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 母と会話をしてから数時間が過ぎた、ような気がする。
 感覚の問題なので、正直なところ正確にどれくらいの時が過ぎたのかはわからなかった。数分だったかもしれないし、数十分だったのかもしれない。とにかく気がついたら自室にいたのだ。また意識が飛んでいたのかと言われると何も言い返せないが、人間はどうやら対処しきれない物事に直面すると考えることを辞めてしまうらしい。

 おおよそ小さな子供一人にあてがわれるような広さではない部屋で、これまた大きなベッドに思い切り寝転がる。ふかふかとした弾力は、完全に脱力した体を包み込んでくれた。


「……あ、鍵」


 ごろり、と寝返りをした際に緩んだ掌から二つの鍵がこぼれ落ちた。突き返すこともできずに持ってきてしまったらしい。
 うつ伏せになったまま枕元に転がった鍵にそっと手を伸ばす。部屋に来るまでの記憶は朧げなくせに、その割にはしっかりと握っていたようで金属は少し生温かくなっていた。

 黄金の太陽のような色。片方の、持ち手が壺のような形をしている鍵を手に取って照明にかざしてみる。やっぱり、ものすごく大切にされていたのだろうか。だって、光に反射する様がこんなにも眩く美しい。
 ほう、と感嘆の吐息をもらし、ふと我に帰る。これは自分なんかが触ってしまって良い品だろうか。なんだかひどく申し訳ない心地になった。指紋とか皮脂だとかを思うと途端に罪悪感が増す。えっ、本当に大丈夫か……? 捕まるのでは??


「……」


 得体の知れない不安に襲われ、さっと何事もなかったかのように枕元に戻す。それから、もそもそと起き上がり鍵の前に正座した。気分はさながら叱られた子供である。それでも、僅かな好奇心は抑えられなくて、じっと観察するようにそれらを見つめた。
 二つとも持ち手の部分に紋様がある。刻まれているのは、アルファベットの“W”を二つ重ねたようなものと、数字の“69”に見えるもの。前の世界でも見覚えがあった。記憶が正しければ、星座を表すマークだったはず。これらは水瓶座と蟹座で、先程まで手にしていたのは前者だ。

 それにしても、これで異界の星霊を呼び出せるなんて俄かには信じ難い。見た目だって確かに“鍵”とは認識できるものの、普段使うような家の鍵や机の鍵などとはかけ離れていた。はっきり言ってしまうと、特に使用方法もないただ豪華なだけの装飾品に見える。絶対にどの鍵穴にも合わないだろう。


「そもそも、魔法なんて本当にあるの……?」


 いや、アクエリアスが存在していた時点で「ある」の天秤が地中に埋まるくらい傾いてしまったのだけれど。この状況から「ない」が巻き返してくれる可能性は限りなく低い。
 ……そういえば、前に図書室の本を片っ端から読み漁った時に、やけにまじない系の内容が多いなと思ったことがある。なるほど、今になって疑問が解消された。あれらは全て魔法に関する本だったのだ。

 魔法がフィクションである前の世界では想像することさえ難しいが、まさかこちらの世界においては自分にも魔法が扱えたりするのだろうか。

──コンコン。


「は、はい!」


 唐突に響いたノック音。無意識に鍵へと伸ばしていた手をびゃっと引っ込めた。し、死ぬほどびっくりした……心臓が悲鳴を上げている……。ドア越しではこちらの様子など当然わからないので、外からは使用人の「ルーシィ様? 稽古のお時間です」という事務的な言葉が続く。慌てて立ち上がり、一直線にドアへ向かおうとしたところで、ふと立ち止まった。
 くるりとベッドを振り返って数秒逡巡する。やがて、無造作に転がっている二つの鍵を拾い上げ、ポケットにしまい込んだ。もちろん稽古には全く必要のないものだが、こんな場所に無造作に放っておくのはなんだか忍びなくて。


「ルーシィ様?」
「今行きます!」


 催促するような使用人の声にもう一度返事をして、今度こそ部屋を後にした。


♦︎


 今日はテーブルマナーの稽古だった。食堂に置かれた長く広いテーブルの端に一人でちょこんと腰掛けて、横に控えた指導者に淡々と指示を下される。
 いつ使うんだこんなマナー、と嘆きたくなるほどに長々しい説明と小難しい動作。早々に眠くなったのは言うまでもない。早く終われ早く終われと悶々と念じながら、指導者の言葉を右から左へ受け流すという不真面目な態度を取っていたせいで当たり前に叱られた。

 渋々やる気を絞り出して及第点をもらえる頃には、稽古開始からすでに数時間が経っていた。おかげで外は黄昏時である。
 へとへとの体に鞭を打ち、なんとか自室へと向かう。毎度のことながら、幼い子供にさせる稽古量ではない。おまけに廊下が無駄に長いため、余計に疲労が蓄積していく。唯一許せるのは、この廊下から観られる景色がとても美しいということくらいだ。

 黄昏時は特にそれが顕著で、床から天井までの大きな窓から燃えるような朱色が溶け込んでくる。こぼれ落ちる光がひどく眩しく、暖かい。ガラスの向こうでは夕陽が今まさに山へとその身を隠すところだった。自然と物悲しさを感じさせる光景は、疲れた心の一部をすっと穏やかに撫ぜてくれるような心地がした。
 思わず目を細めて夕焼けに見入っていると、不意に視界の端でぱしゃりと何かが跳ねた。金魚鉢の水だ。なんとなしに近づいて中を覗き込む。悠々と真っ赤な金魚が一匹だけ泳いでいた。ぷっくりと膨らんだ体と、時折ぱくぱくと口を動かす姿がなんとも可愛らしくて、不思議と癒される。

 水に柔らかく差し込んだオレンジ色の光が、ゆらゆらと影をつくっていた。少しだけステンドグラスと似ているかもしれない。


「……そういえば、」


 しばらく金魚が泳ぐ姿を無心で眺めていた後に、ふと別のところに意識が向いた。「……水だ、水がある。金魚鉢と花瓶って同じようなものだよな」と。唐突かつ突飛すぎる思考だけれど、この瞬間何故か思い出してしまったのだ。
 母と、あの青い人魚の会話を。


『どこから呼び出してんだ』
『花瓶の水です……』


 “花瓶の水”。
 少し棘のある言葉遣いに母はやや申し訳なさそうに、しかし慣れたようにそう返していた。確かに言っていたのだ。

 どうしてそこが自分の中で結びついたのかはわからない。随分と幼稚で単純極まりない思考だったと思う。しかし、一度掻き立てられた興味は膨らむ一方で。


──花瓶の水で呼び出せるなら、金魚鉢でもできるんじゃない?


 なんて。きっと、普通の思考回路ではなかった。なかったけれど、じわじわと胸の奥から溢れ出る高揚にも似た何かをとどめることもできなかったのだ。
それを好奇心と呼ぶ