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「わっ!」


不意に地中に潜ったと思ったら、次の瞬間には足元から公爵が飛び出してきた。この世界にはこんな魔法もあるのか。硬いはずの地中を泳ぐように自在に移動する様は、なんとも言えぬ奇妙さがあった。自分の中の当たり前を覆されるのは、これで何度目だろうか。相変わらずなんでもありな世界に打ちのめされるばかりだ。

狭い下水道という地形も気にせずに、ボコボコともぐら叩きの如く穴を増やされるせいで足を止める暇がない。勘弁してくれ。跳ねて駆けてを繰り返す合間に無理やり呼吸を整えて、半ば投げやりに問いかけた。


「この本っ、そんなに面白くないと思いましたが……お気に入りなんですか!?」
「ルーシィ、何その質問!?」


ぼこり、と進行方向の地面が盛り上がり、慌てて飛び退く。公爵の拳が空を切った。


「いや? クソほども面白くない駄作だね。素晴らしいのは我輩が主人公という一点のみ。ケム・ザレオンのくせにこんなものを書きおって、けしからんわぁ!」
「ご自分で依頼したのなら、それなりに好みの内容を指示できたはずではっ……!?」


本当は、公爵が依頼したかどうかなんて知らない。もしかしたら、ケム・ザレオンが自ら書きたいと望んだ可能性もあった。それでも踏み込んで賭けに出たのは、彼の反応を窺ってこの本の真実を解き明かしたかったからだ。果たして、咄嗟の鎌かけは見事に功を成した。


「うるさいわっ! あのバカはこの偉ーい我輩の頼みを断ったんじゃぞ!? ムカついて指示どころではないわ! だから、代わりにこう言ってやった! 書かぬというなら、奴の“親族全員の市民権を剥奪する”とな!!」


まあ、出てくる出てくる。想像以上に真っ黒い内容に表情が引きつりそうになりながらも、しれっと何食わぬ顔でやり過ごす。ハッピーがぎょっと目を見張った。


「市民権剥奪って……そんなことされたら商人ギルドや職人ギルドに加入できないじゃないか。コイツにそんな権限あるの!?」


こちらの世界だと、何でもかんでもギルドで括られるなあ。魔導士に傭兵、商人、職人……? 他にも種類があるのかは知らないが、前の世界での会社と似たような立場ということか。心の中で納得しつつ、ハッピーの疑問に補足する。


「確か封建主義、だったかな……? まだそれが残ってるってことは、この辺りは古くから歴史のある土地なのかも。つまり、公爵には絶対的な権力があるんだよ」
「生意気な小娘のくせに、よくわかってるじゃないか。そうだ、我輩には誰も逆らってはならぬのだ! そして奴も結局書いた! だが一度断られたことの怒りは収まらなかったから、独房で書かせてやったよ!」
「独房!? 監禁してたってこと……!?」
「ボヨヨヨヨ! やれ作家だ、文豪だ……とふんぞり返ってる奴の自尊心を砕いてやったわ!」


もう言葉も出ない。ハッピーが飛び跳ねて驚愕している横で足を止め、乱れた呼吸を整える。相手は一人だというのに、まるで蜂の巣をつついたように事態が大きく広がっていてキャパオーバーになりかけていた。大体内容が重すぎる。パンドラの箱か??

きょろきょろと辺りを見回す。地中に潜った公爵を見失ってしまった。ところ構わず魔法を使うせいで地形はめちゃくちゃで、下水もいつの間にか穴から流れ出たようで水路が露出している。慎重に一歩踏み出そうとした、刹那。にょきり、と生えてきた手によって足首を掴まれた。


「うっ……!?」
「三年だ! 結果、三年もかけたくせに奴はこんな駄作を書きおった!!」
「三年も……!? コイツ最低だよ、ルーシィ!」
「フン、聞こえんな。奴もくだらん仕返しをするくらいなら、もっとマシな……ん?」
「「あ」」


間抜けな声が揃ったのはハッピーとだった。そして、ひらりと宙を舞った後、地面から上半身を出していた公爵の顔面に張り付いたのは一枚の紙で。助けようとしてくれていたのだろうハッピーの懐から落ちてきたそれには、ひどく見覚えがあった。冷や汗が背筋を伝う。公爵が反射的にといった様子で紙を摘み上げた瞬間、足首の拘束がなくなり、ずさぁっ! と勢いよく距離を置いた。ハッピーと身を寄せ合い、震える。

そうして、ついに折り畳まれた薄茶色の用紙が公爵によって開かれていく。気分はさながら授業中にこっそり回していた手紙が教師にバレてしまった時のそれだった。元々青いハッピーの顔がさらに青ざめていた気さえする。


「な、なななな……!! なんじゃこれは〜〜っ!!??」


ーーそれは、依頼書(エバルー公爵落書きver.)である。


「ああっ! オイラとルーシィだけの秘密が〜!」
「ちょ、ハッピー、それ火に油……っ!」
「貴様らがやったのか!? ふざけた真似をしおって!! もう許さんわ!!」


本人には見られないようにと言っていたはずなのに、見事にフラグを回収してしまった。案の定、激昂した公爵はそのまま依頼書をびりびりに破くと、肩を怒らせながら地中から這い出て来た。久々に地面に足をつけたかと思うと、今度は何かを自身の体の前へと掲げる。その動きと、キラリと光った切っ先にどこか見覚えがあった。

まるで、鏡を見ているようなーー。


「ぬぅおぉぉっ!! 開け! 処女宮の扉!!」
「え、」
「ルーシィと同じ魔法!?」
「バルゴ!!」


見慣れた金色の光が薄暗い下水道を一瞬照らす。咄嗟に目を伏せ、混乱する思考を振り払う。落ち着け。同じ魔法だからなんだというのだ。今まで使い手に出会ったことがなかっただけで、きっと星霊魔法自体はナツのそれより珍しくはないのだろう。銀色の鍵なら、お店で誰でも買えるくらいだし。ここで本当に驚くべきは、相手が二種類の魔法を駆使してきたことか。なんとも器用なものである。


「お呼びでしょうか? ご主人様」
「バルゴ! ソイツらを黙らせ、本を奪え!!」
「あ、あの時のメイドさん……!?」
「ゴリラメイドが星霊だったのか……!」


どこからともなく姿を現した巨体と野太い低音に気圧され、じりじりと後ずさる。処女宮ということは、確か乙女座の星霊だ。この見た目で乙女か……。字面からは想像できない容貌だが、それよりも予想外なのはメイドの一人が黄道十二門だったことだ。

桃色の可愛らしい髪色とは裏腹に、ぎろりと容赦のない視線で睨めつけられ、身が竦む。こちらも構えないといけないのはわかっていた。けれども、自然なことのように逃げようとしてしまうのは、きっと安全な国で備わった平和ボケという前世むかしからの特性に違いない。それから、自分が慕う星霊という存在が敵意を持って近づいてくることに、思いの外動揺しているせいだった。


「「あ!?」」


不意に重なった驚愕の声は、今度は自分とハッピーではなく、公爵とハッピーのものだった。「ナツ!?」溢れんばかりに目を見開いたハッピーの小さな指先が宙を示す。つられて視線を上げると、バルゴの服を掴んだ桜色の彼と逆さまに目が合った。待て、なんでそんなところにいる?


「なぜ貴様がバルゴと!!?」
「ナツ、どうやってここに……」
「どう……って、コイツが動き出したから後つけてきたらいきなり……訳わかんねー!!」


間違いなく、先程まではこの場に彼はいなかった。下水道の通路や穴から合流した様子もない。突然降って湧いたかのような登場の仕方は星霊と酷似しているが、しかし。星霊界に人間が入れるとも、ましてや共に召喚されるなどとは聞いたことがなかった。


「まあ、今はなんでもいいか! ルーシィ! オレは何すりゃいい!?」
「バルゴ! 早く邪魔者を一掃しろ!!」
「! そ、その星霊を止めて!」
「おう!!」


強い瞳でこちらを射抜いたナツにそう呼びかけ、腰元のキーケースから一つの鍵を取り出した。黄金に輝くそれは、アクエリアスと同時期に出会ったお兄さんのもの。真っ赤な炎の眩しさに、金の柔らかな光が混ざる。


「開け、巨蟹宮の扉……キャンサー!」


いつもの口上を紡ぎ終えたのと、バルゴがナツによって地に伏したのはほとんど同時の出来事だった。光が溶けて、見慣れた姿が現れる。ストライプ柄のシャツに、背から伸びる蟹を模した節足。結い上げられた特徴的な髪型。美容師が使用するシザーケース。どれもこれもが馴染み深い。来てくれた頼れる背中が、私の想いに応えるように愛用の鋏を構えた。


「なにィ!?」
「キャンサー、お願い! あの人をほんの少し懲らしめてやってほしいの!」
「お安い御用。エビ」


ここまで事態が大きくなっては、もはや無事に帰らせてはもらえないだろう。腹を括れ、私。いいか、これは正当防衛だ。あと、過去に脅迫とか監禁とか、とにかくやばいことをしていた報いということで。泥棒に入ったことは棚に上げ、自分にそう暗示をかけながら、護身用に持ち歩いている鞭を公爵の足へと巻き付けた。もう地中には逃がさない。ぐっと力を入れて、その場に縫い止める。

公爵は味方の星霊がナツに一発で伸されたことに呆気にとられていたようで、キャンサーの素早い身のこなしに反応が追いついていなかった。身動きの取れない的と化した相手に、ぎらりと鈍く煌めく鋏が襲う。

ここからは想定外の事故だったのだけれど、咄嗟に身を捩って躱そうとした公爵は引っ掛かったままの鞭に足をとられ転倒。物の見事に後頭部を打ちつけた。それも、自分の魔法で二次的に生み出されていた瓦礫に向かって強かに。当然、気絶した。


「お客様、こんな感じでいかがでしょう? エビ」
「……い、いいんじゃないかな、うん」


死屍累々。阿鼻叫喚。地獄絵図。そんな言葉が頭の中を過ぎったのは、晒されていた敵意から解放され昂っていた感情が平常に戻ったからだった。大災害の後のような下水道に、巨体のメイドと、キャンサーによって丸坊主に変貌した公爵が横たわっている。必死で失念していたが、どんなに外道な人間でもこの街の権力者なのだ。後日、訴えられるとかありませんように。キャンサーにお礼を言って戻ってもらいつつ、事の重大さに心の中で涙した。

戦闘の間、ずっと抱きしめていた本が生温かくなっている。それなりの時間が経過していたらしい。ふう、と蓄積された疲労ごと吐き出すように息をついた。


「ははっ! ハデにやったなぁ、ルーシィ。さっすが妖精の尻尾の魔導士だ」
「あい」
「いや、そこらじゅう穴だらけにして壊したのは相手の方ね……私はほとんど何もしてないから……」


再三言うが、公爵が自らの魔法でこの環境を造り上げたのだ。つまりは自業自得。よし、これは私達のせいではない。ないったらない。




「そうだ、ナツ。怪我はない? 痛いところは?」
「おお? 別になんとも。そういや、あいつらよく喋る奴だったな。前に魔導士の骨を砕いてやったとか、天地なんたらをくらって生きてた奴はいないとか。最終的にフライパンで火炙りされたけど、大したことなかったぞ」
「待って待って、情報過多」
「ねえ、ルーシィ。それよりオイラ、さっきの星霊の語尾がカニじゃなくてエビだったことに衝撃を受けたんだけど」
「骨……? 火炙り……? 無傷……??」
「ナツ、ルーシィが処理落ちした」
「よくあるなー」
頼れる背中