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ちゃぷん。船乗りの操るオールが海水を跳ねさせ、空中に雨粒のような滴が舞った。
ゆらゆらとゆっくりに、けれども確実に大海原を進みゆくボートはやけに静かな雰囲気を保っている。穏やかではあれども、波によって不安定を強いられる感覚はなんとも落ち着かないものであった。ハッピーはボートの先頭を陣取り、きらきらと輝く瞳で海を眺めている。ナツは例の如く酔っているため非常に顔色が悪く、今にも海に落ちてしまわないかと心配になった。
「う……」
ふと、気絶させられていたグレイの瞼が微かに震えたのは、ボートが沖合に辿り着いた頃だった。決して柔らかいとは言えない素材のせいか、彼の眉が居心地の悪さを訴えるように小さく寄せられていて。せめてもの気遣いとして膝を差し出したのだが、あまり効力はなかったのだろうか。もぞもぞと動き出した彼の顔を、そっと覗き込む。睫毛がほんの少し揺れたから、覚醒が近いのかもしれなかった。なるべく頭に響かないように意識して、優しく彼の名を囁く。
「グレイ」
「ん…………ルーシィ……?」
「大丈夫……? どこか痛いところとかない?」
ぴくりと反応を示した瞼が薄らと開かれた。現れた黒い瞳が数度瞬きを繰り返す。ぼんやりと焦点が合わない様子の彼をじっと見つめていると、ふと左の頬の仄かな赤みが気になった。おそらく、ナツが港で“蹴った!”と言っていた被害のそれだろう。ひどく気の毒だった。巻き込まれ事故にも程がある。今となっては共犯者の私が憂う資格なんてないのだけれど。
手を伸ばしたのは、深く考えた末の行動ではなかった。熱が孕んでいるかもしれない。と、ただそれだけ。普段の肌色とは違い、ほんのりと痛々しく色を変えたそこへ指先が触れる。直後。はっと息を呑んだグレイが、がばりと勢いよく上半身を起こした。反射的に身をのけぞる。ふわりと自分の前髪が揺れて戦慄した。ず、頭突きされるかと……。
「は、おま、膝……?? てか、海!? ちょっと待て! どういう状況だこれ!?」
「お、落ち着いて……ちゃんと説明するから」
すでに遠く離れたハルジオンの方角を見やり愕然としているグレイに、彼が気絶してからの顛末を掻い摘んで話していく。エルザが止めに来るのを恐れ、グレイを連れて行くとナツが言い出したこと。ハッピーを含めた二人を説得できないと諦めた上、協力するために共にS級クエストへ向かうと決めたこと。
最後に誠心誠意を込めて頭を下げたのは、彼に対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったからだ。同じギルドのメンバーがルールを破ると知って窘めに来たはずなのに、いきなり蹴られて気絶した挙句、目を覚ませば海のど真ん中。あまりにも不憫である。
「ごめんなさい……せっかく手伝ってくれたのに、私が先に諦めちゃって……。あなたを巻き込むことになってしまった」
硬い木の底に正座した足がじわじわと痛みを訴える。それでも、体勢は崩さなかった。相手に示せる精一杯の態度なんて、このくらいしか思いつかない。ぎゅう、と膝に置いた手で拳をつくる。俯いた視界の一部をはらはらと落ちてきた髪が覆った。それに隠れて、一度唇を結ぶ。目を伏せ、再び紡ぎ出した声は、きっと震えた情けないものだった。
「本当にごめんなさい……!」
反応が怖くて顔を上げられない。けれど、そう思えたのは数瞬のことだった。「お、おいルーシィ!」彼の虚を衝かれたような声音がすぐそばで聞こえ、同時に両肩を掴まれて上体が後方に傾く。油断していたせいでされるがままだったから、頭も自動的に元の位置に戻ってしまった。揺らぐ視線の先で、あからさまにほっとした表情が映り込む。それは、想像していたどの態度とも違っていて。
戸惑っている内に、彼がぱっと身を離した。首の後ろに片手をやり、ばつが悪そうに目を逸らす。
「いや、気ぃ抜いて一撃もらったオレも悪いしな……」
「そ、そんなことない」
「つーか、元はと言えばそこのクソ炎が悪いんだろうが。やっぱオレ達のせいじゃねぇ」
でも、どうすっかなァ。呟いたグレイが深いため息をつく。もう一度、後方のハルジオンを振り返る彼の横顔は、難問に直面した際のように歪められていた。先程よりもさらに彼方へと離れてしまった港に、絶望的な想いを抱かざるを得なかったのだろう。ふと彼の魔法なら海を凍らせて渡ることも可能なのではと思い至ったのだけれど、さすがに距離があり過ぎるのかその方法を選ぶ素振りはなかった。どうやら前の世界で見た童話の女王様のようにはいかないらしい。
「おい、オッサン。なんで急に船を出したんだよ」
グレイがつと視線を上げ、船乗りに問いかけた。半ば睨みつけるような双眸。そこには確かな非難の色が含まれていたものだから、飛び火を送ってしまったことに居た堪れなくなる。しかし、船乗りは気にした様子もなく一度グレイに目を向け、また前を見据えた。オールが静かに波をかき分ける。
「……オレの名はボボ。かつてはあの島の人間だった……が、逃げ出したんだ。あの忌まわしき呪いの島を」
「ねえ……その呪いって?」
海を見下ろしていたはずのハッピーが話題に釣られてか、とことことこちらにやって来た。それに対して船乗り、ボボさんは躊躇うように一瞬だけ瞳を伏せる。僅かな違和感がどこかへ触れた気がした。まるで、何かを隠しているような……そんな曖昧さが疑念を抱かせる。
呪いの正体がどういったものかは知らない。けれども、魔法なんてあり得ない空想の代物がそこかしこに広がる世界だ。目に見えない力が他にあったとしてもおかしくはない。故に、呪いという存在を疑うつもりはなかった。それでも、あらゆる可能性を考慮していると、思ったよりも早く彼が先を告げる。
その身に宿した呪いを、この世のものとして。
「禍は君達の身にもふりかかる。あの島へ行くとはそういうことだ……本当に君達にこの呪いが解けるのかね?」
ーー悪魔の呪いを。
不意に強い風が吹き抜けて、ボボさんの外套をさらった。ふわりと翻る薄い布。その下から現れた左腕に、ひゅっと無意識に呼吸を止めてしまった。
「オッサン、その腕……」
グレイの驚愕を伴う微かな声が空気に溶けてゆく。およそ人間とは思えない異形が、そこにはあった。あまりの衝撃から言葉も紡げなくて。震える唇を隠すように、そっと手で覆う。変色し、肌色を失った皮膚も。変形してしまった腕も。現実味がない事象のはずなのに、いやにリアルに感じられて。じわりと精神が蝕まれたような心地がしたのは、初めて呪いの恐ろしさが明確な形を持ったからだろうか。
「……見えてきた、ガルナ島だ」
こちらの動揺には一切触れずにいたボボさんが、不意にすうっと前方を差し示す。何気なくその先を視線で追うと、ぽつりと海に浮かぶ孤島が見えた。何故だか禍々しく思えてしまうのは、たった今呪いを目の当たりにしたからか。
果たして、本当にそれがただの先入観のみでもたらされる感覚であったのか。この時点では、まだ判らぬことばかりだった。
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「あの、ボボさん……島の呪いについてもう少し詳しく……え??」
「どうし……は!?」
「ルーシィもグレイもなに、さ……あ!?」
「おい、あのオッサンどこ行った!? 落ちたのか!?」
「オイラ見てくる!」
「あ、ハッピー……!」
呪われた島