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ーーちゃぷん。

湯船に貯めたお湯が腕を伝い落ちる。心地の良い温度と、石鹸の爽やかな香りが疲れた身体に染み込むようだった。ほわほわ、と湯気が天井へ向かっていく様をなんとなしに眺めて、ほうと息を吐く。現在、新たな住居として住み始めたこの家のお風呂は、なかなかに居心地がよかった。

ここはフィオーレ王国東方、マグノリアの街。人口は六万人と活気があり、古くから魔法も盛んな商業都市である。街の中心にはカルディア大聖堂という立派な建造物があるようで、いつか時間を設けてじっくり見てみたいと思った。魔導士ギルドに関しては、妖精の尻尾がこの街唯一のギルドらしい。以上、全て街の案内板に書いてあった情報だ。

やはりと言うべきか、街並みは前の世界の海外とよく似ていて、思わず浮き足立ってしまうような壮麗さがあった。石造りの道や橋、煉瓦、あるいは木造の家。街の中を流れる水路とそれを渡るボート。そして、道に面した露店の数々。どれもこれも真新しくて、なんだか少しわくわくしてしまう。しかし、同時に馴染みの深い和風な雰囲気は全くないので、どうにもならない寂しさもあった。


「(でも、やっぱり宿じゃなくて、自分の家だと思うと安心するなあ……)」


この街の一角に拠点となる家を構えられたのは、ひとえにミラさんの力添えのおかげである。慣れない街で好条件の住居を見つけるのは難しく辟易していたところ、たまたま彼女との会話で話題をもらした際にいくつかツテがあると紹介してくれたのだ。なんでもその人らは、かつての依頼者らしい。顔が広くて脱帽する。助けを必要とする側と手を貸す側として、ギルドでは人脈が紡がれていくのかもしれない。システムは違えど、人との輪ができるのは普通の仕事と同じなのだろう。

ちなみに、妖精の尻尾にはギルドメンバー専用の寮もあるらしいけれど、集団生活に不安しかない上に、ぶっちゃけ一人の方が気楽なので遠慮しておいた。ミラさんはとても残念そうにしてくれたし、その際たまたま近くにいたハッピーには「オイラとナツん家住んでもいいよ」なんて笑顔で本気か冗談かわからない爆弾を落とされて、その瞬間周りの空気が凍ったのは記憶に新しい。前者は特に言うことはないが、後者に関しては妙な視線に取り囲まれた気がして秒で断った。変に勘違いされたらナツに申し訳ないので。


「今日のご飯どうしようかな……あとで買い物行かないと」


ここの家賃は七万Jとそれなりに高いけれど、商店街は近いので買い物には困らない。間取りもなかなかに広く、なんとレトロな暖炉と竈までついていて内装もオシャレなので、非常にのびのびと暮らせそうだった。ただし、暖炉も竈も使い慣れていないため、ちゃんと機能するかどうかは微妙なところ。完全な宝の持ち腐れである。

頭の中で何の食材を買おうかと思考を巡らせながら、ざぶんとお風呂から上がり、壁に引っ掛けておいたタオルで水滴を拭う。脱衣所で着替えを済ませ、なるべく丁寧に髪を乾かしていく。今世の髪の毛は一本一本が細く、さらさらしているので、わしゃわしゃと豪快に拭くと絡まってしまいそうでできなかった。正直に言うと、大変面倒くさいが致し方ない。ヒロインの綺麗な金髪だから、下手なことをして痛ませたくないという使命感もあるけれど。


「あ、これ……」


ふと、目の前の鏡にちらりとピンク色の紋章が映った。今まではなかった体の変化に慣れなくて、部屋着の緩い襟元をぐっと引っ張り、左胸のそれをさらす。そこにあるのは、鳥のような不思議な形をした妖精の尻尾のギルドマーク。そっと触れても特に違和感はないものの、逆にそれが一番おかしなことでもあり、マジでやべえなというIQの低い感想を抱いた。

何が恐ろしいって、肌に痛みや引きつるような感覚は全くなくて、まるで生まれた時から存在していたみたいにいやに馴染んでしまっているところだった。シャワーで流そうが、石鹸を使おうが、はたまた長時間お湯に浸けられようが、ちっとも色褪せずに形を保っている。これが魔法のスタンプだというのだから、その力の偉大さは証明されていた。

ドライヤー(これまた魔法アイテムでコード要らず)で髪を乾かし終えて脱衣所を出る。視線を下げたままに何気なく隣接している自室へと入り、扉を閉めると、背後で何やらごそごそと物音がして戦慄した。ひ、人の気配がする。引っ越してきたばかりで、もう泥棒だろうか。そんな殺生な……。

恐る恐る、しかしこのまま放っては置けないと覚悟を決め、キーケースを握り締めながら素早く振り返った。


「よっ」
「ルーシィ、遅かったね」
「ふ、不法侵入ぅーーっ!!??」


視界に飛び込んできた見知った二人組が予想外すぎて、びたん! と今し方閉めた扉に背中から激突する。なんだこの侵入者は。いや、闖入者は。持ち込んで来たのか、お菓子を我が物顔で机に広げて自分の家のように寛いでいるし。そもそも、まだ教えてもいない家の所在をどうして知っている。というか、戸締りしていたはずなのにどうやって入ったんだ。


「な、なんで二人ともここに……どうやって入って……」
「ミラに家決まったって聞いたから」
「普通に窓から。二階とはいえ鍵も閉めないなんて無用心だね、ルーシィ」


窓からの侵入は間違っても普通ではない。もはや、思考が泥棒のそれである。こちとら、換気のために開けていた二階の窓がまさか侵入経路にされるなんて、塵ほども想定していないのに。混乱する頭を落ち着けようと、大きく深呼吸する。きっと、文字通り飛んで入ってきたのだろうし、近所で“空飛ぶ青年と猫”みたいな騒ぎになっていないといいな。この際、相手が泥棒ではなかったことを素直に喜ぶべきか。


「それにしてもいい部屋だね」
「あー!? やめてやめて、爪とがないで〜〜!!」


がりがり、と容赦なく木の柱を削らんとする青猫に慌てて飛びつく。越してからすぐに家の修繕なんて、冗談じゃない。




「まだ住み始めたばかりで、ろくに買い物もできてないの。せっかく来てくれたところ悪いけど、大したものは出せないからね」
「お、サンキュー」
「ありがと、ルーシィ」


言いながら、散らかった机の上の余白に人数分の紅茶と、適当に大皿に並べたクッキーを置く。どちらもお得パックとしてセールされていたものを買ったので高級な味は期待できないが、普通に美味しかったから問題はないはずだ。そばにあったクッションを引っ掴み、息をするように家主のソファを占領するナツの向かいに座る。

机は悲惨な状態だった。先程まで食べていたスナック菓子の屑に加え、ぼろぼろとクッキーの破片が追加されていく。紅茶を一口飲み下し、どこか遠くを見つめた。掃除したばかりなのになあ。


「……あ、そうだ。ずっと言い忘れてたことがあるんだった」
「ん?」


クッキーを丸々口に含んだナツが、もぐもぐと咀嚼しながら小首を傾げた。器用に小さな手でティーカップを持ち上げるハッピーも不思議そうにこちらを向く。そんな二人をそれぞれ視界に映し、そっと頭を下げた。脳内に浮かぶのは、先日のハルジオンでの一幕だ。


「ハルジオンではありがとう。二人のおかげで助かったから……。本当はもっと早く伝えるつもりだったんだけど、なかなかタイミングがなくて」
「?? なんのことだ?」
「突然すぎてなんのことかわかんないよ。あ、もしかして、ルーシィが誘拐されてた船でのこと?」
「それもある、けど……もう少し前の。えっと、サラマンダーって呼ばれてた男がいたでしょう? その人が昼間に、街中でたくさんの女性に囲まれてた時のこと」


二人は覚えがないようで、眉間に皺を寄せてうんうんと悩み始めた。やがて、記憶が掠ったのか「あ!」と声を上げる。ナツがびしっ! と、こちらに指を差し向けた。


「いらねぇサインを押し付けてきた奴か! サラマンダーとか言って、全然火竜じゃなかったあの!」
「あ〜! イグニールじゃなかったあの時の!」
「う、うん……? たぶん、そう……かな」


サインやイグニールとやらについては全く知らないが、おそらくそれで間違いないだろう。自らをサラマンダーなんて名乗るのは、あのいけ好かないと評された男くらいのはずだから。


「でも、それがなんだってんだ? ルーシィ、そん時いたか?」
「少し離れた橋の上にいたの。たまたまその時、あの男と目が合って……距離が離れてるのに何故かじっと見られてて。気味が悪かったんだよね……」


今でも思い出すとぞっとする。きっと、あの時から商品としての値踏みをされていたのだろう。ひどい話だ。


「そのせいか、金縛りにあったみたいに動けなかったんだけど……ちょうどそこでナツとハッピーが来て。二人に視線が集まったおかげで逃げられたんだよ」
「はあ、なるほど?」
「でも、結局捕まってたじゃんルーシィ」
「う、そうだね……」


痛いところを突く。ハッピーに指摘され、多少傷んだ胸を押さえた。仕方がないではないか。あの時は予想外のオンパレードだったのだ。原作には登場しなかった店にまで追って来た上に、睡眠薬なんて盛られるとは誰が想像できようか。


「こっちはただイグニールを探してただけだし、ちっとも助けた気はしねえけど……。まあ、オレもおまえに列車で助けてもらったから、これでおあいこだな」
「うん、ありがとね。ところで、そのイグニールってなに? 誰か探してるの?」
「ドラゴンだよ。ナツの育ての親の」
「おー、オレの父ちゃん」
「なんて??」


ぽろり。思わず摘んでいたクッキーを落っことした。重力に従い、机に墜落したそれは無惨にも真っ二つに割れる。え、なに。なんだって。今、何を聞かされた? 背後にピシャーンと雷が描かれるような衝撃に、目を見開いたまま固まる。


「ど、ドラゴンに例えられるほど大きい人ってこと?」
「人じゃねーよ。イグニールは本物のドラゴンだ」
「ほっ、本物!? そんなの街中にいてたまるか……っ!!」
「「はっ」」


いや、今気づいたみたいな顔をされても困る。“イグニール”というどこかで聞いたようなそれは、確か列車で酔ったナツがうわ言で呟いていた単語だったはず。まさか、その正体が本物の竜の名前だったなんて卒倒ものである。想像してみてほしい。街中にドラゴンがいたら阿鼻叫喚だから。地獄絵図すぎる。鉢合わせなくてよかった……。


「ナツはね、小さい頃イグニールに森で拾われたんだって」
「おう。言葉とか文化とか……この魔法も、全部イグニールから教わった」


大切な思い出をなぞるように、楽しげにナツが語る。その様子は普段のぶっ飛んだ怪獣さとは程遠く、ずっと人間らしかった。どんなにあり得ない幻想の生物だったとしても、確かにそこには存在していたのだろう。そう思わせるほどに、彼を取り巻く雰囲気は優しげだった。しかし、ふと表情に影を落とし、小さな声で続きを紡ぐ。


「……でも、ある日突然、イグニールは姿を消した。何も言わずに、どこかに行っちまった。オレを置いて」


誰かに聞かせるためというよりかは心の内が思わず溢れてしまったような、そんな響きを孕んでいた。瞬間、数秒前とは打って変わって重苦しい空気が辺りを包んだ気がして閉口する。気の利いた一言さえ、少しも思い浮かばなかった。だって、かけがえのない唯一無二の家族を失う途方もない悲しみには、嫌と言うほどに覚えがあったから。

前の世界との決別。これが、私には上手くできそうもなかった。家族も。友人も。普通の生活も。あの頃の思い出は今後、きっと何一つとして、もう二度と回帰しない。当たり前にあった存在を、何の前触れもなく、理不尽に奪われたなら。その人の痛みは一体どれほどのものだろうか。

瞳を伏せて俯く。現状が変わらなければ何を言っても救われないことなど、自分が一番よくわかっていた。だからこそ、口を噤むしかない。寂しげな彼の心を満たすことができるのは、他の誰でもないイグニールという父親だけなのだ。

ーーおまえが寂しそうだから。

あ、と思う。ふと記憶が刺激されて思い出したとある瞬間は、不思議なほど今の彼と酷似していた。その迷子みたいな表情も雰囲気も、全て見たことがある。なんとなく既視感はあったのに、どうにも繋がらなかったのは普段のナツと重なる部分がちっともないからだ。


「ま、探してりゃいつか会えんだろ。なあ、ルーシィの持ってる鍵の奴ら……なんだっけ、星霊? 全部見せてくれよ」


気になってたんだよな、と空気を変えるためにナツがいつものようにからからと笑う。まるで、あの時の会話の流れをそのまま再現するかの如く。


「…………全員は無理だよ」


もしかして。もしかしたら。彼は私と、自分自身とを重ねていたのかもしれない。同じような痛みや寂しさを抱えている、と。出会ってから今まで、そうやって見透かされていたのではないか。仮にそうだとしたなら、なんて末恐ろしい。

獣みたいな鋭い直感に薄ら寒さを覚えながらも、彼が出してくれた助け舟に乗ることにした。それを無視して本心を暴くほど、お互いにまだ親しい仲ではないのだから。




「ルーシィは何人の星霊と契約してるの?」
「六人だよ。こっちがお店でも売ってる銀の鍵で、金色の方は黄道十二門っていう門を開ける珍しい鍵」
「「へ〜!」」
「そういえば、ハルジオンで買った小犬座のニコラ、まだ会ってないんだった。契約してもらわないと……」
「契約見たい! 血判とかあるのかな……?」
「痛そうだなケツ」
「血判なんてないよ……」
桜色の襲撃