えていて頭が破裂しそうなのだが。
 え、凶悪なんて物騒な形容詞が付けられた獣の討伐にお一人で向かったの? どう考えても危険すぎるわ。どうしてそうなった。この馬車に乗り込んだ時点で山に向かっているとは聞いていたが、てっきり何らかの採取系の依頼だと勝手に推測していた。はい、見事に大はずれです。絶望した。最初からクライマックスかよ……。

 沈む気持ちのまま思わず額に手を当てると、そこはお風呂上がりのように温まっていて驚愕する。冷え切った肌にぬくぬくと熱が移ってゆく。ほう、と意識して呼吸を整え、思考を落ち着かせた。
 別に後悔などしてはいない。ただ思ったよりも状況が最悪で、不安が助長されただけだ。これほどの猛吹雪と単身で挑んだことの無謀さ。マカオさんがどれだけの実力者なのかは知らないが、無事でいたとしても遭難の危険性がある。とにかく、早く探さないと手遅れになってしまうかもしれない。いや、もしかしたら、もうすでに──。


「でも、ルーシィ。それだけ何も知らなかったのに、よく防寒具なんて用意できたよね」
「え? ああ……それはミラさんが持って行った方がいいって」
「ミラが?」


 自分で二人を引き留めたくせして、捜索を急がなければならない理由に思い至って自己嫌悪していると、徐にハッピーが座席に置いていたコートを引きずりながら持ってきてくれた。厚手の生地にフード付きのそれは完全なる冬物だけれど、ギルドを出る前に告げられたアドバイスに従って持ってきた物である。まさか真夏に出番があるとは思わなかったし、彼女の発言にも“いやそんな馬鹿な”と正直思っていた部分があるのは秘密にしておく。
 しかし、実際はどうだ。これなしでは間違いなく凍死していただろうから、無事に帰れたら一言お礼を伝えに行かなければ。


「……ふうん、そうか。ミラがわざわざ持って行けって言ったんなら、おまえの同行を許したってことだろ」
「確かに。コレなかったらルーシィはここでお留守番だったかもね」
「いいか、ルーシィ。これは遊びじゃねえんだ。本来ならギルドメンバーでもないおまえが関わるべきじゃねえ。でも、それでもここに来た理由があるんだろ。だったら、こんなところで凍えてないでさっさとマカオ探しに行くぞ」


 もう充分あったまっただろ。そう言って、自然と離されたナツの手が、ハッピーの持っていたコートを拐い、ふわりと包み込むように肩にかけてくれた。すっぽりと頭を覆うフードの上からぐりぐりと撫ぜつけられる。狭くなった視界が僅かに揺れて、解放された自分の手を茫然と見つめた。
 遊びじゃない。関わるべきじゃない。と、そう言いながらも、言動が拒絶のそれではなくて俄かに混乱する。


「マカオ見つけて、みんなで帰って、そんでもって今度こそギルド入れよ」


 二度目の勧誘だ。頭が上手く働かない。
 どこか現実味がなくて、熱に浮かされたみたいに曖昧なのはきっと、体が布団に包まれているかのように暖かいからだ。そろそろと声に導かれて顔を上げると、「な!」と嫌味なく笑う桜髪の青年と、いつの間にかその肩に乗って「うんうん」と頷く青い毛並みの猫がいた。

 ギルドに入らなかったことはハッピーにしか話していないのに、乗り物酔いで気絶したかのように思われて、その実またもや聞かれていたらしい。肩から落ちそうになるコートの端をぎゅっと握りしめながら、少し前の既視感にそっと笑みを返した。上手く笑えてはいないだろう、と思う。
 だって、私には。まだその問いに応えるだけの自信が、備わっていないのだから。


♦︎


「ところで二人とも、もう我慢できないから言わせてもらうね」
「急にどうしたハッピー?」
「なあに?」
「できてるぅぅぅ」
「「???」」
「う、嘘だ!? ナツはともかくルーシィまでそっち系なんて……!!」
「そっち、とは……??」
不意の熱を