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話し合いが終わるや否や、自分以外の三人は驚くほどの勢いで寝床に飛び込んでいった。それはもう、ふかふかのベッドにはしゃぐ子供のような俊敏さで。しかし、実際は硬い床に布切れを敷いただけの簡易的なものだ。野ざらしでないことは救いだが、正直落ち着いて仮眠ができるかさえ危ういだろう。

……と、思っていた頃もありました。予想に反して、あっという間に夢の中へと旅立ってしまった彼らを唖然と見つめる。なんと気持ち良さそうな寝顔か。まさに、おやすみ三秒と言っても差し支えないほどの早業であった。もしかして、魔導士ギルドという特殊な仕事の関係上、野宿などのサバイバル関連に慣れているのだろうか。遠い目で天井を仰ぐ。あり得るな、と思った。同時に、自分もそこへ混ざれるようになったら終わりだな、とも。


「(家のベッドが恋しいなあ……)」


贅沢を言える立場にないことなど重々承知しているけれども。すでに揉みくちゃにされてしまった中央の寝床を見て苦笑を浮かべる。村人が気を利かせて三つ並べてくれたはずのそれは、我先にと両脇を占拠したナツとグレイの寝相によって、もはや原型をとどめていない。大惨事。ただ、今は考えなくてはならないことが多い上に、慣れない環境下。加えて、非常に危険とされる依頼の最中ということもある。目が冴えるしかない条件が揃っていたのはある意味幸いであった。

それに、きっと三人は疲労が溜まっていたはずだ。ナツは乗り物酔いで長い間ダウンしていたし、グレイは振り回されっぱなしでさぞ目の回るような展開だっただろう。ハッピーも短時間とはいえ、海に潜って人の捜索をしたのだ。そっとしておこう。


「(……今のうちに情報を整理しないと)」


意識して深く呼吸を繰り返しながら、両の瞼を伏せる。

暗い視界の中で真っ先に脳内に浮かんだのは、夜空にぼんやりと光る不気味な紫の月だった。あれだけの人数が等しく観測しているのだから、色覚の個人差だとかそういう簡単な絡繰ではないのだろう。しかし、不自然なのは自分を含めこの島の外から来た誰もが“紫の月を見たことがない”と証言する点と、月の色は初めから紫だったのではなく“何年か前に突然変化した”という点だ。後者の補足として、本来の島は古代からの月光を蓄積して島全体が輝く美しい場所だったという話もある。

それから、姿を変えた村人達について。悪魔と呼ぶに相応しい様相となってしまった彼らは、自分達と同じく島に生息する鳥や犬までにも影響が出ていると言っていた。つまり、呪いの対象は人間だけ、ではなく全ての生き物ということか。また、多くの医者による診断結果はいずれも病気ではないときた。確かな被害があるにも関わらず医学方面で異常はないと判断されてしまえば、追い詰められた彼らが何らかの超常現象を原因と考えるのも無理はないだろう。特に、この世界では超常それは日常だ。

ふと、瞼の裏に多くの涙が思い起こされる。月が紫になると共に自分達の姿も変わり果てた、と。自分を自分たらしめる自我がいつの日か失われるかもしれない恐怖。そして、生まれてから寄り添ってきたはずの体はもはや人間のものと呼べるかもわからない。自分が自分でなくなるというのは、きっと計り知れないほどの絶望感だ。けれども、少し理解できるような気もした。だって、この体は“私”のものではないのだから。


「……? これは、」


どうにかして村人達の悲願を叶えたいと強く心に刻み、ゆっくりと瞼を開いた先。目を閉じていたためか先程よりもはっきりと映る薄暗い部屋の中で、壁際に備え付けられたタンスの影に何かを発見した。小さな塊が落ちている。空き家にしては小綺麗なこの場所は、確かそのほとんどを村長さんの自宅に移動したと聞いた。故に最低限の家具しか置いていないものの、たまに掃除をしているから寝泊まりするには問題ない、とも。

おそらく、掃除の際に見落とされたただのゴミなのだろう。そう当たりを付けつつも手を伸ばしたのは、本当になんとなくだった。かさり、指先に触れる紙のような感触。摘み上げ、くしゃくしゃになったそれを丁寧に開いてゆく。


「え……なに、これ……」


ーー違う、違う! どうして。みんなおかしい。なんで伝わらないんだ。


埃を被ったその殴り書きのメモは、まさしくホラー映画の一場面のようでぞっと背筋を凍りつかせた。


♦︎


夜の空気は少しひんやりとしていた。昼間の湿度の高い風も今は鳴りを潜めている。


「やっぱり、紫だ……」


結局、家の中に居ても寝付けそうもなかったので、気分転換と情報収集も兼ねて外へ繰り出した。部屋を探索するために動き回り、みんなを起こしてしまうのも忍びない。とはいえ、現在のこの島で夜空の下を出歩くという行為は大変危険だ。できるだけ不安要素を消し去りたくて扉の付近にあった和傘とよく似た傘を拝借してきたが、果たしてこれに効果があるのだろうか。無いよりはマシか。気分的にも。

傘を僅かに傾け、恐々と夜空を仰ぐ。月という存在にはどちらかと言えば神聖なイメージを抱いていた。だからなのか。月が呪いの原因だと聞いてもあまり実感が湧かなくて。決して村人達を疑っているわけではないのだ。ただ、ずっと何かが引っかかっている。紫の月が出ている間だけ悪魔に変わる呪い……だとしたら日中に一部が変化していたのは何故だろう。単純に、月の見えない時間は呪いが抑えられているからなのか。

それから、村長さんの息子だったらしいボボさんのことも気にかかる。驚くべきことに、彼はすでに故人だと聞かされたのだ。曰く、朝になっても元の姿に戻れずに、あげく心を奪われたから仕方なく、と。他の者を守るための苦渋の決断だったことくらいはわかる。村長さんが持っていた彼の写真には涙の跡がいくつもあったから。でも、おかしいのだ。グレイはボートの上で忽然と消えた彼を幽霊と言っていたけれど、とてもそんな風には思えなかった。

だって、ボボさんには体温があったのだ。ハルジオンの港でボートに乗る際、何気なく差し出された掌はちゃんと温かかった。本当に幽霊なら、温度という概念があるかすら怪しい上に、そもそも触れられないはずではないか。


「ーー眠れないのですか?」
「ひゃっ」
「ああ……! すみません、驚かせるつもりは……!」


じっと片手を見つめ思考を巡らせていたせいで周囲への注意力が散漫になっていた。ほんの数センチ宙を舞った傘を慌てて握り直し、振り向く。そこには申し訳なさそうな表情を浮かべた女性がいた。深くフードを被っており、怪しさはあるものの敵意は感じない。たぶん、村人の一人だ。


「こちらこそ、すみません。ぼうっとしていたものですから……」
「いえ、私が悪いんです。急に声をかけちゃって……。あの、その、やっぱり周りが悪魔だらけだと落ち着いて休めませんか?」
「え? あ、いいえ、そんなことありません……! 私はその、ちょっと考え事がしたくてお散歩に」


それと、少しでも多くこの島について知りたくて。そう付け足すと所在なさげな彼女の雰囲気がほんのりと和らいだ。しかし、柔和に微笑むその眼差しと異形のそれらがまるでつり合っていない。きっと、自分自身の姿が相手を怖がらせるものだと嫌でも自覚しているのだろう。痛ましい反応に胸が軋み、話題を変えようと彼女が両手に抱えているものを指し示す。


「あの、それって双眼鏡ですか?」
「はい。私、よく月を眺めてるんです。こんな風になっちゃったのも突然だから、ある日ふと元に戻ったりしないかなって……」
「そうなんですね……。つかぬことをお聞きしますが、月以外に何か不審なものが見えることはありますか?」
「不審なもの? いえ、特には……あ、もしよかったら覗いてみますか? 今日はそこそこ天気がいいので、星も綺麗に見えるかもしれません」


快くこちらへ差し出された双眼鏡を前に数秒だけ躊躇い、けれども本人が許可をくれるならまたとないチャンスだろうと礼を言って受け取った。なんとびっくり、どうやらこれも魔法アイテムの一種らしい。見たいものを映すことで自動的にピントを合わせてくれるそうだ。便利、というかどことなくカメラ機能に似ている。使い方がいまいちわからない可能性があったので助かった。

肩に傘をかけ、できるだけ丁寧に双眼鏡を持ち上げる。そうして、覗いたレンズの先で僅かにぼんやりと歪んで見えたそれらが次第に像を結んでゆく。深い闇色の空。紫に光る月。クレーターもよく見える。それから、宝石のように散りばめられた星々。肉眼で見るよりもずっとはっきりしていてとても綺麗だ。……。うっとりと見入ってしまいかけ、はっとする。

違和感を刻むように、思わず呟いた。


「紫の“星”……?」
「どうかされました?」
「あ、いえ、何でもありません。ありがとうございます。貸していただいて」


内心の動揺を隠し、彼女に笑いかける。きょとりと不思議そうに首を傾げられたが、双眼鏡を手渡すと「どういたしまして」と流してくれた。たった今思い浮かんだ突拍子もない憶測は、しかしただの勘違いと片付けるには難しい。とはいえ、妄想の域を出ないほどに弱いそれを不用意に話題にあげるわけにもいかなかった。前の世界の物差しで測り、万が一違った場合を考えると慎重にならざるを得ない。傘を持ち直し、代わりに別の疑問を投げかける。


「そういえば……月の魔力で呪いを受けるとおっしゃってましたが、具体的にどの程度の光を浴びると危ないのでしょうか?」


数時間なのか、数日なのか。はたまた月や年単位なのか。これからしばらくはこの島に滞在する以上確認したい情報であった。「どの程度……?」「紫の月に変わってから、みなさんが呪いを受けるまでにかかった日数です。依頼を遂行するにあたり知っておきたくて」「えっと……どう、だったかな……」返答とも言えないような曖昧な反応に首を捻る。ひどく悩んでいるらしい。演技には見えないが……しかし、演技をする必要もないだろう。


「えっと、確か何人ものお医者さんに診断を受けたんですよね。その時にも同じようなことを聞かれませんでしたか……?」
「そ、そうですよね。そのはずです。でも、私も含めてみんな必死で……今思えばみんなもちゃんと覚えていなかったような……?」
「そう、ですか……」


妙だな、と思う。悪魔へと変わってしまうなどという強烈な呪いを受けて混乱していたのだろうか。自分の姿が別の何かになる恐怖は、精神を蝕み、記憶をも朧げにしてしまったのかもしれない。あり得なくはない。が、誰一人として日付けを数えないなんてことあるだろうか。日常とは程遠い絶望の中だからこそ、いつかの終わりを願い、何らかの方法で記録を残している人がいてもおかしくなさそうだが……。

他の村人にも尋ねてみようと結論を出し、彼女との会話は切り上げることにした。あまり引き止めても悪いし、これ以上困らせては可哀想だ。諸々の礼を伝え、部屋に戻ると告げて踵を返す。後ろから声がかかったのは、それほど前に進まないうちだった。立ち止まり、振り向く。薄暗いせいで表情がわかりづらいが、切羽詰まったような声音は感情の揺れを思わせた。


「あのっ! その、わ、私……ボボと仲が良かったんです。彼が最後に言っていたことがずっと気にかかっていて……」
「! ボボさんは何と……?」
「『目を覚ませ。おかしくなっているのはみんなの方だ』と」
「……失礼ですが、みなさんにお心当たりは?」
「いいえ。村の人達は皆ボボが心を奪われたからだ、と。……あの、何かのお役に立ちそうですか?」


不安げにこちらを窺う双眸がフードの陰で今にも泣き出してしまうような気がした。自分達に降りかかる理不尽な災いも、友を失った痛みも、そしてその彼の無念を晴らさんとする細やかな祈りも。きっと全てが切実で、彼女らにとって依頼遂行者わたしたちは目に見えて縋れる希望なのだ。それを改めて自覚し、胸の辺りに重いプレッシャーが積み上がり、しかし押し隠してなるべく優しい笑みを浮かべる。少しでも暗雲を取り除けるように。強く、頷く。


「はい。ありがとうございます」


また一つ、真実に近づくためのピースが増えたような感覚がした。


♦︎


ーー翌朝。
「ぱっぽー。ルーシィ様、みなさん、朝でございますよ」
「ん……ありがとう、ホロロギウム。おはよう……」
「んがっ、なんだようるせー、な……あ!? なんだコイツ!!?」
「んぐ、ナツ……てめーがうるせ、え……!? なんだソイツ!!?」
「んぎゅ……なにさ、みんなし……て!? 時計が喋ってる!!?」
「お、おやめください! 私はルーシィ様の星霊でして……!」
「ナツ、グレイ!? その人は敵じゃないからね?? 臨戦態勢やめてほしいな……!!?」
その空の色は