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「──ルーシィ、聞いていますか?」
「!」


 ぼんやりと彷徨い定まらなかった思考が、優しく労わるような声にはっと現実に引き戻された。しまった、と思う。目の前の人魚に気を取られ過ぎていて、文字通り何ひとつ聞いていなかったのだ。慌てて焦点を母に合わせる。しかし、時はすでに遅く。先程までは、確かにそこにあったはずのアクエリアスの姿は綺麗さっぱりと消えていた。つい目を丸くする。

 一体どれだけの間呆然と立ち尽くしていたのだろうか。「アクエリアスなら用事があると言って、先程戻りましたよ」辺りに視線を走らせていた意図を見事に汲み取られ、思わず肩を揺らす。母は口元に手をやり、おかしそうにふふと微笑んだ。ちょっとした仕草が常に上品だ。さすが、豪邸に住まう人間と言ったところか。全てが洗練されていて隙がない。


「ルーシィったら、いつから話を聞いていなかったのかしら?」
「ご、ごめんなさい……」
「いいのよ。また最初から伝えるわ」


 こちらへと促すようにベッドの端をぽんぽんと叩く彼女に、未だ扉の前にいたのかと自身に驚愕する。それほど衝撃的な出会いだったのだから、仕方ないと思いたい。
 おずおずと彼女のそばに寄ると、静かに拳を差し出された。拳といってももちろん暴力のために固められたものではなく、手の中にある何かを渡すような素振りに見えた。ちょうど目線の高さほどにやって来たそれに、条件反射でこちらも手を伸ばす。そして、彼女の手の下に私の両手が添えられた時、そっとその拳が開かれた。

 ことり、と重過ぎず軽過ぎないような、よく手に馴染む重量があった。確かに何かが乗ったと認識した直後、目に飛び込んできたそれらに思わず息を呑む。まだまだ発達途上の自分の小さな掌に乗っていたのは、黄金に輝く二つの鍵だった。きちんと手入れがされているのか、汚れひとつとない新品のような眩さだ。明らかに高価なものとわかり、手が震える。


「なに、これ……?」
「それは私の宝物なの。星霊魔導士にとっては命と同じくらい大切なものよ」
「せいれいまどうし……」
「魔導の道を進むかどうかはあなた次第だけど、どうかその鍵は持っていて」


 私にはもう扱えないから。そう呟いた母はどこか寂しげで、今にも消えてしまいそうな儚さがあった。
 “扱えない”とは、魔法が使えないということだろうか。そういえば、とある用事で何日間か家を空けた後から、元々体が弱かった母の体調は悪化の一途を辿っている。その内容が具体的にどういったものだったのかは聞かされていない。故に、母の体調とそれがどう繋がるのかまではわからないが、おそらくは拍車をかけた原因なのだと思う。

 当時の母は「どうしても外せない大切な務めなのよ」と柔らかないつも通りの笑みを浮かべ、けれども少し緊張した面持ちで話していた。それ以上のことを本人、あるいは周りの人々に聞けなかったのは、“聞くな”という雰囲気を察したからだ。身体と同じく幼い精神だったならいざ知らず、他人の顔色を窺う選択肢を持った大人では深く踏み込むのは躊躇われた。


「(それにしてもどこかで……)」


 横道に逸れた思考を呼び戻し、じっと鍵を見つめる。どこかで見たことがあるような気がして。頭を捻り、そうしてふとアニメのヒロインが青い人魚を召喚する場面を思い出す。そうだ、確か……こんな感じの鍵を用いて大海原から彼女を呼び出していたはず。朧げな記憶だけれど、“星霊魔導士”という単語もヒロインが使っていたような、いないような……?

 母が宝物と評し、命の価値と等しいと語るくらいだ。確証はないが、その星霊魔導士とやらにとっては共通して重要なアイテムとされているのだろう。加えて、アクエリアスが存在した事実を踏まえると、このどちらかの鍵が彼女の召喚に紐付いている可能性が高い。つまり、アニメでヒロインが扱っていた大切な持ち物が今ここに──あれ、待って。

 どうしてこんなところにある??
 瞬間、かの人魚と相対した時のように、いやそれよりもさらに強い衝撃により再び体が石化した。おまけに脳内も停止した。頭の中では大混乱が巻き起こり、少しずつ体温が失われていくような心地さえする。情報を整理しようと働く理性とは裏腹に、考えることがひどく億劫だったのは真実を知らない方が良いと無意識に拒否していたからかもしれない。

 そもそもの話。私の『フェアリーテイル』に関する知識は、アニメの第一話を見た程度しかない。ご覧の通り、正確な表記(英語だっただろうか)すら曖昧である。つまるところ圧倒的な知識不足。
 では、何故この世界が異世界である可能性に至ったのかというと、先程出会った“アクエリアス”が知っている数少ない登場人物の内の一人だったためだ。見た目も言動も能力もインパクト抜群の彼女は、どうやら一度見た程度でも記憶に深く刻まれていたらしい。


「(……問題はそのアクエリアスの鍵がここにあるということ)」


 そして、それが示す意味だ。
 のろのろと緩慢な動作で顔を上げる。確認しなくとも“その人”の顔立ちは新たに生まれてからずっと見てきたので忘れようもなかった。それでもなお視線を動かしたのは、どうか最悪な予想が違っていますようにと心底願っていたからだ。

 果たして、そこには馴染み深い今世の母の顔……想像していた通りの“アニメのヒロインとそっくり”な美人かつ可愛らしいご尊顔があった。願いは虚しく散った。今にして思えば、彼女はヒロインの生き写しといっても過言ではないほどによく似ている。それはもう、今まで気がつかなかったのが不思議なくらいに。

 なお、ヒロイン本人ではないと感じたのは、なんとなく雰囲気が異なっていたためだ。ヒロインはもっと明るく元気で突っ込み気質だったように思う。対して、母は決して暗い性格ではないが、どちらかというと落ち着きがあってお淑やかなタイプだった。時系列が不明なので、ヒロインが歳を重ねた結果言動に変化が生じた可能性もなくはない。

 しかし、仮に母がヒロイン本人だとすると、現在は所謂原作後の時間軸なのだろうか。何せ、大切な鍵を手放そうとしているので。大筋が魔導士の物語である以上、彼女を魔導士たらしめる魔法のアイテムは必要不可欠であるはず。それが無くても成り立つのであれば、おそらくは本編の後の語られないような部分に当たるのかもしれない。


「ルーシィ?」


──けれども、もしそうでなかったら?

 様子のおかしさを察してか、母が声をかけてくる。が、それどころではなくて。ろくに返事も返せずに、ぐるぐると嫌な感覚が鳩尾の辺りに澱んでいく。
 彼女がただ、ヒロインの家系の一人であるならまだいい。それならば、自分もヒロインの先祖、あるいは子孫という位置づけになる。決して良くはないし、嬉しくもないが、まだこちらの方が希望はあった。でも、もしも“この人がヒロインの母親”だったら……?

 私に姉妹はいない。母の体調を思えば、この先新たな家族が生まれてくる可能性もほとんどない。つまりは……いや、皆まで言うのはよそう。完全に意識してしまったら、本当におかしくなりそうだった。


「(……大丈夫、まだ確証はない)」


 幸か不幸か、原作を知らないからこそ答え合わせができない。何かのきっかけで「そう」であると自覚するまでは、きっと考えすぎただけなのだと信じていられる。
 元々、この世界がかの有名な魔導士の世界だなんて想像すらしていなくて。それを知った際、大きな衝撃に襲われたばかりだというのに。その上、半信半疑の状態に追い打ちをかけるかの如く、立て続けに重要かつ酷な可能性を突きつけられてもうとっくに許容オーバーだった。物語の行く末を知らない私は、当然正解など知る由もないし、選び取るだけの能力も持ち得ないのだから。

 繕う余裕もなく難しく考え込むこちらを、そっと見守るように穏やかな微笑みを浮かべてみせた母が今ばかりは憎らしかった。
二つの鍵