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ミラさんとの会話が弾んでしまい、思ったよりも帰宅時間が遅くなってしまった。真夜中の時刻を一人でいるのはどうにも心細く、プルーに甘えて家までの道のりを共に歩む。途中、水路をゆっくりと進むボートから「嬢ちゃん、夜中に歩くのは危ねえぞ」と陽気な男性達に声をかけられた。特に目立つような行動をした覚えはないのだが、何故か最近そういったことが多い。とりあえず、ご心配ありがとうございますと返しておいた。


「それじゃあね、プルー。ここまで送ってくれてありがとう」
「プン!」


どういたしまして、と言うように彼が手を挙げて星霊界に戻っていく。それを見送り、何気なく部屋の扉を開ける。


「おかえり」
「おかー」
「さ、三回目ぇーー!!??」


まさか、家に誰かがいるとは思わず、つい心の叫びが飛び出ていった。上半身裸で腹筋を繰り返すナツと、ダンベルを持ち上げるハッピーを前に固まる。なんだかこの展開が恒例化しつつあるような気がして、そっと顔を覆った。嘘だと言ってくれ。こんなの毎回やってたら、たぶん心臓がいくつあっても足りない。家に来るのは構わないが、頼むからメールか電話で連絡を……あ、この世界では無理だった。絶望。


「せめて服は着てよ……!」


慌ててその辺にあったバスタオルを引っ掴み、先日のグレイ同様被せて肌色を隠すと「お、サンキュー」なんて言ってナツが汗を拭き始めた。違う、そうじゃない。


「そもそも、体を鍛えるんだったら自分の家でやった方が落ち着くんじゃない?」
「んあ? ああ、この家もなんか落ち着くんだよなー。つーか、オレ達チームだろ。おまえの分もあるぞ」
「ルーシィ、ピンク好きでしょ」
「え、私の??」


徐にピンク色の鉄アレイを差し出され、反射的に受け取ってしまった。瞬間、ずしりと一気に働く重力に両腕が下方に伸びる。いや、おっも!? ぷるぷると筋肉が悲鳴を上げ、やっとの思いで床にそれを置く。危うくもげるかと……。


「こ、これ何キロあるの……?」
「十キロ」
「じゅっ……!?」
「さすがに、いきなりは難しいかぁ。ナツなら余裕なんだけどね」
「ははっ、ルーシィは非力だな〜!」


非力というか、仮にも女子に向けてほいと渡すレベルではない。普段から鍛えている者にとっては余裕かもしれないが、生憎こちらはある程度の運動しかしていないので。前の世界でのテスト期間中の学生鞄よりも重たい鉄アレイを睨みつけていると、今度は二人が腕立て伏せを始めてしまった。どうやら本格的にトレーニングをするつもりらしい。


「エルザやラクサスを倒すにはもっと力をつけねえとな」
「あいさー」
「今日は修行でオールだ」


恐ろしい会話を背後に冷蔵庫を開く。運動には水やお茶よりも、スポーツドリンクの方がいいだろうか。たまたま買ってあったその瓶を掴み、二人分のグラスにそそいだ。自分のは適当に用意をし、おぼんに乗せて運ぶ。ことり、と机にそれらを並べるのと、不意にナツが起き上がったのは同時のことだった。


「ルーシィ……オレ、決めたんだ」
「うん? なにを?」
「S級クエスト行くぞ!!」
「なんて??」


にっと挑戦的に笑うナツを見つめて思考を停止させる。初めて耳にした単語を噛み砕くように何度も脳内で繰り返していたら、飲み物に釣られてやってきたハッピーがグラスを置くなり、徐に懐から紙を取り出した。それは、一枚の依頼書で。まず、目に入ったのは島と月のイラストだった。それから桁違いの報酬額に視線が移り、最後に“Sクラス”というスタンプで止まる。

わななく唇で彼らに問うた。


「こ、これってミラさんが言ってた、あのS級クエスト……? 二人とも資格があったの?」
「ないよ。オイラが勝手に取ってきたんだ」
「えっ」
「とりあえず初めてだからな、二階で一番安い仕事にしたんだ。それでも七百万Jだぞ」


断じて、そういう問題ではない。あまりの情報量に混乱する頭をそのままに、とにかく引き留めなければまずいことだけは理解した。慎重に口を開く。


「待って、だめだよ……私達にはS級に行く資格はないんだよ?」
「これが成功したら、じっちゃんも認めてくれるだろ」


純粋な明るい笑顔を前に、つい閉口してしまった。続けようとした言葉が喉の辺りで詰まる。本気でそれを信じてやまない、という表情だったから。それでも、やっぱり引けなかったのは、ミラさんの説明が脳裏を過ぎったためだ。


「死を……死を招くほどに危険な仕事なんでしょう? 危ないよ、ナツ。お願いだから考え直して……?」
「む」
「それに、ギルドのルールならちゃんと守らないと」


何か思い当たるような顔をしたナツがぐっと眉を寄せ、しかしすぐに目を伏せた。いつものマフラーを中途半端に巻いた状態で、いじけた子供みたいに呟く。


「そしたらいつまでたっても、二階に行けねえんだよ……」
「…………ねえ、ナツ」


そっと名を囁いて、俯いた顔に手を伸ばす。頬を両手で包み、目線を合わせるために彼を見上げた。そうして、小さな子を諭すように、優しく優しく台詞を紡ぐ。目の前の黒い瞳が、微かに揺らいだ気がした。


「私ね……自分が痛いのも死ぬのも怖いけど、同じくらいナツとハッピーが傷つくのも見たくないよ」
「……」
「それから、決まりを破るってことは信用を失うことと同義なの。例え、その依頼を完璧にこなしたとしても、一度失くした信用は取り戻すのが難しい……。きっと、ギルドで過ごしにくくなる」


ね、先のことまでちゃんと考えた結果なのかな。纏まらないなりにゆっくりと言葉を選びつつ、一応は伝えたいことを言い終えた。あとは彼の選択次第。どうか、届いてほしいと願いながら手を離そうとすると、ふと彼に手首を掴まれて動けなくなる。ぎゅうと力の篭る熱い掌。汗で崩れた前髪が目元を隠し、彼が今どんな表情をしているのかがわからなかった。しばらくそうして静止していた彼は、やがて極々小さな声で「わりぃ」と一言だけ告げ、くるりと身を翻す。


「んじゃ、帰るわ。行くぞハッピー」
「え、うん……」


ぱっと雰囲気を変えたナツが戸惑い気味のハッピーをつれて窓枠に足をかける。了承してくれたという意味でいいのだろうか。ルールを守るのは当然のことだし、危険を避けてほしいと願ったのも本心だ。正しいと思ったのも。でも、彼の後ろ姿を見たら、何故だか無性に酷な現実を突きつけてしまった気がして。その姿が窓の外で朧げに消えてしまうのでは、と少し恐ろしくなる。

だから、彼の黒い羽織りを掴んでしまったのも無意識だったのだ。


「……ルーシィ?」
「あ、いや、ごめん……なんでもない、」


目を丸くして振り向いた彼に、はっと我に帰る。慌てて手を離したのは、自分でも行動の理由がわからずに戸惑っていたからだ。ほんのりと跡のついた羽織りが、風に揺れて元の形へと戻っていく。気まずい思いでそれを見つめ、苦々しく視線を逸らしたのとほとんど同時。ぽん、と頭に軽い重みが加わった。ぱちり。目を瞬く。ただ現状が理解できずに茫然としている内に、その温かな手が数度微かに動き、そして離れていった。


「?? な、なに……?」
「? わかんねえ、つい」


首を傾げるナツにこちらも首を捻っていると、窓枠に立つハッピーが両手で口元を押さえて何かを囁いた。……気がしたのだけれど、上手く聞き取れなくて。結局、二人は何事もなかったかのように窓から帰って行った。

彼の温もりが残る髪に指先を触れさせながら、いつの間にか空になった二つのグラスを眺める。どういうわけか、妙に冷たい予感が胸を締め付けていた。ざわざわと落ち着かないその訴えを、しかし考え過ぎだろうと無理やり奥に押し留める。明日一緒にギルドに謝りに行こうと、それだけを考えて。




「ねえ、ナツ。本当にルーシィ置いて行っちゃっていいの?」
「おー、しょうがねえだろ。元々危ねー仕事はしない約束だしな」
「ルーシィ、きっと悲しむよ」
「……オレだって色々考えたけどよ、やっぱS級行くのが手っ取り早いと思うんだよなぁ」
「そっか……ナツ、ルーシィと会ってからちょっと大人になった?」
「はあ?」
S級クエスト