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ギルド内であれだけ問題になっていたS級クエストだ。そこに関わるのならば、きっと中途半端な覚悟ではいられない。怖気づく心を叱咤し、いつも以上に気を引き締める。そうして、情報収集のために振り返った先、けれども求めていた人物の姿は無くて。

忽然と消える様は、まさに幻のようだった。茫然と彼のいた場所を見つめている内に、異変に気づいたハッピーが海に飛び込んでいく。ばしゃん、と海水が跳ねた音で我に帰った。


「ハッピー、水……大丈夫なの?」


慌てて海面を覗き込み、ぽつりと呟く。ゆらゆらと揺れ動く波。さらに反射する太陽光に邪魔をされ、ボートの上からでは水中の様子までは窺えなかった。もしも、ボボさんが危険な状況にあるのなら、一刻も早く助けなければならないとは思う。しかし、それ以前に猫は基本的に水が苦手な動物ではなかっただろうか。助けに向かう方が溺れてしまっては本末転倒である。

双方の身を案じて、はらはらと見守っていると、やがてぽこりと青い頭が浮上してきた。どうやらハッピーは泳げる猫らしい。ひとまず安堵したのも束の間、暗い表情で首を横に振った彼に事態が芳しくないことを悟る。


「いないよ!」
「え、まさか……もう波に流されて……?」
「お、おいおい嘘だろ……っ! ハッピー! 早く戻って来い!!」
「ひゃ……!?」


それは、突然のことだった。お腹の辺りに誰かの腕が回り、前屈みになっていた体がぐんと後ろに引き戻される。抵抗なんてする暇はなかった。されるがままに小さな悲鳴をあげて、すとんと尻餅をつく。痛みよりも先に感じ取れたのは、背中に触れる低めの体温。次いで耳元を焦ったような吐息が掠める。視界の端でグレイの漆黒の髪が揺れていた。

何かから庇うかのような態勢に疑問を持ったのと、不自然な重低音に気がついたのはほとんど同時のことで。音の出どころを探ろうと顔を上げ、はっと息を呑む。大きな、大きな波が、今まさにこちらの小さなボートに迫っていたのだ。


「わあ、大波だぁぁあ!?」
「くっそ……っ、のまれるぞ!!」


冷たい水飛沫がいくつも降り注いで、頬を濡らしていく。体験したことのない巨大な波。十メートルくらいは優に超えていたかもしれない。目の前の状況が正確に処理できなくて、ハッピーとグレイの声ですらどこか遠くで響いている気がして。それでも、このままではいけないとようやく体が言うことを聞いたのは、グレイの腕が恐れるように強張ったのを一番近くで感じ取れたからか。


「冗談じゃねえ……! 島に着く前に死ぬ、」
「し、死なせない……っ!」


グレイの言葉を強く遮り、片手で探り当てた一つの鍵を前へと掲げた。それは、間違えようもないほど触れてきた彼女のもの。素早くハッピーに指示を飛ばす。


「ハッピー、ナツを支えていて!」
「! あいさー!」
「な、ルーシィ!? 何するつもりだ……!?」


翼で海から上がってきたハッピーがぴとりとナツの背にしがみ付いたのを横目に確認し、鍵に魔力を込めた。彼女に願いが届くように強く、強く。焦燥が滲むグレイの不安を取り除くには説明する時間がどうしても足りなかったから、未だに抱き留めてくれている腕にもう片方の手を触れさせた。やると決めて巻き込んだのは私だ。だからこそ、絶対に死なせたくはない。果たして、そんな想いはちゃんと伝わってくれただろうか。

自然界の脅威とも言える大波が差し迫る中、やけに冷静に台詞を紡げたのは、きっとかの人魚に対して絶大な信頼を抱いているからだった。


「ーー開け、宝瓶宮の扉! アクエリアス……っ!」


刹那、ボートを呑み込まんとする波の手前に、全く別の力で渦巻く水の螺旋が浮かび上がった。見慣れた金の光の隙間から、青空のような美しい髪がちらりと見えて。まだ危機を脱したわけでもないのに、つい安心してしまった。彼女はこちらを窺いもせず、わかっていると言わんばかりに水瓶を振り上げる。

その光景はモーセの海割りの如く。まるで、意思があるかのように大波が真っ二つに割れ、彼女と、彼女の背後にあるボートを避けていく。

ぐらぐらとひどく揺れはしたものの、転覆を免れたのは神がかり的な調節のおかげだろう。ややあって辺りの波が鎮まり、元の平穏な海に戻ると、ボートの上にほっとした空気が溢れた。グレイが脱力して後ろ手をついたので、よろよろとアクエリアスに近づく。まさに、今の彼女は救いの女神だった。


「アクエリアス、ありがとう〜……!!」
「ったく、おまえはトラブルメーカーか。危なっかしいったらありゃしねえ……おい、あんま乗り出すと落ちるぞ。戻れ」


心からの感謝を伝えようとボートのへりから身を乗り出していたら、見かねた彼女にぐいと押し戻された。代わりに近づいてきてくれる優しさが嬉しくて、へらりと笑うと指先で容赦なく頬を突かれる。たぶん、照れ隠しだと思いたい。そこではたと気づき、慌てて三人の様子を窺う。ナツもハッピーもグレイも、海に落ちた者はおらず、みんな無事のようだった。約一名は、相変わらず酔ってはいるけれども。


「ねえ、アクエリアス。この辺りの海に人の気配はある? 私達の他に船乗りさんがいたんだけど、いつの間にかいなくなっちゃって……」
「はあ? 船乗りィ?」


先程ハッピーが探してくれたとはいえ、波にもまれて遠くへ流されている可能性もある。アクエリアスなら海の中も把握できるだろうと期待を込めて見つめると、最初は怪訝な顔をしていた彼女も仕方がないなと言うように静かに瞼を閉じた。しばしの静寂。後に彼女は緩く首を振って、肩を竦めた。


「いや、この辺にはいねぇよ。海に落ちたわけじゃないのかもな……いるのは巨大ザメくらいだ」
「えっ、サメ?? 危ないよ、アクエリアス上がってきて……!」
「平気だっつーの。私が水中で、しかもサメごときに負けるわけないだろ」


戦慄してアクエリアスの腕をこちらへ引くものの、断固として海から動かない上にのんびりとへりに肘をついている。マイペースすぎて困ったが、なるほど確かにサメに限らず彼女が何かに敗北する姿は上手く想像できなかった。それに、ボートと海原という二つの要素が加わった光景は、ふとお伽話の人魚姫を連想させて。なんだか壊してしまうのがもったいない。そっと手を離すと、何故だかアクエリアスがすいと不機嫌そうに目を細めた。視線の先は私ではない。


「なあ、オマエ。まさかとは思うが、ルーシィの彼氏か?」
「はあ……っ!?」


素っ頓狂な声をあげたのはグレイだった。そりゃそうなる。私だって自分の名前を出されているのに、何のことだかさっぱりわからない。一体彼女の中で何がどうしてその結論に至ったのか。とりあえず、彼に申し訳ないので冷静に否定しておいた。そもそも、容姿の整ったグレイならすでに彼女の一人や二人はいそうなものである。わざわざ私に構う必要がない。


「ふーん? ま、いいか。惚れんなよ」
「……」


元々そこまで疑ってはいなかったのだろう。目を逸らして我関せずとだんまりを貫くグレイに、ガンを飛ばしたアクエリアスはあっさりと会話を打ち切る。妙なことを言わずとも、この世界の人物が、異世界から来た異物に対して惹かれるわけがないだろうに。汚名を被ったグレイを不憫に思い、話題を変えようと口を開く。


「アクエリアスこそ、この前のデートはどうなったの? 一週間もかからずに、すぐに戻ってきてたけど……」


それは、彼氏彼女の単語で思い出したハルジオンでの一幕。船を港に押し戻してもらった後に、「彼氏と旅行に行く」と嬉しそうに語っていたのだが……なんとびっくり。結局、その話は頓挫してしまったらしいのだ。宿の風呂場にて、阿修羅を幻視するほどにどす黒いオーラを纏う彼女とかち合った記憶が脳裏を過ぎり「言いたくなかったら、無理に話さなくてもいいからね」と付け足す。眉根を寄せたアクエリアスがむっと唇を尖らせた。


「あー、あれな。なんか向こうのオーナーの急用だってよ。……ったく、星霊をなんだと思ってやがる……。おい、聞いたからには今度愚痴に付き合えよ」
「う、うん、もちろん。アクエリアスの恋バナ聞きたい……!」
「愚痴って言ってんだろ」


ぺしり。加減された力で軽く額を弾かれる。大して痛くもないが反射的にそこを手で覆っていると、呆れたような、力の抜けた笑みを一瞬だけ口元に浮かべた彼女がさっと辺りに視線を走らせるのが見えた。「あの島にでも行くのか?」つられてそちらを見やり、頷く。まだ少し距離はあるものの、確かに目的地であった。


「来たついでだ。手伝ってやるよ」
「ありがーー」


ありがたい申し出に何の躊躇いもなく礼を紡ぎかけ、はてと固まる。手伝うとは? どうやって? なんとなく嫌な予感がして、ぎぎぎと油の切れたロボットのように島から彼女へと顔を戻す。果たして、そこには水瓶を構えた美しい人魚がいた。挑発的な笑みに、さあっと血の気が引く。


「ルーシィ。さっき言ってた船乗りだが、たぶん死んじゃいねえ。気にすんなよ」


凪いでいたはずの海がざわめき出した時、ぽつりと真剣な声音でそんな言葉を残された。しかし、それについて言及しようとした頃にはもう、すでにボートは突如出現した波に押し上げられる間際で。刹那、自分達を襲う衝撃を予測した私は、声を張り上げて三人に注意を促すことしかできなかった。


「みんな! どこかに捕まって……っ!!」
「は?」
「え?」
「うぷ」
「じゃあな、楽しんでこいよ。オラァッ!!」


その日、ボートが見事に宙を飛んだ。

辺りにはハッピーとグレイの絶叫が響き渡り、耐えきれなかったナツはふよふよと魂を彷徨わせていたのだった……。


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「おい、ボート木っ端微塵じゃねえか……」
「う……? 止まった! やっと着いたのか!?」
「いたた……い、生きてる……」
「オイラ、あんなに危険な船旅初めてだよ……」
たゆたう水の支配者