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 リテイクだ。脳内でそんなふざけたことを考えながら、少し前と同じように客室の戸に手をかけた。ほんの僅かでも気を紛らわせていないと、なんだか気持ちで負けてしまいそうだったから。
 ぐっと腕に力を入れて風圧に逆らう。途端に先程と寸分変わらぬ光景が目に映った。轟々と荒れ狂う猛吹雪。吹き荒ぶ激音が鼓膜を大きく刺激する。視界はすこぶる悪く、遠くまでは見渡せない。降り立ったそこには、あらゆる五感を殺すような自然の脅威が待っていた。

 冷たいを通り越して肌が痛い。ミラさんに防寒具を持って行けと助言をもらったは良いが、それがほとんど意味をなしていないのではと思うほどに寒すぎる。直前にナツから分け与えられた体温ですら、自身を取り巻く極寒にどんどんと吸われていくようだった。きっと遭難なんてしたら問答無用で死が訪れるだろう。
 最悪の想定を振り払おうとぎゅっと目を瞑ると、油断したせいか隙ありと言わんばかりにフードを強風に攫われた。頭に次々と降りかかる冷たい塊に慌てて端を掴み被り直す傍、ふと足元をころころ転がっていく青い塊が見えた。一瞬何かと訝しげに目で追い、ぎょっと血相を変えて飛びつく。

 信じられるだろうか。雪に塗れたハッピーだった。


「あぁぁぁれぇぇ〜……」
「ちょっ……え、ハッピー!?」


 なんでそうなった!? ナツはどうした!?
 フードがまたもや頭から離れたが、それも気にせずに雪だるまになりかけている青い猫を必死に捕らえた。そのままこれ以上吹き飛ぶことのないように、と力強く胸に抱き留める。むぎゅう。蛙が踏み潰されたような声をあげたハッピーが、もぞもぞと身動きして腕の中で顔を出す。


「ふぅ……ありがとう、ルーシィ。助かったよ。もうちょっとで雪玉になるところだった」
「本当に気をつけてね……こんな吹雪じゃ見失ったら終わりなんだから。というか、ナツはどうしたの?」
「あそこ。肩に乗ってたら吹雪で吹っ飛ばされちゃったんだ」


 小さな指先で示された方向を向くと、彼は馬車の前方で馭者と何かを話している様子だった。耳を澄ませてみるものの、聞こえるのは暴風の音ばかりで会話は上手く聴き取れない。それほど距離が離れているわけでもないのに。吹雪がこんなにも恐ろしい現象だなんて初めて知った。
 いつの間にかコートの胸元に潜り込み暖をとっているハッピーを連れながら、渋々そちらに足を向ける。協力すると決めたからにはもう進むしかない。しっかり収まる青猫に関しては多少動きづらいが、また吹き飛ばされるよりは随分と良いだろう。それに何より、動物の体温がとても暖かかった。


「お、ハッピー。無事だったか!」
「ナツ〜! 酷いよ、なんで助けようとしてくれなかったのさ」
「だって、そっちにはルーシィがいたろ。助けてくれると思ったんだよ。見捨てたわけじゃねえ」


 いや、それはさすがに買い被りすぎではないか。視界が良くないせいで危うく見逃しかけたのだが。報告することでもないので黙っておくけれども。
 言い合う二人を横目に馭者へと顔を向けると、彼は非常に居心地が悪そうに口ごもりながら目を逸らした。


「悪いな、嬢ちゃん。この吹雪じゃあここで待機なんてできっこねえから、そこの兄ちゃんに言われた通り俺は先に帰らせてもらうぜ。帰りは自分達でなんとかしてくれや……すまねえな」
「あ、あ〜〜……! それはそうですよね! こちらこそ、先程はこんな天候の中で待たせてしまってすみません……!」
「いやいや、たった数分だったからなあ。気にせんでくれ」


 それじゃあ、気をつけてな。そう言って馬を撫でていた馭者が馬車に戻って行く。帰路の心配がないと言えば嘘になるが、ここで待ってもらうのはきっと無理だろう。遭難者が増えるだけだ。最悪凍死する。
 引き留めるわけにもいかず、その背にお礼を告げてナツを振り返ると、あろうことか彼はもうすでに先へと進んでしまっていた。す、少しは待ってほしい。マカオさんを早く探したいのはわかるけれども、朧げな影が今にも雪に掻き消されてしまいそうで焦る。早く追いかけなくては。自分達まで彼と逸れるのはまずい。

 そう思って一歩を踏み出した時だった。

──ズシン。


「なに、今の……何の音? ハッピー、聞こえた?」
「うん、なんだろうこれ……地響き?」


 地震、だろうか。
 規則的な重い音が暴風に紛れて遠くの方から響いてくる。先程までは聞こえなかった明らかに異質なそれに、思わず立ち止まって辺りを見回した。警戒して注意深く探るものの、やはり視界不良でこれといった変化は見つけられない。あるのは腐るほどの雪、雪、雪だ。

 こんなところで仮に雪崩れなんて起きたら洒落にもならないだろう。けれども、音の原因はわからず、諦めて今もなお離れていく背中を追おうと歩みを再開させた。そうして、ふと気づく。音が止んでいる、と。何か変だ、やけに不自然ではないか。
 瞬間、ぞわりと得体の知れない恐怖が一気に足元から這い上がった。踏み締めるように雪を掻き分けていた動きをまた止めて、先を行く彼の名を叫んだのはほとんど無意識だった。


「ナツ、待って……! 何かおかしい──っ!?」
「ルーシィ!! 上だ! 危ない避けてっ……!!」


 切羽詰まったように鋭く声を荒げたのは、未だ胸元から顔を出すハッピーだった。
 ゴゴゴ、と何かの重低音が先程と比べ物にならないほど近くで聞こえる。それと、ドンッと地を蹴ったような音も。ハッピーの視線を慌てて追うのと、いくつかの影が頭上から降ってくるのはほぼ同時のことだった。

 視界に映る巨大な獣と、大量の雪の塊。やけにゆっくりと流れていくその映像に、頭の冷静な部分がどうやら獣が踏み荒らしたせいで雪崩れを起こしたらしいとあたりをつけた。しかし、それが今、この一瞬。一体何の足しになるというのだろう。


「女の匂い、人間……見つけた〜〜!!」


 意味のわからない言葉を発する獣に、何故喋れているのかという疑問をすっ飛ばして咄嗟に胸元を抱きしめて小さく蹲った。これで守れるはずもないけれど、せめてハッピーだけは……!
 痛みに耐えるようにぎゅっと強く目を瞑る。


「──ルーシィっ……!!」


 刹那、眩い光が瞼の向こうで弾けた。
 何かを殴りつけるような鈍い音に、肌を撫でるこれ以上ないほどの熱。焦燥と怒気が混ざった鋭い声が鼓膜を叩く。それから、間髪入れずに爆音が轟き、なんだかよくわからない内に体が吹っ飛ばされた。僅かな浮遊感の後、ごろごろと雪の上を勢いよく転がって、やがてぽすりと埋もれる。
 地面が柔らかな雪でよかった。これが硬いコンクリートだったなら、今頃は全身擦り傷だらけだっただろう。


「……ナツ、」


 全身の鈍い痛みと不快な耳鳴りを堪えながらそうっと瞼を押し上げて、ようやく状況を察した。こちらに背を向けている彼の名を小さく呟く。
 ゆらりゆらり、と陽炎のような蒸気を纏うその姿はまるで炎そのもののようで。奥に見える獣の像が、ほんの少しだけ揺らいで見えた。周囲の温度さえ、暖かいを通り越していやに熱く感じられる。確か、彼が魔法を扱う姿を見るのは、これで二度目だったか。きっと、何度見ても慣れやしないだろう。人間が炎を纏う姿なんて。

 不意にナツが肩越しにこちらを振り返った。まさか、吐息にも似た囁きが聞こえたというのだろうか。
 雪の上で倒れたままに呆けて揺らめく赤色を見つめていると、さっと何かを探すように辺りに視線を滑らせた彼とぴたりと目が合った。それから、僅かに目線を下げる。たぶんハッピーを確認した。かと思えば、すぐにその視線は逸らされ、彼は再び凶悪な表情を浮かべる獣と対峙して勢いよく懐に飛び込んで行った。


「い、たた……」
「ルーシィ、大丈夫?」
「うん、思ったより平気……雪がクッションになったみたい。ハッピーは?」
「あい! オイラは元気です」


 会話を交わしながら、ぱたぱたと雪を払い落としていく。地面の積雪は横たわっていた形で凹んでいて、少しおかしかった。間違いなく、こんな状況で考えることではないのだけれど。


「それにしても、さっきは危なかったね。ナツが助けてくれてよかった」


 辺りが暖かくなったからなのか、もぞもぞとコートから出てきたハッピーが何故か誇らしげに胸を張る。その台詞に今更はっとさせられた。
 助け……そうか、今のは助けてくれたのか。ああ、だから戦闘の最中に気遣う視線をわざわざくれたのだ。考えるまでもなくすぐに理解できそうなものなのに、随分と当惑していたらしい。だって、まさか上空の崖から獣が襲ってくるとは思いもしなかった。その上、爆発(?)に巻き込まれるだなんて誰が想像できようか。


「おい、嬢ちゃん! 大丈夫か?」
「あれ、馭者さん……? 帰ったんじゃ……」
「いや、帰ろうとしたら今の爆発だよ。びっくらこいてそれどころじゃねえって」


 血相を変えて駆け寄ってきた馭者が傍に膝をつき、未だ雪の上で座り込んでいたのを助け起こしてくれた。お礼を言うと、彼は神妙な面持ちで浅く顎を引く。激化する争いを見やり、その緊張からか表情が強張っていた。額に汗が滲んで見えるのは、果たして周囲の熱気にあてられたせいなのか、それとも。
 目の前で一進一退の攻防を繰り広げる一人と一匹を見据え、こちらはいつその一端が飛び火してくるかと不安を抱えながら息を潜めるしかなかった。


♦︎


「結局、今のは爆発だったの……? もしかしてナツの技みたいなやつ?」
「え? なに言ってるのルーシィ。ナツは炎を扱いはするけど、爆発なんて普段は起こさないよ」
「え??」
「たぶん、この天候で冷やされた空気があの瞬間、一気に熱されて膨張したんじゃないかな〜?」
「えっ……」
「おいおいおい、今のがただの二次災害って言うのかよ。猫ちゃん冗談キツいぜ」
「冗談じゃないよ、今までも何度かあったから」
「」
「ああ! 嬢ちゃんが固まっちまった!」
銀世界と赤