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村長さんのご厚意によって貸し出された空き家にて。


「月を壊してくれ、か……」


野宿を免れた喜びを噛み締める暇もなく、随分と壮大な話に頭を抱えていた。まさか、衛星をまるごと一つ破壊しろ、なんてとち狂った願い事をされるとは思うまい。もちろん、彼らにとっては至って真剣で切実な祈りなのだろう。しかし、結論から言って無理な話である。不可能以外の何物でもない。どう考えても現実的な内容ではなかった。


「見れば見るほど不気味な月だね」
「うん……」


じっと夜空の様子を観察していると、てちてちとこちらにやって来たハッピーがぴょこりと窓枠に飛び乗った。青と白の尻尾がゆらりと不安げに揺れる。彼の瞳にも同じくぼんやりと紫色に光るそれが映っているのだろう。奇妙な光景だ、と思う。村長さん曰く、この月の光を浴びすぎると私達も悪魔になってしまうらしい。恐ろしいけれども、どうも上手く想像がつかなかった。


「それにしてもまいったな」
「さすがに月を壊せってのはな……」
「何発殴れば壊れるか見当もつかねえ」
「壊す気かよ!!」
「……いや、壊すのはやめた方がいいと思う」


ナツならやり遂げてしまえそうだから怖いなあ。と、そう思いながらハッピーをそっと床に下ろし、木板で造られた簡素な窓を閉める。本当に人体への影響があるかはわからないが、なるべく危険は避けた方が無難だろう。背後で繰り広げられていた二人の会話に混ざりつつ振り向くと、グレイがだよなと言わんばかりに深々と頷いてくれた。


「そもそも無理なんだよ。月を壊すなんてよぉ」
「でも、月を壊せってのが依頼だぞ。できねえってんじゃ妖精の尻尾の名がすたる」
「できねえモンはできねえんだよ! 第一どうやって月まで行く気だよ」
「ハッピー」
「さすがに無理」


そりゃそうだろう。小さな青い手をひらひらと振って否定するハッピーに、彼が冷静でよかったと安心する。何せ、月までの距離は軽く飛んで行けるほど近くはないし、きちんとした装備もなしに宇宙に放り出されてみろ。空気のないそこでは当然呼吸はできず、酸素が欠乏した体は数分と意識を保っていられない。文字通り、あっという間に死んでしまうだろう。これらは少し調べた程度の知識だが、宇宙空間で生きていられないことなど、きっと子供でも知っている。

ただ、今回「月を壊せない」と言ったのには物理的に無理という以外にも理由があった。単純なことだ。


「あのね、やっぱり月を壊すのは現実的じゃないと思うの。月まで辿り着けないっていうのもあるけど、それよりも“月がなくなった”場合の弊害がまずい……」
「ヘイガイ?」
「考えたこともねえな。そんなにやばいのか?」
「何があるの?」


三人とも摩訶不思議な問題に直面したように首を傾げるので、昔どこかで見た記憶を掘り起こしながら、指折り数えていくことにした。普通に生活をしていればいちいち気にするような内容でもない上に、こちらの世界では学校などの教育機関があまり発達や浸透をしていないため知らなくてもおかしくはないだろう。

もし、と思う。もし、高校や大学が当たり前に存在していたなら。そして、そこに通うことが一般的とされる前の世界のような風潮があったとしたなら。そうしたら、目の前の彼らは今頃、魔導士ギルドなんていう危険極まりない場所で働かずに粛々と黒板に向き合っていたのだろうか。未成年でバイトをするでもなく、リスクを伴う仕事へ身を投じるのだから、この世界はなかなか子供に厳しい。


「えっと、いくつかあるんだけど……」


少し脇道に逸れた思考に蓋をして、ひとつ指を折る。

まずは、月明かりがないせいで夜が真っ暗闇になってしまうこと。周りに街灯や炎などの光源がなければ、自分の手元すら見えないほどの完全な闇が訪れるだろう。

二つ目、月の引力が消えて海の満ち引きがなくなる。生態系は崩れ、多くの生き物は絶滅の道を辿るかもしれない。

三つ目、引力の関係で遅くなっていたはずの自転速度が速くなり、一日の時間はなんと数時間程度になってしまうとか。確か、通常の三分の一くらいだったはず。つまり、たったの八時間で一日が終了する。

四つ目、自転が速くなったことにより、強風や砂嵐が頻発するようになる。おそらく人が住めるような状況ではないだろう。

それから、地軸が不安定になってしまうこと。これがまあ、言葉の印象よりも余程怖い影響があり、温度は灼熱から極寒までの差が生じ、地域によっては長く白夜や極夜に見舞われ、さらには四季がなくなるらしい。全部が全部、同時に起きるわけではないようだが、逆に言えばどれが起きてもおかしくないということ。当然、環境や大気の流れなども変わってくるだろう。

思い出せるだけでもこの通り。月を失ったこのち(地球って言いかけた。危ない)……アースランドで人が生きていくのは非常に困難である、と。五本の指が折り曲げられ、拳の形になったそれに一度目を落とし、ゆっくりと顔を上げる。


「仮に月を消滅させることで村の人達の呪いが解けたとしても、その先に待っているのが人類の滅亡じゃ意味がないでしょう?」
「……博識っつーか、その知識どこで仕入れてんだ…………?」
「何言ってっかわからん」
「オイラ魚食べられないのは困るよぉ」


まず視界に飛び込んできたのは、目を点にしているグレイだった。情報量に圧倒されたのか、はたまた単純に理解が及ばなかったのかは定かではない。それから、つと視線を横にずらす。と、もはや聞き取る努力をやめた様子のナツが、なんとも白けた表情でぐでりと椅子の背もたれに蕩けていた。下を向く。ゆさゆさ、とハッピーが小さな両手で正座をする私の膝元を揺らしている。どうやら、彼は海の生態系の部分にしか興味がないらしい。

うーん、これぞカオス。こんなにも伝わっている気配がないことがあるだろうか。しかし、思索を放棄するわけにはいかなかった。ここできちんと総意を得ておかないと、やっぱり月を壊した方が手っ取り早いだろ! なんてことになりかねない。主にナツが。そうなってしまえば、きっとこの星諸共お陀仏である。それはちょっと遠慮したい。

さて、どうするか……。そう考えを巡らせたのは、けれども意外と短い時間だった。脳裏を掠める初仕事での出来事。豪華な屋敷と広い図書室。桜色の彼の手にある一冊の本。そうして、あっさりと消された炎を。私は、覚えている。記憶の中の熱が現実に反映されるように、胸の辺りを柔く包んだ気がした。

きっとナツなら……依頼人の心を優先する彼ならば、こういう言い方を見過ごせないはずだ。耳を傾けてくれるはずだ、と。決して少なくはない期待を込めて、意識して言葉を選んだ。


「呪いが解けてせっかく元通りになったのに、月を破壊したせいで今度は別の被害に見舞われる……。もしそうなったら、もうここの人達は安心して生活なんてできないよ」
「む」
「だから、月を壊す以外の方法で呪いを解くのが一番いいと思うの。……どうかな?」


ここは異世界だ。もしかしたら、月を破壊したところで先に述べたような災害は起こらないのかもしれない。でも、それは選べない。何故なら、リスクが大きすぎるから。壊した後で、やっぱり影響がありました滅亡です、だなんて笑い種にもならないだろう。

果たして。しばし悩むように眉を寄せていたナツは「まあ、期間限定の妖精の尻尾特製月見ステーキなくなったら困るしなァ」と一言呟いた。うん?? その発言の意味を深く捉える前に「月見自体ができなくなるしな」「オイラ、月見塩魚なくなるのは嫌だ」とグレイとハッピーが続く。おいおいおい、待て待て待て。ついさっき、月を失った場合の世にも恐ろしい弊害の例を五つも挙げたというのに言うことがそれか……?

つまり、なに?
渾身の説明は食欲に負けたってこと??


♦︎


「よし! そうと決まれば明日は島を探検だ! 今日は寝るぞ!」
「あいさー!」
「だな。細かいこと考えるのは明日だ……」
「「「すぴー」」」
「(…………まあ、月を壊さないなら何でもいいか……)」
月を壊すということ