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「ね、ねえ、あの獣はなんなの? 猿にしてはやけに大きいよね……?」
「あれがバルカンだよ。マカオが討伐に向かったモンスター」
「えっ、あれが??」


 思ったより化け物染みてるんですが、それは。

 こんな巨体を討伐しろなんて依頼が本当にあったというのか。人間一人でどうにかしようなど土台無理な話だろうに。いくら魔法が使える世界とは言えども、あんまりな状況に思考を放棄して石化する私の隣で、ハッピーはじっとバルカンと戦うナツを見守っていた。
 火の粉がちらちらと舞って、時折彼の表情を照らす。丸い瞳に映るのは生き物のように唸る炎で、浮かぶのはそれを扱う相手への信頼だった。


「さっきの地響きの正体はあいつだったんだよ」
「そう、みたいだね」
「っおい、なんかよくわかんねえけどよ、嬢ちゃんも猫も呑気に話してる場合か! とにかく離れねえと巻き込まれるぞ……!」


 不意に馭者に腕を引かれて、ぼんやりとしていた脳内が晴れた。あ、危なかった。意識がおさらばして、物言わぬ人形にでもなるところだった。前の世界には当然存在しない生物だから、まるで白昼夢でも見ているような気にさせられていた。
 頭を振って思考を切り替える。今はただ、ナツの邪魔をしないようにこの場から離れることが得策だろう。自分にあの攻防の隙を縫うなんて芸当はできないし、一般人らしき馭者を巻き込むわけにもいかなかった。連れられるままに、大人しく後を追う。足元の雪は数分前と違って、ほんの少し溶けて滑りやすくなっていた。辺りの熱気にやられたのだろう。

 そういえば、容赦なく肌に当たっていたはずの吹雪も弱まっている気がする。降り注ぐそばから溶けているのかもしれない。通常ではあり得ないその現象が、天候を自在に操っているかのようで。キラキラと氷の粒が光り、積雪が反射して、その間を炎が踊る。暴力的な熱量とは裏腹に、どこか幻想的な光景は奇跡みたいに思えた。
 けれども、彼との距離が遠くなればなるほど、周囲の熱は和らぎ、また極寒が襲ってくるのだから現実はままならない。熱源があろうと、さすがに天気が晴れるわけもないのだ。彼の恩恵はどちらかと言うと、暖房器具のそれに似ている。


「──うおっ!!?」
「!?」


 突然だった。
 辺りに響いた聞き覚えのある悲鳴が、ぎしりと三人の身を固まらせる。間違えようもなかった。だってこの声は、たった今思いを巡らせていたナツのものだから。

 あと数メートルで馬車まで後退できるというところで差し迫る危機に、嫌な予感が背筋を這う。反射的に振り返った。双方にそれほど力の差があったようには見えない。少なくともナツの方が押し負けていた、なんてことはないはずだ。なかったはず、なのだ。なら、今のは一体……。
 港の一件でいくら強いことを知っていようとも、彼だって一人の人間だ。それなのに、凶悪と名の付いた化け物の相手をさせるなんて、ひどく浅はかだった。彼に何かあったら、例えば取り返しのつかない怪我でもしてしまったらどうしよう。

 果たして、半ば泣きそうになりながら反転させた視界に映ったのは、遠くに放り出されたナツの姿だった。
 投げられたのか、弧を描くように宙を舞っている。その体が深い積雪に突っ込むのと、気持ちの悪い笑みを浮かべた化け物と目が合ったのは同時のことだった。人間ではないくせに、いやに下卑た瞳に身の危険を感じて無意識に一歩下がる。

 彼の安否を確かめようと咄嗟に見やった先に、けれども炎は見えなかった。まるで、命の灯火まで消えてしまったようで、ぞっとする。縁起でもないことを考えて心臓がひやりとしたのは、何も熱源を失って元通りの荒れた豪雪になってしまったことだけが原因ではなかった。
 彼は先程、私を助けてくれたのだ。バルカンの奇襲から守ってくれた。それまではこちらを置いて先に行きがちで、背中ばかりを見せていたくせに。しかし、何故かその瞬間、救いの手は間に合っていた。まさか、ずっと気にかけてくれていたのか。なんて、随分と自意識過剰な考えである。たまたま襲ってきた相手が、マカオさんの依頼に関わっていたから、というだけかもしれないのに。

 でも、そんなことはどうでもよかった。助けられた事実があるのに、私の方は彼に対して何もしてあげられていない。それがただ悔しくて、怖くて、恐ろしくて堪らなかった。恩を返す機会さえも奪われてしまったら、と。


「な、なつ……?」
「ルーシィ、前っ!!」
「女! 女よこせ〜〜!」


 ごく小さな掠れた囁きは吹雪に攫われる前に、そばからの絶叫で掻き消された。ぶれていたピントが唐突に合わせられ、勢いよくこちらに迫るバルカンを視界に捉える。いつの間にか、隙をついて向かってきていたらしい。ドタドタと雪を踏み鳴らし、徐々に近づいて来る様はどこぞのホラーゲームのようだった。
 そもそも女を寄越せって、なに。私のことか? 相手は獣なのに? 人間の女性に興味があるって……?


「嬢ちゃん、危ねえっ!!」
「わ……っ!?」


 不意に身体を突き飛ばされた。されるがままに雪に尻餅をつく。困惑しながらも見上げた先で、ひゅっと息を呑んだ。
 痛みさえも一瞬、忘れてしまうほどに。


「男いらんっ、どけ!」


 振り上げられる丸太のような腕。庇ったせいで体勢が不安定な馭者。次にどうなるかなんて、考えるまでもなかった。
 全身に冷や水を浴びたみたいに、一気に恐怖が駆け上がる。ハッピーが慌てて飛び込もうとしているけれど、距離が遠くて間に合いそうもない。指先が震える。握り締められたバルカンの拳は、人間のそれと比べ何倍も大きい。直撃してしまえば骨が折れる程度では済まないだろう。

 あからさまな敵意に、覚悟を決めたように馭者が強く目を瞑る。瞬間、力の入らなかった指先がようやく言うことを聞いた。
 ナツの安否はまだわからない。不安で仕方がないけれど、これ以上この化け物に好き勝手暴れさせてたまるか。私なんかを庇ってくれた目の前の人に怪我をさせるわけにもいかないし、ましてや死なせるわけにはいかない。私が、助けないと……!


「馭者さんっ!」


 ハッピーの泣きそうな声が響く。
 起き上がる暇も、体勢を整える暇もなかったから、当然鍵を選び取る時間もなかった。体を捻って力を込めているバルカンを見据えたまま、腰元に手をやり、ぎゅっとキーケースを握りしめる。本来なら一つ一つ、手に取って扱うものだから、上手くいくかどうかは賭けだった。もちろん、今まで試したことも、試そうと思ったこともない。

 けれども、一人の星霊を思い浮かべて込めた魔力は、応えるような暖かな金色の光を引き連れてきてくれた。


「──タウロスっ、お願い! 力を貸して……っ!!」


 半ば叫ぶように請うと、眩い閃光が辺りを一瞬包む。
 切羽詰まっていつもの口上を言えなかったのに、それでも求めていた気配がすぐそばにあった。光が溶けて、見慣れた背中が現れる。筋骨隆々な頼もしい半人半牛は、今まさに振り下ろされたバルカンの拳を片手で易々と受け止めていた。

 庇われた馭者が目を丸くして息を呑む。そのまま力が抜けたように、ふらふらとその場に膝をついた。「死ぬかと思った……」と震えながら小さくこぼす姿に、間に合ったのだと、助けられたのだと、やっと肩の力が抜ける。
 何よりも、呼びかけに応えてくれた彼の存在が都合の良い幻覚なんかではなくて、現実のものなのだと実感ができて、安堵やら感動やらで泣いてしまいそうだった。

 来て、くれた……。


「Mo安心してください! ルーシィさんの声はしかとこの胸に届きましたので!」
「た、タウロス……ありが、とう。わた、私、もうだめかと……思って、」
「んなっ、ルーシィさん……? ま、まさか泣いていらっしゃる……??」


 感極まって途切れ途切れに謝意を紡ぐと、敵と対峙しているタウロスのがっしりとした肩が僅かに跳ねた。おずおずと、何かを恐れるかのように、ゆっくりとこちらを見下ろす。油の切れたロボットみたいだ。
 そうして、白黒模様に浮かぶ虚を衝かれたような表情は、視線が交差した途端、瞬く間に焦燥と憤怒へと塗り変えられた。


「ななななな、泣かせたのはテメェか!? このっ、ブサイクが!!」
「ウホッ!?」


 すぐさま前に向き直ったタウロスが、拳を止めている方とは逆の手で担いでいた大斧を力一杯に振るう。ぶんっ、と風を切る音が間近で聞こえた。対するバルカンはその図体に見合わない俊敏さで体を捻って宙に飛び、くるりくるりと何度かのバク転で距離をとる。
 じっとりと睨めつける視線からは観察するような意図を感じ、ただの獣とは異なる知性を窺わせた。考えている内容は死ぬほどろくでもないのだろうけれど。


「ウホホ、その女はオデのだ。オデ、女、好き。牛、ジャマするな」
「オデの……? おんな、だと……?」
「タウロス、気をつけて。あいつ少なからず知性があるみたいだから……」
「……」
「タウロス?」


 返事がない。奇妙な間に怪訝になり、バルカンから視線を戻して大きな背中を見上げると、彼は顔を俯かせてその身を微かに震えさせていた。
 はて。何事だ。思わず首を傾げた次の瞬間、タウロスがくわっと勢いよく顔を上げた。


「…………だぁれが“オレの”だってぇ!!??」


 後に馭者は語る。その気迫は紛うことなき鬼神のようだった、と。


♦︎


「二人とも無事でよかったよおぅ〜……っ!」
「ハッピー、」
「ね、ルーシィ、あの牛は? 前の人魚とは違うんだね」
「星霊にも色んな人がいるから……、彼は金牛宮のタウロス。力が自慢なの」
「へえ〜、すっげ〜」
「お、お二人さん、盛り上がってるところ悪いが手を貸してくれ。腰が抜けちまった……」
呼び声に応える者