▼ ▲ ▼


ベッドの下に置き去りになっている依頼書を見つけたのは、翌日の朝のことだった。寝ぼけ眼でそれを眺めた数秒後。ひょっ、と変な呼吸で紙を取り落としたのも、勢い余って尻餅をついたのも、もはや仕方のないことである。完全に反応が天敵に出会した時のようなそれだった。もっと言えば、どの家庭でも歓迎されない黒や茶色のあの虫と会敵した瞬間とよく似ていた。とにかく、それほどの衝撃が走ったのだ。

てっきりナツとハッピーが持ち帰ってくれたものだとばかり思っていたのに、これではまるで私が盗んだみたいではないか。その考えに至ってしまうと、もうどう頑張っても落ち着けなかった。S級クエストなんてやばい代物を持った上に、ルールを破りかけているという事実が重なっているのだ。平静を保てるはずもなければ、罪悪感に勝てるわけもない。

結果、ギルド内で今回の不祥事が発覚する前に依頼書を返しに行きたいと、慌てて身支度を整え、ナツとハッピーの家に向かうことにした。この状況の中、一人でギルドに入るのは心細かったからだ。別に、彼らが家にいなくても構わなかった。すでにギルドにいるのなら、そちらで合流すれば済む話なので。

しかし、いざ。街外れに佇む人気のない二人の家を前にすると、何故だか昨日の嫌な予感が再び首をもたげてしまった。


「ナツ、ハッピー?」


ノックをしても返事はなく、物音もせず。窓の奥を遮るカーテンの隙間から、ほんの少し部屋の中が窺えた。案の定、無人であった。ひやりと冷たい感覚が体を這い上がり、それを振り払おうと懸命に駆け出す。きっと、大丈夫。悪い想像通りにはならない。そう信じて、早く早くと来た道を戻っていく。

けれど、そうして辿り着いたギルドでーー。


「なっ、ルーシィ!? ナツやハッピーと一緒だったんじゃ……っ!?」
「おい、待て! だったら、あいつらは二人だけで向かってんのか!?」
「……ほう、なんだ新人の方はちゃあんとルールを守れるみてぇだな。よかったじゃねえか、じじい。身の程を弁えた賢いお嬢ちゃんは死なずに済んでよ」


ーー昨日のナツが言っていた“わりぃ”の本当の意味を悟る。

ギルドの扉を潜り抜けるなり、騒然となっていたメンバーの視線が一気にこちらへと集まった。普段なら身を小さくしていたであろうその状況も、今は全く気にしていられなくて。周囲の表情や声音ですら、どこか幻を見ているように朧げで。会話をきちんと拾えているかも定かではない。肩で息をしながら、忙しなく辺りを見回す。見慣れてきた桜色も、青色も、やっぱりそこにはなかった。

冷たい冷たい氷で覆われたように、心臓がひどくぞっとした。


「お、おい、ルーシィ?」
「大丈夫かぁ? 顔色がよくねえぞ……」
「……っあの、ナツとハッピーは……来て、ないんですか?」


声をかけてくれたのは、一番入り口から近いテーブル席に座っていたマカオさんとワカバさんだった。疲労を訴える身体でふらりと近づき、二人に尋ねる。ギルド内の様子でもうわかりきっていることをあえて聞いたのは、ただ違うと否定してほしかったからだ。まだ来ていないだけ。あるいはどこかに出かけているだけ。そう、言ってほしかった。


「いや、ナツ達から聞いてねえのか……?」
「てっきりルーシィも、あいつらに連れられてS級に向かっちまったのかと……」
「……やっぱり、そう、ですか。ありがとうございます」


さあっと血の気が引いていく感覚がした。ぐるぐると胸の中で後悔が渦巻く。昨日の予感を無視した結果がこれだ。もっとちゃんと引き留めるべきだった。二人の様子を見ておくべきだった。この場でそれを知っていたのも、止める機会があったのも、きっと私だけだったのに。俯き、目を伏せ、深く息を吸う。そうして、くるりと身を翻した。


「これっ、待たんか、ルーシィ! どこへ行く気じゃ!」
「ルーシィ!? まさか、ナツを追うつもり!? 本当に危険なのよ!」
「すみません……っ! 連帯責任ですから、ちゃんと連れ戻します……!」
「それは今からラクサスにでも、っておい! 闇雲に動くでないっ! そもそも、どうやって追跡するつもりなんじゃ!」


後ろからマスターやミラさんの声までもが聞こえてきて、その焦りように今回の事がどれほど危険な行為なのかを嫌でも理解させられた。けれど、頭の冷静な部分はしっかりと生きている。幸いギルドの出入り口は近い場所にあった。誰かに止められる暇もなく、そこを駆け抜ける。

ちょうど扉を潜る瞬間、走りながらも意識して片腕を振るった。目の前の空気を裂くように。邪魔なものを退けるように。そして、何かに命ずるように。強く、明確な意思を持って。どうしてそうしようと思ったのかはわからない。けれど、この瞬間、できると確信していた。いや、不可能を想定していなかったというべきか。同時に呼びかける。


「プルー! あなたの力を貸して……っ!」
「ププーン!!」


ぽんっと軽い音を立てて白い小犬が現れた。緊急事態を察しているのか、黙って隣を駆けてくれる彼に真摯に願う。


「お願い、ナツとハッピーの匂いを辿ってほしいの……!」
「プン!!」


心得たとばかりに一つ頷き、ぐんと走る速度を上げたプルーの後を必死に追いかけて行く。この時、すでに後方へと離れていたギルド内の会話は、もちろん知る由もなかった。


「に、匂い!? あの星霊そんな使い方があったのかよ」
「いや、それより今、無詠唱で呼び出さなかったか?」
「鍵すら構えてなかったぞ……」
「マスター……ルーシィのあの様子、きっとナツとハッピーを一度は引き留めたんじゃないでしょうか?」
「ああ、そうじゃろうなぁ……あのバカどもめ。チームメイトの忠告ぐらい聞けい、全く。おい、ラクサス! 今すぐ全員連れて来んか!」
「冗談……オレはこれから仕事なんだ。てめえのケツを拭けねえ魔導士はこのギルドにはいねぇ。だろ?」
「今ここにいる中でオマエ以外、誰がナツを力ずくで連れ戻せる!?」
「……じーさん、そりゃあ聞き捨てならねえなァ」




ナツとハッピーの匂いが途切れていたのはマグノリア駅だった。忙しなく辺りを見回し、やがてプルーがふるふると首を横に振る。


「プーン……」
「落ち込まないでプルー。大丈夫、十分だよ。ありがとう」
「ププ?」


足元の彼を持ち上げて、ぎゅうと労わるように抱きしめる。強がりではなく、本当に十分だった。プルーを肩に乗せ、懐から返しそびれた依頼書を取り出す。場所はガルナ島。呪われた島とも呼ばれているらしいその孤島へ向かうには、おそらく船で海を渡る他ない。島の位置関係からも、二人はまずハルジオンの港を目指したはず。人とぶつからないように細心の注意を払いながら、駅内を駆け、今まさに出発する直前の列車に飛び乗った。

息が乱れ上下する肩を、不意に背後からぽんと叩かれる。ひゅっと一瞬だけ呼吸を止め、反射的に振り返った。目を見開く。


「グレイ……!?」
「お、おまえ……この前走った時はそんなに速くなかっただろ……」


ぜえはあ、とこちらよりも荒い呼吸を繰り返すグレイを前に唖然と固まる。どうしてここに彼がいるのだろう。予想していなかった人物との出会いに思考が鈍くなり、しかし肩の上にいるプルーの小刻みな振動ですぐに我に帰った。あちぃ、とぼやく彼が腕で額を拭い、あろうことか流れるように服を脱ぎ出すので、慌てて裾を掴み阻止する。おいおいおい、所構わず肌を晒すのはやめなさいって。ここ列車内だぞ。


「こんなところで脱がないでよ、捕まっちゃうって……」
「うお、すまん。つい」


指摘されて初めて気がついたのか、彼がはっと動きを止めた。その際に持ったままの依頼書がかさりと音を立てる。しまった、と何故か後ろめたい気持ちになったが、時すでに遅し。依頼書に目をやった彼はそれが何かを理解しているように、するりと手の中から奪っていった。反射的に取り返そうと腕を伸ばす。しかし、高く掲げられてはどう足掻いても届かなかった。なんということか。まるで、程度の低い小学生の悪ふざけである。

そうこうしている内にグレイがくるりと背を向けた。依頼書を片手に空いている座席を目指して行く。しばらくその様子を茫然と見送り、けれども大人しく追うことにしたのは、ようやく無理に回収しなくてもいいと思い至ったからだった。ギルドに返しそびれたとはいえ、いずれ返却する予定なのだ。今焦っても仕方がない。

それより、どこから説明をするべきだろうか。そもそも、ギルド内に彼の姿があったかさえ曖昧だ。それだけ気が急いていた。うんうんと頭を悩ませつつ席に座る。そうして、こちらが口を開くより早く、グレイが呆れたようにぼやいた台詞によって考えていたどれもが必要のないものであることを知った。


「ったく、あいつら何やってんだか。おまえが行かないのはなんとなく想像がつくけどよ」


窓枠に肘をつき、彼が半目で依頼書を睨む。はあ、と重々しいため息がこぼれれば、なんだか責められているような心地にもなった。きっと、彼は問題が発覚し騒つくギルド内にいたのだろう。それならば、大方の顛末は知っているはずだ。居心地の悪さを誤魔化そうとプルーを抱きしめながら、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「……これでも、一応は引き留めたんだよ。ちゃんと通じたかと思ってた……でも、だめだったみたい」


視線を落とす。無性に情けなく、悔しかった。彼らが最終的に何を選ぼうが自由だと思うのに、反対にひどく心は軋んで痛む。裏切られたような気持ちになってしまうことも、そんな気持ちを抱いてしまう自分自身も嫌でたまらなくて。ぎゅうと唇を固く結ぶ。あー、とグレイの気まずげな声がした。


「別にルーシィのせいじゃねえだろ。あのバカが勝手に突っ走りやがったんだ。つか、それを今から一緒に止めに行くんだろうが」
「え……? 二人を止めるために来てくれたの?」
「今更だな……。おまえ一人じゃ力ずくでナツを連れ戻せねえだろ?」
「あ、言われてみれば……」
「おいおい」


あんな風にギルドを飛び出してしまったから、ナツやハッピーよりも先に連れ戻されるのかと思い込んでいたが、どうやら違ったらしい。途端にほっとして肩の力が抜ける。巻き込んでしまって申し訳ないと思うと同時に、心強くもあった。ありがとう、と向かいに座る彼を見上げてお礼を告げる。ぶっきらぼうに「おう」とだけ返ってきた。


「まあ、心配しなくともあいつしぶてぇし。案外けろっとしてるだろ」
「……私、そんなに切羽詰まって見える?」


読み終わったのか、彼がこちらに依頼書を差し出す。それを受け取りつつ首を傾げると、きょとりとした黒い瞳と目が合った。自分が焦っている自覚はある。けれども、指摘されるほどだと思うとどうにも納得がいかない。というよりも、気恥ずかしかった。そして、何よりも、恐ろしい。自分はいつの間に彼らを大切に思い、この世界に溶け込み始めてしまったのだろう、と。


「……そりゃあ、な? おまえら仲良いからさ。ハッピーも」
「そっか……」
「正直、意外ではあったけどよ。あのナツが特定の誰かと組むなんて。しかも上手くやってるみてーだし」


ただし、今回は上手くいかなかったわけだが。彼のどこか励ますような温かな口調に、さすがにその言葉は呑み込んでおいた。プルーを膝に乗せ、返ってきた依頼書をもう一度読み直す。報酬の欄に描かれた鍵のマークをそっと指先でなぞった。

金の鍵。十中八九、黄道十二門のことだろう。二人は初めてだから安い報酬を選んだ、なんて言っていたけれど、なんとなく意識してこれを選んでくれたような気がして。ただの都合の良い妄想かもしれない。しかし、そう思い至ったのは、いつも安全そうな仕事を選んでくれる彼らがいたからだ。勝手気ままに振る舞う一方で、他人を思いやる性格なのをすでに知ってしまっている。


「二人とも無事だといいな……」
「……だな」


窓の外を見つめて小さく呟いた祈りは、すぐそばにいるグレイに肯定してもらえた。普段は喧嘩ばかりしているくせに、この瞬間茶化すことをしなかったのは、きっと彼の優しさだったのだろうと思う。




「……ところでグレイ。この数秒でどうやって服を脱いだの?」
「んなっ、いつの間に!?」
「(もはやマジシャンのレベルだなあ……)」
白の追跡者