▼ ▲ ▼
ざあっ、と穏やかな波の音が鼓膜を震わせる。生暖かい風が少し気持ち悪い。地面に手をつくと、コンクリートとは程遠い砂の感触がした。
「ここが、ガルナ島……?」
砂浜に打ち付けられた体がじんと痛む。辺りを窺うと他の三人も無事、と形容して良いのかはわからないが、生きてはいるようでひとまず安心した。アクエリアスのことだから、死なせるつもりなど毛頭なかったのだろうけれど。しかし、彼女によってダイナミック上陸をかましたボートはその勢いのまま岩にぶつかったらしく、見るも無残な姿となっていた。これでは再び海を渡ることはできないだろう。つまり、引き返す手段は断たれた。進むしかない。
だんだんと落ちていく太陽に目を細める。夕日はとても綺麗だが、同時に時間の経過を思わせて少し気が急いてしまう。このまま野宿になるのだけは勘弁してほしい。前方は海原で、後方はジャングルのような鬱蒼とした森だ。変な虫とか獰猛な動物だとかに襲われないという保証もない。それに、考えなければならないこともたくさんある。ボボさんの行方や、彼の言っていた呪いについて。それから……。
「ルーシィ! ほら、座ってないで早く探検行こーぜ!」
「わ、ちょっとナツ……!?」
ふと、明るい声に腕を引かれて思考が遮られた。反射的にそちらを向く。と、何がそんなに楽しいのか、まるで初めて来たショッピングモールにはしゃぐ子供のように、きらきらとした笑顔がそこにあって。ぐっと、力強く砂浜から引き起こされる。どうやら先程まで飛び去っていたはずの魂は彼の元に戻ってきたらしい。相変わらず、平時と乗り物酔いの時との差が激しい人である。
こちらにやってきたハッピーにも背を押され、このままではいよいよ探検へ繰り出しそうだと慌てて口を開く。
「ま、待って。探検はまた明日ね。今日はもう日も暮れそうだし、村に行かない?」
「村?」
「うん、この島には村がひとつだけあるんだって。そこの村長さんが今回の依頼主。だから、まずは話を聞きに行こうよ」
これらは全部、依頼書に記載のあった内容だ。もちろん、盗ってきた当人である彼らはすでに知っていただろうし、ギルドの先輩たる二人がまさか依頼人を二の次にして本気で遊び呆けるなんてことはしないだろうけれど。……しないよな? やや不安にはなったものの、しかし敢えて今この案を拒否する理由もないと思う。何せ、情報を集めることはそれ即ち、彼が達成したいと願ってやまないS級クエストの成功率を上げることに繋がるので。
何故かこちらをじっと見つめたままに黙するナツに首を傾げているうちに「ルーシィがそう言うなら」と、ハッピーの方から先に肯定の声があがった。翼をしまい、よじよじと肩に登ってきた彼の頭を撫でる。だって、毎度のことながら可愛くてつい。ほとんど条件反射のその行動にナツが不意に雰囲気を和らげ、ゆるりと口元を綻ばせた。「ん、じゃあそうすっか」閉口していた割には思いの外あっさりと腕を離し、次いで何やら辺りを嗅ぐような動作をする。
「たぶんこっちだ。人っぽい匂いがする」
「匂い?」
「ナツは鼻がいいんだよ。ルーシィのプルーみたいにね」
「そうなの? それはすごいね……」
思い返してみれば、これまでに匂いがどうとかと言っていた場面もあった気がする。しかし、そう簡単に人間が匂いを詳細に判別できるものだろうか。試しにすんと意識して空気を取り込んでみた。が、案の定強い潮の香りが肺に広がるのみで、違いなんてさっぱりわからない。そもそも、彼の言う“人の匂い”とやらがいまいち掴めない。
引き合いに出されたプルーに関しては(あの容姿に惑わされるが)仮にも小犬座を冠した星霊なので鼻がいいのは理解できる。納得もする。実際、ここに来るまでにたくさん助けられた。ただ……いや、だからこそと言うべきか。犬と同等のそれを持つナツは人間離れしているとしか表現のしようがなかった。少なくとも私には真似できないだろう。
元から五感が優れていたのか、はたまた滅竜魔法という不思議な力がそうさせているのか。かつて、怪獣や悪魔の一言二言で片付けたそれは、改めて聞くと自らの体を竜の体質へと変換させる魔法らしい。故に、もしかしたらその作用で嗅覚が発達しているのかもしれない、と思う。とはいえ、ドラゴンの鼻がとびきりいい、なんてイメージは今まで抱いたこともないのだけれど……。いや、今はそんな推測をしている場合ではないか。
「……グレイ」
くるりと振り返り、彼の名を呼ぶ。グレイは未だ砂浜に座ったまま、どこか遠い目でぼんやりとボートの残骸を眺めていた。ぱちり、と思考が弾けるように黒い瞳がひとつ瞬く。そうして、ゆったりとこちらを映した双眸には心なしか疲労が浮かんでいて。非難めいたそれが果たして自分へ向けられたものなのか、かの人魚へ宛てたものなのかは判然としなかった。あるいは両方だったのかもしれない。
「あの、巻き込んだ私が言うのもおかしな話なんだけど……。村までは一緒に行かない、かな?」
「あ……?」
「ボートはその……壊しちゃったし、今すぐ海を渡るのは難しいだろうから。帰る手立てが整うまでは村に置いてもらえるかもしれないし、もしかしたら船か何か借りられるかも……」
言いながら、彼に歩み寄りそっと手を差し出す。我ながら我儘な主張にしか思えなくて、この手を取ってもらえるか不安だった。しかし、こんなところに放置していく選択肢もない。「どうせもう連れ戻せねーんだし、そんなやつほっとけよ」「ルーシィは律儀だから……」背後でつまらなさそうなナツの声音と、先程離れていったハッピーのしみじみとした呟きが聞こえたが、今は気にせず目の前の人物を窺う。
たぶん手を弾かれても不思議ではない状況だった。なけなしの覚悟もしていた。けれども、そこには予想していたどの反応とも違う虚をつかれたような無防備な表情があって。え? と何を言うべきか決めかねているうちに、彼はこちらの手を見て、私を見上げ、さらには後方の二人に視線をやった、と思う。「あー……」と気怠げで脱力したような、ため息にも似た吐息が落とされた。
「そうするよ」
ふと、掌に少し低めの体温が触れたかと思うと、ぐんとグレイが立ち上がった。間を置かずに熱は離されて、すっかり仰ぐしかなくなった彼をなんとなしに目で追う。視線が交わろうとする前に、つと逸された。何かを誤魔化すみたいにがしがしと片手で頭をかく彼は「ただし」と言葉を付け加える。
「村で待つなんてしねえ。オレもS級に同行する」
「え?」
後ろでナツとハッピーの驚く気配がした。かくいう私もすぐに理解が及ばずに呆けていると、洋服に付着した砂をはたきながらなんてことないように彼は続ける。
「やっぱり、おまえらだけ先に二階行くのもシャクなんだよな。破門になったらそれはそれでつまらん」
行こうぜ。と、不敵に笑むグレイを見て、ようやくその言葉が好意的な返事なのだと気がついた。直後、ふわりと胸の底から溢れたのは間違いなく安堵と感謝の念だった。けれども、同時に沸き起こるのはそれを遥かに上回るほどの罪悪感で。身を裂くような黒い感情が澱み、柔らかく包まれた心を蝕んでゆく。気が重くなる。
だって、そうだろう。今この場で私達に味方をするということは、つまり彼にも何らかの罰が下されることと同義だ。承知の上でルールを破ったこちら側とは明確に状況が違う。違いすぎて、それが本当に望まれた選択なのかわからなかった。仕方なく選ぶしかなかった、と言われてもおかしくない。破門、という強烈な単語がぐるぐると脳内を巡る。
咄嗟に何かを言おうと口を開きかけ、やめた。たぶん、引き留めるような否定的な言葉を紡ごうとしていた。できなかったのは、ならば他に良い案があるのかと問われた際に、自分よりもずっと強い彼を説得するだけの自信がなかったからだ。村で待っていた方が安全だ、という主張はもれなく自分への特大ブーメランになってしまう。かと言って、今すぐギルドへ送ってあげられるような手段もない。何よりも、そもそもの原因にも等しい自分にこれ以上ごねる権利などないと思ったから。
だから、ずるい私は全てを飲み込み、彼の優しさに甘えた。興奮気味に先へ向かうナツとハッピーを追いかける広い背中に「ありがとう」と一言だけ、微かに残っていた偽りのない心の形を囁く。呼び止める勇気も、踏み込むことが許される絆もあるわけがないから、その時のグレイにちゃんと届いたのかを確かめる術もなかった。
♦︎
「お! 見ろよ、ハッピー! 美味そうな木の実!」
「あい! オイラ取ってくる!」
「うお、向こうには見たことねえ生き物が……!」
「おいコラ、ナツ! 案内役がふらふらしてんじゃねーよ!」
「ぐほっ!? てめグレイ……っ、マフラー掴むんじゃねえ!!」
「(…………兄弟か??)」
まだ遥か遠く