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「とうちゃーく」
「ありがとう、ハッピー」


短い空の旅が終わり、屋敷の屋上にすとんと降り立った。途端にしっかりとした重力を感じてなんだか安心してしまう。空からの景色はとても綺麗で圧巻だったし、飛ぶという感覚も風が心地良く爽快ではあったけれども、やっぱり足元に地面があるのは偉大だと思った。

ふう、と何気なく息を吐くと、先程まで背中に引っ付いていたハッピーがよじよじと服を掴み、そのまま肩へと登ってきた。脈絡もなく、ぴょこりと視界の端に映り込んだ青い猫耳に突然どうしたのだろうと首を傾げる。特に表情の変化はなかったが、さすがに疲れていたのかもしれない。小さな子供ならまだしも、大人と呼んでも差し支えない人間を二人も運んだのだから。

労わりの意を込めて、そっとハッピーの頭を撫ぜる。今日も毛並みが良く手触りの最高な彼は一瞬きょとりと瞬いたかと思うと、すぐにきゅっと目を細めくふくふと笑った。本音を言わせてもらえば少々ひげが擽ったいのだが、その様子が非常に可愛らしかったので好きにさせておくことにする。

ハッピーから視線を外し、屋上をぐるりと見渡した。これといって特別なものはなく、先に来ていたナツ以外の人影もない。屋敷へと侵入できそうなのは、いくつかある窓のみである。目が合った祭に「よっ」と暢気に手を挙げたナツに軽く振り返しつつ、適当に一番近い窓へと歩み寄った。大きな音を立てて住人に気づかれないようにと細心の注意を払いながら、ぐっとガラスを押す。

ガタガタ。
開かない。今度は引いてみる。

ガタガタ。
開かない……。残念なことに上も下も、はたまたスライドさせても結果は同じであった。


「鍵……閉まってる……」
「どんまい、ルーシィ」
「他の窓も閉まってたぞ」
「うそぉ……」


なんてこと。開幕から詰んだ。これが豪邸故の防犯意識の高さか? 今朝、お風呂に入る時に換気のため開けていた二階の窓の存在を忘れ、どこかの青年と猫に易々と侵入された私が通りますよっと。がくり、と脱力して肩を落とす。このような事態を全く想定していなかったわけではないのだが、実際に目の当たりにすると心にくるものがある。

絶望に顔を両手で覆っていたら、ハッピーがぺむぺむと慰めるようにこめかみの辺りを撫でてくれた。先程のお返しだろうか。ありがとう……。優しさが心に沁みる。


「ルーシィ、ちょっと退いてろ」
「え?」


不意に背後から肩を引かれた。されるがままに数歩後ずさると、立ち位置を入れ替えるようにしてナツが窓の前で膝を折る。それから、徐に片手をガラスへと触れさせた。


「ナツ……? 何するつもり? 派手に壊すのはだめだからね……?」
「わかってるって」


顔に巻かれたマフラーのせいで表情が掴みづらい。今にもその拳がガラスを木っ端微塵に砕き、屋敷中に破壊音を轟かせてしまうのではとひやひやしながらも、言われた通りに退いたまま彼の手元をじっと窺う。数秒後、なんとも不思議なことに、ぽっかりとガラスが円形にくり抜かれた。蒸気を伴うそこへ慣れた手つきで腕を差し込む。かちゃり。軽い音がした。


「ん、開いたぞ」
「え……、え!?」


何が起きた……?? 奇妙な現象に興味を掻き立てられ、というかほとんど反射的にナツの隣へと屈み、突如として現れた穴を見つめる。直径はナツの腕よりも一回り大きいくらいか。そうして、どろり、と粘度のある液体がガラスを伝う様にぎょっとした。

と、溶けてやがる……!

信じられるだろうか。一般的な板ガラスの軟化温度は約700℃と言われており、融点はそこからさらに高い約1200℃〜1400℃らしいのだ。おおよそ生身の人間が生み出せる温度ではない。怖すぎる。

恐れ慄き固まる私を置いて、ナツが何事もなかったかのように窓を開け放ち、屋敷の中へと侵入していく。ハッピーも部屋が気になったようで、肩から身軽に飛び降りると彼に続き窓枠を躊躇いもなく越えて行った。どうやら二人にとっては特筆することもない日常の一コマだったらしい。

派手に壊されることはなくとも、結局は立派な器物損壊となってしまったガラスの風穴から目を逸らし、全力で見なかったことにしようと決意した。ハルジオンでの港の壊滅よりはずっとマシだ。このくらいの被害ならまだ可愛い方である。そう自分に言い聞かせ、前の世界では考えられない奇行に良心が滅多刺しにされるような痛みを堪えながらも、二人に倣って室内へと忍び込むことにした。

恐る恐る床に足を乗せる。気分は落とし穴を確かめる時のそれだった。入ったからにはもう後戻りはできない。早く用事を済ませて離脱させていただこう。フードの端を引っ掴みさらに深く被りつつ、その陰からさっと辺りに視線を走らせる。豪邸の割には少し埃っぽく、所狭しと物が乱雑していた。どうやら物置部屋らしい。未だに警報が鳴らないことを鑑みると、この場所は警備システムのない安全地帯だろうか。


「ナツ見て〜!」
「お! 似合うぞハッピー」
「オイラ、これ被って行けば二人みたいに顔隠せるよ。ね、ルーシィ?」
「そうだね……でも二人とも、お願いだからもう少し声量を落として……」


あと、帰る際にはちゃんとその蓋骨の仮面は置いていってね。これ以上、罪を増やしたくはないので。どこから見つけたのか、嬉々として頭骸骨を被るハッピーと相変わらず緊張の欠片もないナツに、もう止めるまいと先を急ぐ。この部屋に本らしきものは見当たらないから、別のところに収納されているのだろうか。

侵入してきた窓とは反対側の扉にそっと耳を当て、なんとか向こうの様子を探れないかと意識を集中させる。「部屋の外に人間の匂いはしねーよ」「足音も聞こえないよ」「二人ともすごいね……??」どういう次元で生きてるんだ? ハッピーは何故か喋れるし空も飛べてしまうけれど、元が動物だから五感が優れていても頷ける。しかし、ナツの方は人間離れしているという他ない。そもそも人間の匂いとは……。

果たして、扉を開けた先の廊下には彼らの言う通り、人っ子一人いなかった。

先頭をこそこそと行くのは、フードを目深に被った女。後に悠然と続くのは、マフラーで顔を覆った男。最後に足取り軽く連なるのは、骸骨に頭を乗っ取られた猫ーーという、明らかにやばい不審者パーティが爆誕してしまった。顔を見られないようにと危惧した結果だったのだが、これではかえって目立つ気がしなくもない。

そして、屋敷の造りも厄介だった。フロアが吹き抜けになっているため、階下に人が通ろうものなら上階の廊下を進む私達の姿はおそらく丸見えになる。見通しが良くて隠れる場所がないという緊張感は、今にも見つかるのではないかと心が逸る要因になった。おまけに、下からの目撃を避けようと身を低くして進む移動法は気休め程度にしかならないだろうし、何より無駄に疲れる。


「おいルーシィ、この調子で一コ一コ部屋の中探してくつもりなのか?」
「そうだけど……他にいい案でも見つかった?」
「誰かとっつかまえて本の場所聞く」
「……何も壊さず、静かにこなせる自信は?」
「…………」
「じゃあ、だめです」


無言で目を逸らしたナツに呆れた視線を投げかける。それができたらとても楽になるけれども、柱の一本や二本は犠牲になりそうなイメージがある。下手したら屋敷が倒壊するかもしれない。大体、隠密はひっそりと他人に悟られないように行動することを指すのだ。忍者スタイルで仕事をこなす、と言っていた本人が自ら見つかりに行ってどうする。

ただ、提案はしたものの無理に意見を押し通すつもりはないようで、彼は変わらず静かに後をついて来ていた。きっと、“突撃はできない”と言った私に対して肯いた約束を律儀に守ってくれているのだろう。ありがたい。普段は思考のぶっ飛んだとんでもない怪獣のはずなのに、たまに見受けられる人情に溢れた面にほっこりと胸が温かくなる。思わず口元が緩んだ、刹那ーー。


「侵入者発見!!!」
「ひっ! なになになに……っ!?」
「うほおぉおお!!」
「見つかったぁーー!!」


突然、目の前の床がボコォ!! と盛大な音を立てて土や瓦礫を巻き上げた。下からの風圧に抵抗する間もなくフードが攫われる。明瞭になった視界に映った、いくつかの穴と人の姿。唖然と宙を仰ぐ。妖精の尻尾のマスターを想起させる巨体を中心に、その後ろで個性的な四人が武器を携えていた。もれなく全員がメイド服。意表を突かれ、時が止まった脳裏を“メイド好き”と落書きされたエバルー公爵だけが過っていった。


「ーー忍者ぁあ!!!」


はっと意識が戻ったのは、ナツが謎の掛け声を放った時だった。纏わる炎と彼の顔を覆うマフラーが揺らめき、赤と白がほんの数瞬屋敷の一部を彩る。


「まだ見つかるわけにはいかんでござるよ」


そしてそれは、相手に反撃の余地を与えない鮮やかな手腕であった。

地に伏したメイド達を前に「にんにん」と、ナツはなんてことないようにハッピーと共に手を組み忍者に成り切っている。その様子が、たった今この状況を作り上げた実力者とまるで噛み合わなくて、二人に声をかけられるまで私は呆然と彼の横顔を眺めていた。




「おい、ルーシィ? どうした?」
「どこか痛いの?」
「え……? あ、ううん、大丈夫……。そ、それより一旦どこかに隠れよう。今の衝撃で誰かしら様子を見に来るかもしれないから」
「おー」
「あいさー」
なりきり忍者