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 ポケットにしまっていた二つの鍵を取り出す。どちらがアクエリアスのものかはっきりと断定はできないが、おそらくは水瓶座の方だろうと思う。少なくとも彼女は蟹ではなかった。
 蟹座の鍵を再びポケットへとしまい込み、手元に残った波を模したようなマークの持ち手を軽く握る。子供の手と比べると鍵がより大きく見えて不思議な感覚だった。


「…………?」


 しかし、魔法を使ってみたいという漠然とした憧れはあれど、具体的に何をどうすれば良いのかさっぱりわからない。前の世界ではそういうファンタジーなものといえば漫画や小説、アニメの中だけの空想の存在だったのだ。故に、現実で魔法に関わることなんて絶対になかった。妄想も幻想も「あり得る」世界は今まで「なかった」からこそ魅力的に思える。が、実際は自分が魔法を使うイメージすらまともに想像ができない。
 はて、ヒロインはどのように呼び出していただろうか。そっと目を瞑り、記憶を頼りに瞼の裏にその姿を思い起こしてみる。

 金色の鍵と、光。まるで、空中に浮かんだ鍵穴へと差し込むかのような動作。掲げられた腕は、まっすぐ前へ。それから、何か……彼女を呼び出すための呪文を唱えていたはず……。
 どんな言葉だっただろう。自分の前に掲げた鍵の先端を見つめてから、もう一度瞼を閉じる。ヒロインが青い人魚を呼び出すシーンを繰り返し脳内で再生した。そうして、思い出す。そうだ、確か「開け」から始まる台詞はこんな感じだった。

 ゆっくりと息を吸い込み、呼吸を整える。凪いだ湖面のように気持ちが落ち着いてゆく。先程は上手くいかなかったが、ヒロインを手本に、その行動を違えずなぞるようなイメージなら──。


「……開け。ほうへいきゅうの扉、」


──アクエリアス。

 極々小さな声で名を紡ぐ。途端に辺りが静寂に包まれた。
 一秒……何も起こらない。二秒、物音ひとつしない。三秒、前述通り。四、五……何秒経っても特に変化はない。ぷるぷると腕が震える。そして、十秒に満たないくらいで、自分の羞恥心に負けた。ぱっと目を開いてその場に蹲り、頭を抱える。

 何をしているのだろうか、私は。たった十数秒の間に、未だかつてないほどの黒歴史を作り出してしまった。恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。だめだ、死にそう。なかったことにしたい。こういうのは我に帰ってからが一番つらいのだ。何が「花瓶の水で呼び出せるなら、金魚鉢でもできるんじゃない?」だ。無理に決まってるだろうが。完全にどうかしていた。
 例えば、この世界に本当に魔法があるのだとして。それを誰もが使えたとして。使い方をよく知りもしないただの子供が、面白半分で扱えるものだろうか。仮に、私がヒロインと“同じ”だったとしても、きっと同様だ。だって、中身が違えばその時点で全く同じ存在ではなくなっている。彼女に宿っていた力が、同じく私にもあるとは限らないのだ。


「……寝よう」


 早く自室に戻りたい。そうして、頭から布団を被り、しばらくの間引きこもりになってやるのだ。この忌々しい記憶も睡眠を貪れば少しは消えてくれるはず……。そうだ、踏ん張れ自分。気を確かに。ゆらり、と立ち上がり、踵を返す。

 その時だった。
 片手に持ったままの鍵が、ほんのりと、薄っすらと、暖かくなったような気がして。


「え……?」


 辺りを見回すが、特に目立った変化はない。やっぱり、この鍵からだ。視線を手元に落とす。なんだか先端の方が微かに光を帯びているような……。……うん??
 当然の怪奇現象に脳が停止した刹那、淡かったはずの光がピカッ! と一際強く瞬いた。驚いて肩を揺らす。油断しきった体はいとも簡単に鍵を取り落としていた。床とぶつかり合い金属特有の音が廊下に響く。傷物になったら洒落にならないと慌ててそれを拾うのと、ぴちょん、と何やら水が跳ねるような音がしたのは同時の出来事であった。

 恐る恐る振り返る。音の発生源は例の金魚鉢だった。変わらず夕焼けに染まっているそれは一見何の変化もないようだが、しかし先程とは決定的に違う部分が存在していた。ゆらゆら、ゆらゆら、と。水面が、揺れている。
 無意識に一歩後ろに下がった。泳いでいる金魚のせいではない。そんな小さな揺らぎではなく、地震などの別の力が加わったみたいに不自然なもので。波打つ水面に心なしか中の金魚ですら驚いているような気がした。表情は全くわからないけれども。


「ひっ、な、なに……」


 ポルターガイストのようで少々、いやかなり気味が悪い。というか、実は本当にポルターガイストなのでは……?
 逃げ腰になったその瞬間、それまでの現象が嘘のように、しんと波が静まった。しかし、安堵する暇もなく、今度は丸い波紋が中心から外側へ向かって何度も作られては消えていく。ぽちゃり、と真ん中に一瞬だけ雫の王冠が見えた。


「……!!?」


 そして、次に目の前で起きたことに、私はこれまでにないほど大きく目を見開いた。驚きすぎてもはや声が出ない。意識して瞬きを繰り返してみるが、どうやら夢でもなければ幻覚でもないようで。一体どんな力が働いているというのか。私にはさっぱり理解できなかったけれど、それは確かに嘘やまやかしの類いではなかったのだ。
 何らかの力に操られるようにして飛び出した金魚鉢の水が、空中で螺旋を描く。透明な水に朱色の光が反射して、ともすると炎のようにも見えた。風もなく、振動もなく。おそらく科学的な働きかけはなかった。にも関わらず、くるくると独りでに渦巻きながら宙に浮かぶ様は、完全にこの世の現象ではない。少なくとも前の世界ではあり得ないことだ。

 渦潮が徐々に大きくなって、ぐっと引き寄せられるように中心に集まる。呆然と眺めていると、その中に何かの輪郭が形作られているのに気がついた。もしかして、と確信に近い予想を立てた時、ぱしゃあと“その人”が纏っていた水が四散した。


──他でもない。私が呼び出そうとした人物……“青い人魚”がそこに居た。
世界の繋ぎ方